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  • 遠野秋葉、保健室にて

    
    
    
     転校生の立場では知る由もなかった。
     その人物は女子高生と接するために養護教諭になったような人間で、もっぱら女子からの評判が悪いことなど、外の人間は知るはずもない。
     お尻を触られた。胸を触られそうになった。
     具体的な被害の声も数件ほど上がっており、内々では問題視の向きこそあるものの、校内で起こったことを大ごとにして、世間を騒がすようなことにはしたくない。事なかれで済ませたい学校特有の体質から、未だ警察やマスコミが出向く事態には至っていない。
     しかし、評判は確かに悪く、初対面であるはずの少女からしても、あまり印象が良いとは言えなかった。
    
    「先生、どうぞよろしくお願いします」
    
     保健室の中、黒髪の清楚なお嬢様が頭を下げる。
     皺一つ無い制服の似合った身なりの良さ、この学校には二人といない美貌に加え、頭を下げる動作一つを取っても、その立ち振る舞いは洗練されている。礼儀作法の板についた彼女の所作は、この少女が遠野財閥のお嬢様であることの説得力をいくらでも高めていた。
     彼女の名は遠野秋葉。
     まだ若いが、亡き父に代わって財閥当主を務めている。
     その当主たる秋葉が転校して、お嬢様学校からわざわざ平凡で一般的な高校へ転入しようというのだから、驚く者は少なくない。
     手続きの際もやたらと理由を気にされて、何度か尋ねられている。養護教諭もまた内心では事情に興味を持っているところだが、しかし彼の眼差しは、そんな個人の事情よりも別のところばかりに向けられていた。
    (へへっ、可愛いなぁ?)
     何故、こんな学校に。
     そんな疑問はすぐさま薄れ、それよりも彼は秋葉の容貌の方に興味を持つ。
     そして、その眼差しこそ、秋葉から見た養護教諭の第一印象を悪くしていた。
     ただでさえ、彼は顔が不細工で体格も悪い。頬の大きく膨らんだ肥満の中年で、首に脂肪のたるみまで作ったいかにも不健康な外見で、髪も薄くなっている。脂の多い体質なのか、皮膚の表面には何かテカテカとしたものが滲み出ており、頬も額も光りやすい。
     皮膚の色合いのせいか、目にクマが出来て見えるのも、不健康な印象を強めている。
     これでにったり気色悪い笑みを浮かべて、あまつさえ鼻の下まで伸ばしていては、視姦めいた眼差しを前にして、思春期の少女が身震いするのも無理はない。
    (いやらしいわね。気持ち悪い)
     初対面で失礼なのはわかっているが、はっきりと気持ちを伝えてやろうかと、本気で考えるほどだった。
     もっとも、秋葉はそれをおくびにも出さない。
     単に目つきが不快な分には、やはり初対面の礼儀を守り、正しく振る舞う。内心ではさっさと養護教諭の前から失礼したいとは思いつつ、しかしここには身体検査を受けに来ていた。
     元から在籍していた生徒は、健康診断や身体測定をとっくに所定の時期に受けている。
     だが、秋葉は違う。
     もちろん、前の学校では受けているが、転入手続きの際に言われたのだ。他校で受けた身体検査のデータを使い回すことは出来ないので、ここで新たに受け直す必要がある。面倒ながらこれも手続きの一貫と思い、そして今日は検査を受けにやって来た。
     つまり、この養護教諭は検査担当者だ。
    「へへっ、さてさてお嬢さん。今日はこの通り、利用者は誰もいなくてね。どうせだ、少しお茶でもどうかな」
    「いいえ、そんな。どうぞお構いなく」
    「いやいや、ちょうど紅茶の準備をしてあってね。ささ、どこかその辺りに座ってくれたまえ」
     この保健室において、座れと言われてパっと目につくものといったら、テーブルの周りに適当に置かれたパイプ椅子だ。背もたれも付いていない、丸いパイプ椅子へとひとまず座ると、秋葉の前にはきちんと皿に乗せてのティーカップが置かれるのだった。
    「では遠慮なく頂きます」
     秋葉は取っ手の部分に指をやり、つまむような持ち方で持ち上げる。カップの縁に口をつけ、まずは一口啜ってみるに、秋葉は眉間に皺を寄せそうになっていた。
    (なんですか。この味は……)
     自分がどんな表情をしているか。
     直ちに気づいて顔を繕い直すのだが、味に対する気持ちは変わらない。庶民の用意する紅茶
    が秋葉にとって安物になのは、もちろん仕方のないことだが、それにしてもおかしいのだ。
     何かおかしなものでも混ざったような苦味と、喉に通した後に現れる後味は、単に不味いと評するのは正確ではない。おそらく、これは純粋な味ではない。隠し味のつもりか何かで、余計な物が混ざった味だ。
     ただお湯で茶葉を広げて適当に煎れさえすれば、それだけで良かった。
     琥珀の煎れた紅茶には敵わないことなど、最初から頭ではわかっていた。
     不味くさえなければいいつもりで飲んでみて、不味かったとあらば、あれこれ指摘してやりたくもなる。初対面の先生だから抑えるが、これが兄の煎れた紅茶だったなら、きっと口うるさくしていたはずだ。
    (残すわけにもいかないわね。まったく……)
     仕方なく飲みきって、皿の上にカップを置く。
    「ごちそうさまでした。先生」
     表面的には上品に振る舞って、心の中では早く舌に残った味が消え去ることを願っていた。
     秋葉が紅茶を飲む間、養護教諭は使用器具や書類の準備をしていた。
     丁度良く準備は済み、各種検査を開始する。
    (本当に、嫌な目つき……)
     人の体つきを品評でもしていそうな、品定めのような目つきが不愉快だった。
    
