第2話 狙われた龍

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 社内で再び、今回の任務に関わるオペレーターと、企業重役や治安維持局の面々が一箇所に集まっていた。
 昨日のうちに話し合った内容も含め、違法組織に関する対策会議を改めて行うわけだが、大きなテーブルを囲むいくつものソファの一つに腰を沈めた時、隣に座る青い髪のサンクタが途端に声をかけてきた。
「ありゃ? ご機嫌斜めだね」
「モスティマか」
「早速、何かおありのようで?」
 そう尋ねてくるモスティマだが、痴漢のことなど知りはせず、ただ単に事件絡みの何かが起きたと思っているわけだろう。
「いいや、何でもない。満員電車というものに慣れないだけだ」
「あー……。それはわかるね」
「すまない。不快にさせるつもりはなかったが」
「ま、どこかで発散しておかないと、蓄積する一方だものね。いつかは取り繕ってもいられなくなるものさ」
「だろうな。この件が片付いたら、気晴らしをした方が良さそうだ」
「美味しい店なら教えてあげるよ」
「もうそんなチェックを……」
 行動が早いものだと思いつつ、やがて始まる会議に合わせて私語を慎む。
 チェンは改めて捜査方法に関する案を述べ上げ、それに必要な人員や配置についてをつつがなく伝えていく。
 この会議は、ほとんど確認作業のようなものだった。
 ロドスに協力依頼が来た段階から、必要な資料にはとっくの昔に目を通してあり、そして昨日の打ち合わせでも、必要な人員についての申請は済ませてある。
 チェンが一通り喋り終われば、次は治安維持局の者が立ち上がり、それら必要な準備は整っていることについて述べ始める。
 違法組織摘発は、おそらく実現できるだろう。
 相手の想定規模、活動時の隠蔽能力から、捜査に対する撹乱工作にまつわる報告も、事前資料で目を通してあるものの、それらは全てチェンの手腕でどうにかなる範囲内だ。チェン自身という囮兼牽制と、モスティマの存在と、現地調査員に加えてロドスのオペレーターによって構成する捜査網は、必ず違法組織のメンバーを引っかける。
 しかし、この移動都市並び企業からの依頼を達成しても、ロドスにとってはまだ先がある。
(……ドクター)
 チェンはフードの男に目を向ける。
 ロドスの活躍をそのまま交渉材料とすることで、この都市の企業や政治家と良い取引関係を締結させる。そこまでがロドスとしての最終的な目標であり、違法組織摘発はいわばそこに到達するための通過点だ。
(任せておけ)
 バイザー越しの眼差しと、目が合ったような気がしたので、チェンは目つきでそう返す。
 会議は終わり、解散となったところで、いよいよ捜査活動は開始となった。

     *

 チェンは再び電車に乗る。
 違法組織の視点からしてみれば、一見して企業の機密情報運搬は、モスティマが任されて見えるだろう。そして、そのモスティマを囮にして、市内を動き回るチェンが違法組織の動きに目を光らせ、隙を見せれば直ちに捕らえるための構えを形成して映るはず。
 ならば組織がモスティマの動きを追うのは当然として、チェンの周囲にも今頃は監視や尾行が付いている。複数の監視要員を駆り出して、尾行や待ち伏せによる動向監視は、全て人海戦術的に行うはずだ。
 向こうにとって、重要人物として特定ができているのは、ロドスのメンバーの中ではチェンとモスティマの二人のみである。その他のオペレーターは、せいぜい現地入りのみが伝わっていり、具体的な顔や名前までは割れていない――そのように調整してある。
 組織による監視の目は、チェンとモスティマにより集中しやすくなる。
 そして、わかりやすい運搬役と、あからさまな牽制を目にすれば、向こうも深読みをしてくるだろう。その結果として、本当に機密情報を運んでいるのはチェンであり、モスティマを追っても空振りになる可能性を考えることもありえる。
 チェンは実際に機密データを持ち出していた。
 サイバー犯罪などの手口を恐れ、送受信によるやり取りを避けたいデータを保存媒体にコピーして、それを誰かが外に持ち出す。届け先へと送り届けるのも、実際に仕事のうちに入っているが、この運搬行為自体にエサとしての役割を含ませている。
 チェンを狙った動きを釣り出せれば、周囲に張り込んでいる誰かがそれを察知して、組織の一員であろうものを調査リストに加えて身元を割り出す。組織に深く食い込んでいそうな者ほど詳しく調べ、違法組織の情報を洗い出す。
 と、そういった捜査網を形成して、違法組織の一員をこうしている今にもその内側に引っかけているはずなのはいい。
 いいのだが――。

