第1話 奴隷の唯華

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 数年後。
 志波姫唯華は大学のキャンパスから出て真っ直ぐに、とある目的地へ向かっていく。高校生の頃と意外にも外見は変わらずに、しかし多少は背が伸びて、発育も比べて数センチほど進んでいる。
 眼差しは大人びたものへと変わり、当時の唯華を知る者が久々に顔を見たなら、確かな時の流れを感じることだろう。
 もっとも、その胸中は複雑だった。

 もし、あの時……。

 あの日、気まぐれに弟の面倒を見てみようと思い至って、引き受けたりしなければ、今頃はその目的地になど向かっていない。そもそも、あんな体験をただの一度もすることはなく、もっと普通に恋人を作り、青春を謳歌することもあったのだろう。
 しかし、唯華はその運命を辿ってしまった。
 目的の一軒家に着いた時、インターフォンを押して返事を待ち、鍵は開いていると答える幼い声に応じて、唯華は玄関のドアノブを握り締める。こうして家に訪問するのは、一体何度目になるかなど、もうとっくに数えていない。
 ドアを開け、靴を脱いで上がった唯華の行動は、真っ先に服を脱ぐというものだった。
 とっくにそれが当たり前となり、おかしいとは思う気持ちは殺してシャツを脱ぎ、下着まで外していく。粛々と全裸になっていく姿には、まるで自分が格下の奴隷であることを心得ているような、上下関係を悟っての諦観めいた何かが見え隠れしていた。
 ショーツまで脱ぎきって、全裸になった頃合いに、二階の階段からは一人の少年が降りて来る。初めて会った時は十歳だった男の子の、たった二年で随分と背を伸ばし、あの時に比べれば大きくなった少年が、品定めのような目で唯華の裸を視姦する。
 だが、まだまだ小学生には違いない。
 元の顔立ちが可愛げで、つい頭を撫でたり甘やかしたくなるような、くりくりとした瞳の持ち主は、唯華からすれば未だ十分に幼い域にある。
 もっとも、表情が一変すると、可愛いルックスからは想像もできない邪悪の影が滲み出て、いっそ恐ろしく感じるのだ。
「どうした? 挨拶は」
 生意気にも、少年は唯華を見下す。
「……ど、どうも、こんにちは。健太様」
「よろしい。ではさっそく、僕の部屋まで来てもらおうか」
「承知致しました」
 唯華は少年について歩いて、部屋の中へと入っていく。
 二階にある少年の部屋は、机の棚には教科書や参考書だけを並べて、あとはクローゼットやベッドしか置かれていない。何の飾り物もない部屋だが、漫画や小説は電子で買うらしいため、趣味では物が増えにくいらしい。
 もっとも、壁際には数本のラケットが立てかけてある。
 バドミントンは続けており、中学では部活への入部も考えているという。唯華をきっかけにバドミントンに興味を持ち、今でも続けているわけではあるが、その一方でこんな関係になるなどとは、あの時の唯華は想像すらしなかった。
 ふと、思い出す。

「すみません! あの、お姉ちゃんが急に風邪引いちゃって、僕一人で……」

 初めて会う時、件の後輩からは体調を崩したとの連絡が入っており、かといって当日キャンセルもどうかと思い、弟一人を送り出すことに決めたという。弟だけと待ち合わせをすることになり、初対面で声をかけてきた直後の挨拶は、そんな申し訳なさそうに謝ってくるものだった。
 その時は十歳だった少年の、あどけない表情で瞳を潤ませ、丁寧に頭を下げてきた第一印象からは、こんな性格はちっとも予想がつかなかった。