         *
    
     まずは聴力検査に始まって、秋葉は機材を耳に押し当てる。音が聞こえるあいだはボタンを押し、そうでない時はボタンから指を離しておく。この方式による検査を済ませた後、視力検査をやり、そのいずれも書類への記入は中年の手で行っていた。
     秋葉と養護教諭の二人きりなのだから、当然といえば当然だが。
    (待って、ということは……)
     次は身長を測ると言ってきて、秋葉は身長計へと向かって行く。
     一時的に上履きを脱ぎ、その両足で台に乗り、柱に背中をつけて背筋を伸ばす。バーが頭に触れた時、一六〇センチの数字が書類の中に書き込まれる。
     身長とくれば、次は体重に決まっていた。
    (体重……)
     秋葉は体重計に近づくが、その上に乗るのを一瞬躊躇う。
     重くなっていたら嫌だ。その重い数字を男に知られるのも嫌だ。年頃の少女らしい心理が働き、乗せかけた足を秋葉は一度引っ込めていた。
    (仕方、ありませんね。こんなことで駄々を捏ねては、何歳児かっていう話ですし)
     凛は体重計に乗る。
     その直後、養護教諭の妙にニヤニヤとした顔に気づいた。
    「……な、なんですか?」
     思わず声に出してしまっていた。
    「ああ、いいや? 何でもないよ?」
    「そうですか」
     それにしてはニヤついていたような、と、本当ならそう言葉を続けたいところ、秋葉はそれをぐっと抑える。
     気づけば、鳥肌が立っていた。
     この男は嫌だ。生理的に受けつけない。
     顔を合わせた瞬間から今の今まで、妙に唇が吊り上がっていたり、目がニヤニヤと怪しげになっていたりと、はっきり言えば気持ち悪い表情が多いのだ。そして、顔立ちや体格の悪さが表情のおぞましさに拍車をかけ、背筋には寒気まで走る始末だ。
     気温はそう低くはないのに、ぶるっと震えそうになる。
    (早く済ませましょう。早く終われば終わるほど、早めに出ていけますから)
     この養護教諭から少しでも早く離れることを考えて、秋葉は体重計に上がっていく。
     重量に応じて針が動き数字を示す。下を向いた秋葉が見た体重は、四四キロという一キロだけ痩せた数字であった。
    (あ……)
     嬉しい。
     反面、痩せればその分、体の熱量が減るような気もして喜びきれない。
    「さ、お嬢さん。次は目とか喉を診ていくからね」
    「はい。よろしくお願いします」
     今度は椅子に座って向かい合い、病院で受ける診察さながらに、秋葉はまず眼の状態から診てもらうことになる。
     養護教諭はライトを片手に、一切の遠慮無く頬に手を当ててきた。
    
