第3話 解き放つ乳房

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 また、現れるのだろうか。
 もう電車を見ただけで、痴漢のイメージが湧いてくる。それだけの回数の痴漢に遭えば、二度と電車など利用したくはなくなるが、作戦上は固定のルートを利用し続けている必要がある。囮の意味合いも兼ねたチェン自身の存在は、違法組織の面々に対して、ある種見せびらかす必要があった。
 一度決めてしまったルートは変えない。
 組織の監視が付いた状態で、決まった場所だけを行き来していれば、その人員の行動はそのルート内へと固定できる。それも含めての采配なので、変えたくても変えにくい。
 とはいえ、いい加減にあと一人くらいは突き出しても良いのではないか。
 懸念しているのは、痴漢さえすれば必ず駅で時間を消費すると見做される点であり、あのフェリーン女だけを特別に捕らえても良いのではないかと、頭の片隅では思い始めていた。
(だいたい、あの女が組織の一員ではないだろうな)
 既に顔は覚えている。
 町の住人であれば、身元はすぐに割れる。逆に割れなくても、消息を掴めない種類の相手であると判明する。よってチェンは仲間に情報を共有し、オペレーターや地元調査員の面々には、捜査対象として指定してある。
 その結果として、単なる町の住人であると判明した。
 ただし、身分上はそうであっても、彼女には性犯罪の前科があり、女同士の性行為がきっかけで過去一度訴えられている。電車で尻に触った挙げ句、腕を引っ張り強引な行動に出た結果、さすがに警察を呼ばれてのことらしい。
 私生活に怪しい動きはなく、在宅で稼いでいるため職場への出勤はない。短時間の働きでそれなりの収入を得ているため、一日の自由時間が多く、空いた時間は満員電車に費やしているそうだった。
 つまり、痴漢相手の物色だろう。
 おそらく、捕まったのが一回だけというだけで、相手の沈黙をいいことに再犯の限りを尽くしている。野放しにしていい種類の人物ではなさそうだが、たった一人の痴漢と、違法組織の摘発なら、やはり優先すべきは後者である。
(まったく、あいつ自身が痴漢に遭えばいいものを)
 周りを痴漢の男に囲まれる経験でもしてくれれば、見知らぬ人間に触られる気分の悪さについて、身を以て学べるだろう。
(まあいい、車両を変えよう)
 いつも同じ車両に乗っているから、あのフェリーン女は現れるのだ。
 今日のチェンは車両を変え、これで彼女と出くわさずに済むだろうかと思ってみるも、隣と腕が触れ合う混雑度合いの中で、やはり尻に手が置かれる。丹念に撫で回し、揉みしだいてくる手つき一つで、もう相手が誰なのかがわかってしまった。
 いつもと同じ触り方をしてくるせいで、タッチ一つでフェリーン女の顔が浮かんだのだ。
(またお前か)
「おはよう? 逃がさないわよ」
(気持ち悪いことを)
 チェンが同じ時間の同じ電車に乗るものだから、たとえ車両を変えようとも、わざわざ追ってきたわけなのだろう。お決まりのターゲットと見做されて、つきまとって来られる気分の悪さに寒気がする。
「今日も黙っているつもり? だったら、声を聞かせてもらえるように、ちょっと工夫をしようかしらね?」
(こいつ……!)
 チェンはすぐさま警戒した。
 またもやピンクローターを持ち出して、胸に押し当ててくるのだろうかと思ったのだ。胸に触れられることを危惧したが、フェリーン女の両手は手前側には回ってこない。むしろ背中の方を触ろうとしていた。
 密着してしまう胸と背中のあいだに隙間を作り、フェリーン女はどうにか苦心しながら腕を差し込む。一体、何を考えているのかと思いきや、ジャケットの内側に手を這わせ、ブラウス越しのブラジャーを探り始めた。
(まさか……!)