 ……さわっ、

 何故、またもや痴漢に遭わなくてはいけないのか。
(この町に来てから、本当にロクなことがないな)
 そもそも、満員電車というのが悪いのだ。
 他人と接触しやすい状況こそ、魔が差したり、理性を抑えられなくなったり、環境に乗じて痴漢を行おうとする輩を生み出す。
(……だいたい、また同性とはな)
 背中に当たる柔らかな感触で、真後ろに立っている者の性別を悟っていた。
 ここまで電車に乗り続けて、乗るたびに毎回必ず痴漢に遭っているチェンなのだが、そのうち二回が女性による痴漢とは、一体どんな確率だろうか。人を痴漢に走らせる多くは、男性特有の欲望が元であると思っていたが、チェンが想像していた以上に、同性愛の気質を持つ上で、しかも犯罪に走る手合いは世の中にいるわけなのか。
(まったく不快感甚だしい)
 こんなところで表情を取り繕う必要もなく、チェンは窓に向かって不機嫌をあらわにする。
(まあいい。すぐに飽きるだろう)
 こう何度も遭っていれば、いちいち対応するのも疲れてくる。
 もしもここで暮らしたら、本当に毎日のように痴漢を突き出し、日常的に警察を頼る日々にならないか。そんな日常を想像すると、もうそれだけで辟易する。もはや尻を触れるくらい、任務など関係無しに、いっそ我慢してしまった方が良いのではないかと思えてくるのは、ある種の感覚麻痺であろうか。
 やがて電車が目的の駅に到着した時、チェンは徒歩数分のビルへ向かう。
 情報媒体を届けると、それと交換で社員がチェンに渡してくるのは、捜査網から得られた調査報告だ。現段階ではどこまで捜査が進んでいて、どれほどの情報を得られているか。その報告に目を通すため、チェンは一度ホテルに戻り、部屋の中でゆっくりと確認する。
 漏洩に気を遣う必要さえなければ、喫茶店の中でノートパソコンを立ち上げても良かったが、ものがものだけに一般人による覗き見すら避けていた。
「なるほどな」
 ロドスのオペレーターで、現地入りの情報が伝わっているのは、チェンとモスティマの二人だけである。よって、現地入り自体が割れていない、他の大半のオペレーターは、誰に警戒される様子もなく、それぞれが町の中で自由に過ごしている。
 ベンチで鳩に餌をあげたり、喫茶店のコーヒーを楽しんだり、男女でデートスポットを歩いたり、そんな風に過ごしている面々が、実際には周囲の人々に目を光らせ、違法組織の動きについて監視している。
 違法組織の中には顔の判明している者がいる。
 顔がバレている連中は、自分が監視網の中を動いているとも知らず、オペレーター達の視線を気づきもせずに浴びている。監視網にかかったメンバーの、どの時間にどの付近を徘徊していたかは、その都度記録に残していけるわけだった。
 そういったものの蓄積が捜査の一つだ。
 誰がどの時間、どこにいたのか。
 それを毎日のように記録して、情報として蓄積していく結果として見えてくるものがある。毎日同じように過ごしていた人間が、急にある時になって友人と物の受け渡しを行っていれば、それが組織活動の一環かもしれない、という当たりを付けられるわけでもある。
 現地治安維持部隊が私服で活動していることもあり、ロドスで用意できる人員以上に、チェンが管理している監視網は大きなものだ。その中には特定の施設に侵入して、建物の中から情報を盗み出したり、カメラや盗聴器を仕掛ける活動も含まれており、それらを含めて報告内容は膨大なものとなる。
 チェンはそれらに時間をかけて目を通し、全てを頭に叩き込んだところで、必要最低限の休息を取り、再びホテルの外へ出る。
 モスティマにはダミーの運搬を任せてある。
 そのダミーの運搬が上手くいったか、途中で何かなかったか、直接会って報告を受けるため、待ち合わせの場所へ向かう。トランスポーターとチェンの交流というものを、違法組織の面々にあえて見せつけ、アピールをしておくのも、今回の作戦の一環だ。
 しかし、その待ち合わせ場所への移動には電車が必要となっており、それに乗るということは、またしても痴漢の恐れがあるというわけで……。
 もう気乗りしなかった。
 乗ればまた触られる。
 その予感があるせいで、電車そのものに対して苦手意識が芽生えてくるが、幸いにもその時の乗車は座席に座れてしまう程度に空いており、だから痴漢が出る余地もなかった。