     ぞくっ、
    
     細胞が騒いだ。弾けるように鳥肌が立つ。
     落ち着かない。
     体の内側に見えないモヤモヤの塊が生まれ、それが背中を這い回っている感覚。
     頬にじわじわと染み込む手の感触。手の平の温度が皮膚に伝わり、細胞の隙間に浸透している。手汗が肌に移ってくるのもわかり、それさえ肌に染みているのかと思うと、体中が震えてきそうだ。
     養護教諭は指で下まぶたを裏返し、ライトで照らして血色を確かめる。
     右手が離れ、秋葉の向きでは左の頬が解放されるが、手のべったりと貼りついていた感触は、見えない手形となって残っている。養護教諭の手の形そのままに、脂や菌を肌に付着させられたような感覚がする。
     もう片方の手で、養護教諭は反対側の頬にも触れ、やはりまぶたを下に引っ張る。
     顔が迫っていた。
     近い、近い、近い――先ほどよりも、距離が近い。
     この静かな保健室では、一度でも意識してしまうと、自分自身の呼吸の音さえ耳障りになってくる。まして、それが他人の息遣いで、しかも肌に当たってくるともなれば、不快感はより大きいものになってくる。
     口臭からして、顔を顰めずにはいられない。
    (嫌っ、早く済ませて……!)
     目が合っている。
     眼を診ているのだ。視線が重なるのは当然だ。
     だが、見つめ合うかのようで気まずい。いつまでも耐えきれず、秋葉はつい視線を横へ背けてしまっていた。
    「ああ、こっちを診てもらえるかな?」
     喋ってきた。
     息が、臭い。
     その臭う息が、肌に触れてくる。
    「え、ああ、はい。そうですね、すみません」
     落ち着かない。そわそわする。
     秋葉は無意識のうちに拳を握り、膝の上でしきりに強弱をつけていた。握力を緩め、強め、拳を収縮させ続ける。肩もやたらにモゾモゾと、落ち着きなく動いている。
     見つめ合えば、当然その顔立ちが目に入る。
     こんなにも近くから、ニヤついた眼差しが向けられる。
    「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
     養護教諭の息遣いだった。
    (何、を……そんなに……嫌っ、気持ち悪い……)
     秋葉は気づく。
     鼻の下が伸びきって、荒っぽく熱の籠もった呼吸音からも、興奮が伝わって来る。
     そう、興奮。
     この男は興奮している。
     性的な目を、向けられている。
     一度それに気づいてしまうと、もう元の気持ちではいられない。
     何にそこまで時間がかかるのか、いつまでもライトで照らしてくる。わざと時間をかけているのだ。
     今の養護教諭が楽しんでいるのは、明かりに対して瞳孔が収縮する反応だ。照らせば反応することが面白くて、彼は人の瞳孔で遊んでいる。そうした細かな情動まで、秋葉は決して読み取っているわけではない。
     ただ、この男の興奮だけは伝わっている。
     この瞳に、醜い顔をいつまでも映していたくない。
     気持ち悪い、肌が穢れる。
     汚染、される。
     手で触れられている部分から腐食が広がり、体中に汚染物質が拡散してくる。体を蝕まれてしまう。嫌悪感というものは、それほどの錯覚を生み出すらしい。幻の感覚だとわかっていても、頬から顔の全体へ、首へ、肩へ、腕へと伝え広がるものに、筋肉のそわそわと落ち着かない箇所が一つ一つ増えていく。
     やっと、手が離れた。
     どちらの頬も、汚い手から解放される。
     汚い、と、
      体がそう認識していた。
     汚染物質を付着させ、細胞を侵食してくる根源のように、心と体が見做していた。
    「喉を診るからね」
    「……は、はい」
     口を開ける。
     ライトで照らされ、口内を覗き込まれる。その瞳が喉の状態を観察して、秋葉の具合を確かめている。
     やけにじっくりと見ていた。
     こうした診察は、この人生で何度か受けてきているが、その時にはなかった感情が今はある。醜い眼差しで舌の根まで観察され、丁寧に診られているのは、何か……嫌だ。
    「いーってしてごらん?」
     歯並びまで診ようとしてくる。
    (本当にいつまで……いい加減に……)
     その時だった。
    「!」
     目を見開く。
     気づけば手首を掴まれ、持ち上げられていた。親指の当て方で、それが脈を取るためだとわかるのだが、もはやこの男に対しては、血流を把握されることさえ嫌悪感の元になる。人の肌に触って、セクハラを楽しんでいるに違いないせいで、こんなことが屈辱に思えてきた。
    「うーん。ちょっとわかりにくいね」
     わざとらしい。
     手首ではわからないことにして、一体どうしようというのか。
    「首の脈でいかせてもらうよ?」
    「な……!」
     今度は首筋に触られた。
    