 思わぬ想像が浮かんだ瞬間、チェンはすぐさま身を捻る。
 身体を適当にくねり動かし、モゾモゾとしているだけでも、それに対する抵抗としては十分なはずだと考えていた。
 ところが抵抗は上手くいかずに、衣服の内側でブラジャーのホックはパチリと外れ、途端に締め付けが緩んでしまう。こんなところで下着を狙い、ホックをやられた怒りで顔が赤らみ、その瞬間のフェリーン女の手は素早く動く。
 今度はアソコを狙ってきた。
 背中に胸を密着させ、腕を巻きつけ抱きついてきながらの、ショートパンツの上から触ろうとしてくる手に対し、チェンもまた咄嗟に手を動かす。そこばかりは触らせまいと、フェリーン女の手首を掴み、力尽くで払い退けるつもりでいた。
 だが、フェリーン女の両手は素早く逃げる。
 掴もうとした手首がさっと後ろへ引いていき、同時に背中から胸も離れて、チェンとフェリーン女のあいだには一時的な隙間が生まれる。
 そして、またも尻に手が置かれる。
「いい加減に……!」
 チェンは思わず両手とも、後ろに回してしまっていた。
 掴もうとした手首に逃げられて、それを反射的に追いかけてしまっての、自分自身の尻に自らの手を回す動作こそ、フェリーン女の狙いであるとは気づかなかった。
「な……!」
 チェンの両手に手錠がかかる。
 手首に冷たい金属の感触が触れた時、チェンは初めて上手いこと乗せられていたことに気づいていた。
「あら、大変」
「今すぐ外せ」
「駄目よ? それに、大声も出さない方がいいわね。この車両、痴漢常習犯が五人はいるから」
「なんだと……」
「それとね? 気づいても、見て見ぬフリをする方が多いの。だって、みんな自分の人生で忙しくて、他人を助けて遅刻なんてわけにはいかないのよ。会社で働いている人達って、本当に大変よね」
 フェリーン女は全てを見越しているようだった。
 この電車を利用しての痴漢常習犯であるだけに、だから他の常習犯の存在にも気づいており、車内の日頃の環境を知り尽くしている。
 ここは彼女のフィールドなのだ。
 彼女こそが優位となる環境下にチェンはいるのだ。
「それで、どうすると思う? 両手を封じて、ホックも外して」
 フェリーン女の囁きかけてくる声は、全て耳の近くで発する小声であるが、彼女の言うように見て見ぬフリをする方が多いというなら、たとえ周囲に聞こえても、ある意味では問題がないのだろう。
「ところで、次の駅ってこっちのドアが開くんだったわね」
 フェリーン女の胸がべったりと、チェンの背中へと押しつけられ、柔らかな感触が潰れてくる。密着度合いが上がると共に、後ろからかかる体重に、チェンの身体は窓にぶつかりかかっていた。
「じゃあ、こうしましょう」
 なんと、フェリーン女はブラウスのボタンを外し始めた。
「や、やめろ……」
 上から順に、器用に素早く、フェリーン女は一つずつ外していき、チェンの下着がみるみるうちに露出している。
「見えちゃうわねぇ?」
「いい加減にしたらどうだ」
 怒気を含めた声で、チェンは怒りにも羞恥にも赤らんでいた。
「ほら、胸が出ちゃった」
 こんな電車の中でブラジャーが露出しきって、今にも周囲に気づかれはしないかと、気になって気になって仕方がなくなっていた。一刻も早くボタンを戻し、元の状態に戻したくてたまらない、危機感にでも煽られたような焦燥が湧き出していた。
「色が見えにくいわねぇ? 気になるなぁ? 何色なのぉ?」
「黙らないか……いいから戻せ……」
「えぇ? どうしてぇ?」
「戻せと言っている」
「そんなの勿体ないわよ。どうせなら、近くの人にも見てもらったら? ふふっ、その人が痴漢常習犯だったりしたら、男の痴漢まで増えちゃうかもしれないわね」
(こいつは……!)