「さあ、今日も何か芸をやってみせてよ」

 これが今の少年――健太である。
 弱みを握られることさえなければ、決してこういう関係にはならなかったことだろう。ふとしたきっかけで付け込まれ、遥か年下の小学生に脅されたのも驚きだったが、たかが小学生の頭脳で唯華を言いくるめるほどの悪知恵にも驚いた。
 そうでもなければ、唯華がこんな状況に陥るわけがなかった。
 おかげで今の関係はどうだろう。
「では、こういうのはどうでしょう……」
 大学生の唯華が敬語を使い、小学生の健太がタメ口で命令を飛ばして来る。
 奴隷か召使いであるように、その命令に決して逆らうことはしない。
 唯華は頭の後ろに両手を回し、スクワットのように腰を低めて、乳揺らしの披露を始めた。身体を揺さぶることで、乳房を上手いことぐるぐると、時計回りに回転させる。単に揺らすのでなく、回るように揺らすのは、この日のために思いついたネタの一つだ。
 こうしたことが、今や週に一度の義務となっている。
 健太との主従関係をもう二年は続けてきて、とっくに尊厳の切り売りの済んだ唯華には、もはやこの程度のことは何でもない。かつて服を脱ぐだけで屈辱を感じたり、いっそ舌を噛み切りたくなったほどの悔しさは、今となっては影も形もなくなっていた。
「へえ?」
 関心したように腕を組み、健太は唯華の芸を品定めした。
 披露した芸で健太を満足させることができなければ、唯華に待っているのは罰ゲームだ。その罰ゲームを回避するため、唯華は懸命に乳房を振りたくり、回転をさせ続ける。巨乳というほどでもないが、高校時代よりも膨れた胸は、柔らかな変形を帯びてぐいんぐいんと、揺らそうとする動きに応じて角度を変える。
 乳首がぐるりと、何周もかけて回り続ける乳回しの芸は、体幹を駆使して力強く行われた。
「なるほどねぇ?」
 その滑稽さに健太はニヤニヤと笑いを浮かべ、そんな笑顔を見ることで、上手く満足させられるかもしれない安心感を得てしまう。芸をやらされ、笑われて、普通はプライドが傷つくところ、ご主人様に無事に喜んでもらえて何よりであるような気持ちが湧くなど、これでは本当に卑しい奴隷だ。
 いつまでも、このままではいけない。
 せめて、いつかはこの関係を終わらせて、健太との縁を断ち切るべきなのに、その未来を今はまだ想像できない。
「よし、もう終わっていいぞ」
「は、はい。健太様」
 言われてすぐ、唯華は芸を中断する。
 健太の顔色を見る分には、決して悪い気はしていなさそうだが、どんな判定が下されるかはまだわからない。
「うーん」
 健太はわざとらしく考え込む。
 腕組みのまま俯いて、深く目を瞑って頭を唸らせ、さも難問にぶち当たりでもしたように、健太は長々と考え込む。
 やがて、改めて唯華に顔を向け、ニっと笑いながら目を輝かせる表情に、すぐに唯華は確信していた。
 駄目だったのだ。
 それも、芸そのものは面白がってもらえたのに、やっぱり罰ゲームは下したいから、本当は合格にしてもいいものを、わざと不合格にする時の悪戯な笑顔だ。唯華にはそんな健太の表情がすぐにわかって、罰ゲームの覚悟を決めた。
 所詮、唯華の方が立場が低く、健太の方が上なのだ。
 たとえどんなクオリティの芸を思いつき、見事披露したところで、それを実際に合格とするか否かは、全て健太の『気分』に委ねられる。たまたま機嫌が悪い時、はたまたは面白い罰ゲームを思いついている時、芸の良し悪しに関わらず、健太はわざと不合格の判定を下してくる。
「唯華、今日は罰ゲームを受けてもらうぞ?」
 それは予想通りの台詞であった。
「すみません。ご満足頂けなかったようで」
「ああ、まったくだ。なんだよオッパイ回すって。馬鹿なのか?」
「…………」
「あんな阿呆臭いこと、よく思いついたな。ろくに再生されてないクソチューバーの動画の方がまだ面白いぞ」
「……すみません」
 それらの言葉を、必ずしも本気にする必要はない。
 そう、頭ではわかっている。
 健太にとって、人をからかい馬鹿にする行為は楽しい遊びの一つであり、つまり唯華という名の玩具を堪能している。自分でみっともない芸を要求しながら、それでいてこき下ろすのも、人を虐めて楽しむサディズムからくるものだ。
 わかっていても、やはり辛いものがあった。
 二年も奴隷であり続け、随分と感覚も麻痺してきたが、たまに思い出したように辛さを思い出し、久しく屈辱を味わう時がある。自分でもどんな時に感覚が蘇り、屈辱を屈辱と感じることができるのか、あまりよくわからない。
 きっと、気分の波によるものだ。
 その日その日の気持ちによって、ふとした拍子にそういうタイミングが巡ってくるに違いなかった。
「ったく、ありえないったりゃありゃしない。この前のお尻フリフリ星人の方がまだマシだったぞ?」
「今度はもっと、面白いものを考えますので……」
「いいって、お前には最初から芸なんか期待してない」
「すみません」
「反省なら罰ゲームを受けながらにしろ。ほら、可愛がってやるからこっちに来いよ。とりあえず、そのすぐに濡れちゃうエロマンコの面倒でも見てやるから、さっさと用意してくんねーかな」
「……はい」
 ありえないほど横柄だ。
 思えば、こうまで唯華のことをこき下ろし、奴隷か玩具のように扱う健太でも、当初は憧れの的にしてくれていた。唯華のプレーに見惚れてバドミントンに興味を持ち、今でも続けているわけだが、それなのに今はこんな関係だ。
 たまに一番最初を思い出し、そして考えてしまう。
 あの時、後輩の申し出を断っていれば――それでなくとも、付け込まれるような隙さえ見せなければ、健太との関係歪な関係が出来上がることもなかったのだ。