     ぞわぁぁぁぁ…………。
    
     毛穴が大きく広がっていく。
     もちろん、錯覚。嫌悪感で毛穴の大きさは変わらない。だが、感覚だけは確かにある。この男のせいで、皮膚に穴という穴が空き、見るにおぞましい状態となっていく。そのイメージが強く湧くのだ。
    
     どくん、
    
     心臓が弾む。
     首は、この場所は、急所だ。
     この男の危険性は、そういう種類のものではない。人を殺しもしなければ、生き血を啜ろうとすることもない。
     だが、心がこの男を拒否している。
     拒絶対象に首を触られ、本能が剥き出しになりそうだった。遠野の血が全身で騒ぎ、この男を排除してやりたい衝動に駆られる。
     秋葉はふと気づく。
     黒髪の一房、肩にかかった毛先が色を変え、赤く染まりつつあった。
     違う、駄目だ。
     セクハラだけで命まで奪うのは間違っている。こんなところで遠野寄りのものを表に出すわけにはいかない。
    
     どくん、どくん、
    
     心臓は弾んでいる。
     信号を放っているのだ。
     外敵がいる、危ない、排除しろ。
      危機を伝える信号が駆け巡り、体中いたるところの細胞が騒ぎ立てる。騒げば騒ぐほど、毛先から徐々に染まりつつ赤色は広がってく。
    (駄目……駄目……)
     自分にそう言い聞かせ、必死に平常心を保つ。
     どうして、こんなセクハラ男に気を遣い、自分を抑えなくてはならないのか。その理不尽さに対する怒りさえ、秋葉は抑え込んでいる。
     首の脈だけではない。
    