 チェンは歯をぐっと噛み締めながら、いよいよこの痴漢常習犯の女に対して、法的な対処を考え始めていた。今の今まで、任務のために堪えていたが、もはやこんな女を野放しにしておくわけにはいかなかった。
 しかし、手錠で後ろ手に拘束され、ブラウスのボタンまで開けられて、この状況に至って初めてそう決意したのでは、いくら何でも遅すぎていた。
「ほら、見えちゃった」
「く……!」
 ブラジャーが持ち上げられた。
 ホックが外れていることで、締め付けの緩んだブラジャーは、あまりにもあっさりとずり上がり、こんな電車の中で乳房が丸出しとなってしまう。
 窓際だからまだ良かった。
 身体を窓に押しつければ、少しでも周りから見えないようにできるのだが、だからといって生の乳房が出ているのだ。下着の露出とは比べものにならないほどに、周りに気づかれたらどうしよう、何としても隠し通さなければという焦燥と危機感が湧いてくる。
「あらあら、あなた自身が露出狂の変態さんね?」
「貴様……!」
 恥辱を煽られ、赤らみが耳まで及ぶ。
 頭ではわかっているのだ。
 あくまで被害に遭っている状態に過ぎず、法の場ならフェリーン女だけが断罪される。この前後の状況をもってして、チェンが露出で捕まるなどないだろう。
 そうと理解していながら、どうしても胸に膨らむものは、さも自分が悪いことをしているような感覚だ。胸を自ら出したのでなく、出させられたにも関わらず、露出行為を働いている罪悪感が胸中を漂っていた。
 治安を守る側の自分が、盗みや暴力といった平和を直接荒らす行為ではないとはいえ、公共の風紀を乱している。
 この状況はたまらなく焦燥を煽るものであり、チェンは怒りと恥ずかしさで顔中を熱っぽくして、汗を噴き出しつつあった。
「ねえ、気づかれちゃったらどうする?」
 フェリーン女は楽しそうに囁いていた。
「隣の人、チラチラと見ていたりして。それからほら、私のすぐ隣にいる人って常習犯なの。今は誰も触っていないみたいだけど、あなたのオッパイに気づいたら、一体どうしちゃうかしらね?」
 それは遠回しに、チェンのことを男の性犯罪者――それも、複数いるらしい痴漢の群れに差し出すことは簡単だと言っている。フェリーン女一人の相手をするのと、複数の男に触られるのと、一体どちらが良いかという選択を迫る脅迫に、チェンの心中はますます荒れ狂い、拳に力が籠もっていく。
 力むあまりのチェンの拳は、悔しげに震えていた。
「ねえ、あなたの乳首って、どれくらい敏感なのぉ?」
 背後から手が回る。
「やめろ……!」
 窓に胸を押しつけて、触られまいとはしてみるものの、折り悪く電車が揺れる。そのせいで動いてしまった身体は、窓とのあいだに隙間を作り、手を乳房に届かせるための隙を生み出してしまっていた。
 生の乳房に指が絡んだ。
 フェリーン女は真っ先に乳首を狙い、指先で集中的にくすぐり始める。
「やめろ…………」
 チェンの胸には刺激が走る。
 乳首をやられる快感に、みるみるうちに血流が集まって、固く突起してしまう。
「あらぁ?」
 人の反応を悟ってか、耳元に触れるフェリーン女の声は、愉悦に満ちたものとなっていた。
(だいたい、どうしてここまで出来る……)
 いくら痴漢が多く、気づいたところで見て見ぬフリをする方が多数としても、犯罪現場を他人に目撃されるのは、普通は避けたいところのはず。こんな場面を人に見られでもしたら、やはり彼女自身とて、困ったことになる可能性はあるはずだ。
 リスクが皆無であるとまで、さすがに思っていないはず。
 それをまるで、そんな可能性など無視したように、チェンに手錠をかけた上、乳房を露出させる真似までしてくるとは、人の抵抗を堪える気持ちでも読んでいるのか。それとも、ただリスクなどお構いなしなのか。
(くっ、こんな形で感じるなど……)
 いずれにしても、チェンはぐっと歯を噛み締める。
 不本意に感じさせられ、乳首に甘い痺れが走り続けている状況に、屈辱ばかりを表情に浮かべていき、眉間に深い皺を刻んでいた。