     *

 翌日、ホテルから企業ビルへ向かう際、朝の電車はやはり混む。
 他人と身体がぶつかり合ってしまう人口密度は、どうしても痴漢が出やすいらしく、尻に手が置かれる感触に辟易する。
(……またか)
 手で払いのけようと、腕を後ろに出しておいたり、肘打ちをするなりの抵抗は試みるが、関係無しに続けてくるのは、またしても女であった。
 背中に当たってくる柔らかい感触で、痴漢の性別が伝わって来た。
(どういうことだ。まったく……)
 チェンは憤然としつつも抵抗を繰り返すが、払い退けようとする動きに対して、痴漢の女はもう片方の尻たぶに手を移す。肘打ちを腹に当てても構わず続けてくる図太さに、より一層のこと辟易していた。
 なるほど、女が性犯罪の加害側に立たない保障はない。
 しかし、普通は男が犯す犯罪だという感覚はどうしてもあり、だからこそ繰り返し現れる痴漢がまた女であることへの意外さについて、何かを思わずにはいられない。
 こうなったら、やはり駅員に突き出そうかという考えが頭を掠めていった時、ちょうど良く電車が駅に到着する。それも、チェンが降りる駅への到着で、チェンの目の前にあるドアが開くので、仕事を優先したい気持ちを思い出し、仕方なしにそのまま降りる。
 その翌日も、さらに翌日も、チェンの周りに痴漢は発生し続けた。
 さすがにおかしい。
 単に痴漢の多い電車というなら、犯罪率の高い場所へ身を投じているからという、理屈はひとまず理解する。治安が悪い場所へ赴き、護衛や武器も無しに金品をチラつかせても、良いことは何一つない。痴漢だらけの電車に女が乗るのは、それと似たようなものだと捉えることはできるのだが、納得がいくかと言われればまた別だ。
 誰が好きで痴漢を受け入れるものかと思う。
 満員電車というだけでもストレスなのに、プライベートゾーンに見知らぬ他人の手が触れてくる不快感まで加わるなど、いい加減に耐え難くもなってくる。
 何より、どうして女の痴漢ばかりなのだろうか。
 駅で電車を待っている際、そして乗車した後の周囲の景色も、どちらかと言えばスーツを着込んだ男が多い。男女比という点でいっても、確率としては男の痴漢に遭う方が普通だろうに、それが女の痴漢ばかりに触られる。
 次の日も、また次の日も痴漢に遭う。
 その毎日の痴漢の中で、必ずといっていいほど背中に柔らかい感触が触れるので、どうして同性ばかりから触れられるのかと、不思議にすら思っていた。
 こう何日も耐えているのだ。
 やはり、トラブルを起こしたくはなく、すぐに停車駅へ到着するだろうと、チェンはとうとう無視を決め込んでいた。腹の底では手首を掴み、突き出してやりたい気持ちではいるものの、肘打ちをかましても、足を踏みつけても、その抵抗のことごとくが通じないのだ。
 本当に何とかしたかったら、それ以上のことをするしかなく、そうすると痴漢の対処に時間を使うことになる。
 だったら、もう構うことはやめていた。
 ハエやゴキブリの多い場所にでもいると思って、不快感はぐっと堪え、到着するなりさっさと振り切り、振り向きもせずに降りるようになっていた。
 だが、その対応がどうやら痴漢の意思に火を点けていたらしい。