     ぴと、
    
     と、もう片方の手で、秋葉の手の甲に指を置く。
     人の肌触りを楽しんでいるのがわかる。
     だから、ますます理不尽に対する思いは強まる。こんな男に対して、いつまで我慢をすればいいのか。どうして耐える必要がある。
     どうして、どうして、どうして……。
    「はぁ……はぁ………………」
     秋葉の息遣いは荒い。
    「はあっ、はぁっ、はぁ……」
     そして、養護教諭も荒い。
     だが、同じハァハァという息遣いでも、秋葉と中年では大きく違う。爆発しそうな不快感を抑え、平常心を保とうとする秋葉と、可愛い女の子に対する変態的な興奮が滲み出ている中年の違いがそこにはある。
     音だけなら、人からすれば似たようなものに聞こえる。
     その似たような音に、不思議と違いがあり、人はその違いを感覚的に判別できてしまう。
     養護教諭は唇の端からヨダレさえ垂らしていた。あからさまな目つき、伸びきった鼻の下には留まらなかった。
     今この現場を人に見せれば、この中年を危険人物と判定するだろう。
     そして、そんな危険人物と秋葉は二人きりで過ごしていて、肌には指が触れている。遠野の血などない、ただの普通の女の子だったとしても、体の内側から放たれる信号が全身に対して危機感を訴えていただろう。
    「脈は十分かな」
     指が離れる。
     離れても、皮膚に何かが付着して残ったような不快感がある。
    「聴診器を使うからね。服をちょっと、持ち上げてもらえるかな」
    「……え、ええ」
     声が強張る。
     きっと警戒心を隠せていない。
     信用できない男の手が、乳房と距離を縮めてくる。その状況ほど警戒心を煽るものはない。自らのセーラー服を持ち上げて、ヘソを出すだけで赤らみながら、養護教諭の聴診を受け入れる。
     本当は拒みたくてたまらない男の手が、服の隙間に入り込み、下着の上から聴診器を当ててくる。乳房のあいだ、胸の中央。聴診器をつまんだ手はそこにある。中年の手の甲は、セーラー服のその部分だけを微妙に押し上げ、膨らませている。
    
     どくん、どくん、
    
     心臓は高鳴っている。
     遠野の血を騒がせようと、鼓動は激しい。
     今、それを聴かれている。
    
     どくん、どくん、どくん、どくん…………。
    
     心臓のすぐ近くに、警戒対象の手。
     まさか、わかっている。
     この男の持つ危険性は、痴漢、セクハラといった種類のものだ。鋭い爪が伸びてきて、心臓を抉り抜くかのような危険性などではない。
    (駄目よ……抑えて、でないと、せっかく兄さんと…………)
     転校前に通っていたお嬢様学校は、わざわざ屋敷から通うには距離がありすぎる。よほど早起きしなければ遅刻する。それを兄の学校に転校して、生活リズムを変えられるようにしたのである。
     朝食を一緒に摂ることも、登下校を共にすることも、これからはできる。
     だから、こんなところで……。
    
     くらっ、
    
     眩暈がした。
     一瞬、意識がぼんやりする。
     幸か不幸か、養護教諭が指を伸ばし、下着の表面に触れたタイミングは、それと一致していた。下着を触られたことに気づき、不快感を本当に爆発させるには至らずに済んでいた。
    (まさか、反動で……)
     無理をして、意識的に抑え込もうとしたせいか。
     意識がぼんやりとする理由を、秋葉自身はそのように捉えている。
    
     ……にぃ、
    
     秋葉は気づいていない。
     養護教諭の口角が一体どれだけ吊り上がり、その表情はより醜いものになっているのか。眩暈に夢中で、すぐそこにある顔付きに気づく余裕がない。
    「お嬢さん。診察の上では異常がありそうには見えないけど……」
     中年はニヤニヤしている。
     声さえ、興奮で上擦っている。
    「少し体調が悪そうだ。次は心電図をやることだし、ベッドに横になるといい」
    「…………」
     秋葉は動かない。
     ただベッドに視線をやるだけで、立ち上がろうとしない。もちろん眩暈は気になる。今すぐに休みたい欲求は大いにある。
     問題はこの男だ。
     信用できない男と二人きり、この状況でベッドに入り、眠りたい女の子などいない。
    「心電図、あるからね」
     養護教諭はそう言葉を繰り返す。
    「…………はい、わかりました」
     ようやく、立ち上がる。
     抵抗感を抱きつつ、ベッドに上がり、横になり、秋葉は天井を眺めた。
     すると、すぐさま手首に、足首に、心電図の器具が取り付けられる。もうこれさえ終われば帰っていい。心電図のあいだだけ、この瞬間だけ体を休め、測定が終わった瞬間に起き上がろう。
     そして、一刻も早くこの男から距離を取る。
     そう考えて、しかし、どうしようもなく意識は…………。
    「あ、れ……」
     持たない、薄れていく。
     沈みゆく意識と共に、秋葉は眠りについていた。
    
         *
    
     眠っている。
     少女が、ぐっすりと眠っている。
    「よしよし、効いたみたいだね」
     養護教諭は手を伸ばし、肩を掴んで揺すってみる。最初は軽く、しだいに強めに、ついでに頬もペチペチと叩いてみて、眠りの深さを確かめる。目覚める様子がないとわかると、その顔を一気に欲望に染め上げた。
    「げへっ」
     靴下を引っ張り抜き、匂いを嗅ぐ。
     その臭気を鼻孔に吸い上げ、歪んだ欲望を満たすにつれて、唇から流れるヨダレの量は増えていく。誰が見ても醜い獣と化した表情で、男は秋葉の服を脱がしにかかる。
     身動きをしない人間から服を取るのは、それなりの労働となる。
     眠っている分、秋葉の体重が衣服にかかり、引っ張りにくくもあるのだが、養護教諭は労力を惜しまない。腕を引っ張り、仰向けから横向きに変えても起きないことに気づいてからは、ブラジャーのホックさえ問題なく取り外し、いよいよ秋葉は全裸となった。
     ベッドに上がり、秋葉を味わう。
     乳房に吸いつき、ちゅぱちゅぱと音を立て、ベロベロと舐め回す。どちらの乳首も唾液で汚し、その小さな胸を揉みしだく。性器にも指をやり、ワレメを丹念に弄んだ。
     時間をかけて味わっていた。
     薬の効果は何時間ほどが目安になるのか、最初のうちは意識しながら楽しむが、夢中になっていくうちに忘れていき、いよいよ養護教諭自身も裸になる。全身で秋葉を味わおうと抱きついていた。
     仰向けの秋葉に対して、上から体重を押しつけて、たまらない密着感を彼は楽しむ。
     唇を重ね、頬張った。
     舌先でベロベロと、その閉じ合わさった唇を激しくなぞり、さらには押し込む。舌の表面を伝って流れる唾液を彼はそのまま流し込み、飲ませてやる優越感まで楽しんでいた。
     そのうち、唇の隙間に舌を差し込む。
     押し込もうとする力によって、閉じ合わさった歯が開く。養護教諭はそのまま口内を蹂躙した。舌先を反り上げて、歯の裏側さえなぞった挙げ句、ついには舌と舌とが触れ合っていた。
     全身が歓喜に震える。
     細胞の一つ一つが悦びに満ち溢れ、興奮のあまり目が血走る。肉棒が根元から疼くことなど言うまでもなく……。
    
     いいや、挿入はまずい。
    
     薄らとした理性が働き、彼は挿入だけは控えていた。
     しかし、その胴体に馬乗りになり、自らの手でしごいて白濁を振りかける。精液によって乳房を汚し、さらには手で塗り伸ばして擦り込んで、自分のエキスを秋葉の肉体に浸透させる優越感を楽しんでいた。
    「じゅぶぅ……」
     また、キスをする。
     飽きもせず頬張って、その唇が離れるたびに糸が引く。秋葉の口回りは養護教諭の唾液に汚れ、その唾液が皮膚の表面で乾いた上から、さらに唾液は追加され続ける。
    
     カチッ、カチッ、カチッ、カチッ、
    
     それは時計の針の音。
     夕暮れの校舎の中には、もう部活動に励んだ生徒も帰宅を始め、校舎全体から喧噪が薄れていく。保健室に届く物音などなくなって、ついにはただの時計の針がうるさいほどの静寂に包まれていた。
    