「おはよう」

 次の痴漢に遭った時、背後に密着してきながら、耳元に囁いてくるねっとりとした声に、チェンはあからさまに顔を顰めた。窓ガラスの反射に映る自分自身の表情は、嫌悪感を隠しもしない、露骨に嫌がるものだった。
「…………」
 チェンは言葉を返さない。
(フェリーンか)
 ただ、真っ直ぐ前だけを見てはいるものの、肩に顎を乗せんばかりにしてくるフェリーン女の横顔は、ギリギリで視界のフレームに収まって、だから意識的な確認などしなくとも、相手の種族はわかってしまった。
「あら? 返事はしてくれないのかしら?」
「…………」
「嫌われちゃった? でも、あなたってとっても凜々しいから、たとえ嫌われようとも惹かれてしまうのよ」
「…………」
「ねえ、あなたって、本当にいい目をしてるわ。警察? 軍隊? 何か戦いの経験があるんでしょう?」
「…………」
「あなたのヒップ、とっても好きよ? 毎日触りたくなるくらい」
(毎日だと?)
 無視を続けるチェンなのだが、心の中では反応を示してしまう。
 そういえば、わざわざ後ろを振り向いて、顔を確認しようと思ったことは、一体何度あっただろう。
「気づかなかったかしら? まあ、私も帽子を被ったり、サングラスをかけたりしていたから、たまには別人に見えたかもしてないわねぇ?」
(一人で勝手に、よく喋る奴だ)
「でね? 最初はほら、私に構ってくれたでしょう? 色々と反応を示してくれていたじゃない?」
(何をおめでたいことを言っているんだ?)
 気味の悪い女である。
 同じ人物に毎日狙われ続けていた事実も薄ら寒いが、しかも肘打ちや足を踏みつける行為など、相手に痛みを与えてでも行った抵抗を、構ってくれていたと捉えるとは、一体どういう神経の持ち主なのか。
「だからね? 今日は今までよりもずっと良い反応をして欲しくて、こういうものを用意してきたの」
 フェリーン女は後ろから抱きつきながら、胸に両手を伸ばしてくる。
(こいつ……!)
 自身の胸に視線を落とし、その手を視界に入れた時、フェリーン女が持っていた小さな道具を見るなり歯軋りした。
 ピンクローターを持っていたのだ。
 静音式のせいなのか、ブィィィィ――と、聞こえる駆動音は小さなもので、電車の揺れる物音だけで掻き消される。
(まさか、そんなものを使う気か!?)
 チェンが引き攣った瞬間に、フェリーン女は胸にローターを当てて来る。
「くぅ…………!」
 振動が送り込まれた。
 ブラウスと下着を介して送り込まれるローターの刺激によって、乳首が中心となって震えている。ポイントが読めていたのか、偶然なのか。いずれにしろ敏感な箇所に押しつけられ、チェンの胸には電流が走っていた。
「やっとあなたの声が聞けたわ?」
「……黙れ」
「あら、喋ってくれたの?」
「黙れと言っている」
「ねえ、あなたって、男の痴漢は突き出していたでしょう? 私のことは捕まえなくていいのかしら? それとも、女の私はいいのかしら?」
「調子に乗るな」
 女なら良いはずがない。
 乳房への接触を許せるほど、気を許した相手などではない。ただの見知らぬ他人ごときが踏み入って良い場所ではないのだ。
「くっ」
 チェンは歯を食い縛る。
 思っていた以上に刺激は強く、そうしなければ喘ぎ声が出ると思ったのだ。こんな電車の中で、一般人がいくらでもいるのに喘ぐなど、そんなみっともない真似はするまいと、チェンは唇を引き締めていた。
「よかったわね? そろそろ着くわよ?」
 フェリーン女がそう言うなり、車内には次の駅への到着を予告するアナウンスが流れ始める。気づけば外の風景も、何日も同じ電車に乗っていることで、見慣れた建物が窓に流れ去っていた。
 電車が停まり、ドアが開いた時、チェンはすぐさま肘打ちを入れていた。フェリーン女に思い鈍痛を与えてやるべく、鳩尾を狙った上で、さっさと早足で降りて行く。今頃は痛みに喘いでいるだろうが、ピンクローターまで持ち出す過剰な痴漢の犯人である。警察沙汰にしないだけ、優しい対応だと思って欲しいくらいであった。

     *

「ありゃあ、どうしちゃったわけ」
「なんでもない。さっさと報告を聞かせろ」
「はいはい。なーんにも起きていないね。バレバレな尾行が何人かいたくらいかな」
「そうか」

 座席の周囲を衝立で囲み、個室を形成している飲食店。
 そんな周りに会話を聞かれる恐れのない環境下で、チェンはモスティマからの報告を受け取った。
 その際の、先ほどまでの痴漢を引きずるチェンの機嫌の悪さを見るに、モスティマは呆れたような苦笑を浮かべているのであった。