     カチッ、カチッ、カチッ、
    
     秒針が一周する。
     ようやく、中年は満足してきていた。
     白衣に着替え、それから秋葉にも服を着せてやり、睡眠薬の効果が切れるまで静かに待つ。
    
         *
    
     秋葉は目覚めた。
    「あ……れ…………私、いつのまに…………」
     手で頭を押さえながら、ベッドから身を起こす。
     ぼんやりとした脳が徐々に意識をはっきりさせ、そして覚醒しきった秋葉には、すぐさま戦慄が浮かんでいた。
    
     ぞくっ、
    
     その寒気は、あるいは秋葉自身の想像が生み出したと言えはする。
     だが、この保健室でセクハラ魔と二人きり、その上で眠ってしまったことは真実だ。何をされていてもおかしくない、その想像は決して間違ったものではない。秋葉は慌てて自分自身の体を探り回した。
     自分に対してボディチェックをしたところで、キスや痴漢の痕跡は目に見える形では残らない。
     頭ではわかっていても、それが秋葉の反射的な行動だった。
    「ああ、やっと起きたね。お嬢さん」
     ビクっと、バネに弾かれたように、秋葉は勢いよくそちらを向く。
     養護教諭は何食わぬ顔でペンを置き、今まで打ち込んでいた書類仕事を中断していた。
     そこに邪悪の気配はない。人にいやらしい視線を向ける際の、セクハラ特有の嫌な感じはしてこない。
     その理由は、簡単。
     彼はもう、既に満足しきっている。
     だからルックスが醜いなりに爽やかで、落ち着き払った大人の顔をしているのだ。眠っていた秋葉には、そんなことがわかるはずもなく、だから先ほどまでとの雰囲気の違いに困惑していた。
    (こんなにまとも、でしたっけ……)
     首を傾げたくもなってくる。
     しかし、あのいやらしい目つきが消えたおかげで、秋葉の想像は薄れていた。信じたくないが故の、心の防衛反応でもあるにせよ、何も起きていないに違いない。自分が眠っているあいだ、先生らしく仕事をしていたに違いない。
     そう、思い込むことができた。
     ならば話は簡単だ。
     痴漢やセクハラの追及を考えることはなく、むしろ眠ってしまい迷惑をかけたお詫びを言い、いくらかの言葉と挨拶を交わして保健室を去っていく。
    「遅く、なってしまいましたね」
     もっと早く帰るはずだった。
     しかし、窓の外を見てみれば、赤焼けの空が夜の紫色へと移り変わろうと、そのグラデーションを地平線から浮かべている。
     いくらかすれば、もう本当に夜になる。
     早く、帰らなければ……。
    
     ……ぞくっ、
    
     しかし、廊下を進んでいる最中、またしても寒気が走る。
     秋葉は勢いよく振り返り、するとその視線の先にあったのは、さっと部屋の中へ引っ込む白衣の影だった。
     見送りのつもりでもあったのか、今まで秋葉の背中を見ていたらしい。
    「気持ち悪い…………」
     おぞましさに鳥肌を立て、我が身を抱き締めながら、秋葉は上履きから靴に履き替え、早足で学校から去って行く。
     一匹の獣が、獲物に舌なめずりをしていたように思う。
     やはり、寝ているあいだに胸くらいは触られていたのでは……いいや、考えたくない。考えないようにしておこう。
     頭の中から振り払い、秋葉はそして家に帰った。
    
    
    


     
     
     


  • 月姫

    遠野秋葉、保健室にて
     この作品は身体測定で裸になっているわけでも、内科検診で乳房を出しているわけでもない。
     しかし、その医者には確かに嫌な感じがあり、秋葉は拒否反応を堪えていた。
     堪えるはずが、何故だか途中で眠くなり・・・・・。
     ※睡眠姦のタグを付けていますが本番はありません。
    遠野秋葉 睡眠姦 内科検診