第11話 一つの安心

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 当初の目的通り、精霊信仰の盛んな都市へ向かう。
 当家が黒幕対策に行った工作で、二人の元に追っ手が来る可能性自体が低く、よしんば現れたとてアイガの腕なら問題はないわけだが、手札が多いに越したことはない。信仰に基づき、慈善活動をモットーとする団体なら、いざという時に事情を打ち明け、保護を求める先としてはうってつけだ。
 ただ、たとえそうする必要が出たとしても、アイガとしてはもう二度と、下手にエレディを一人にする気はない。
 町を出て都市へ向かう道のりで、今まで通りにフード付きのマントを羽織り、アイガ自身の顔もそうだが、エレディにも性別さえ隠させる。二人の顔を把握した追っ手が、まったくの偶然で二人のことを目撃したところで、外見がわからなければ気づかれない。小さな可能性さえも排除するための対策だ。
 アイガはこの上でエレディを連れ出して、森を切り開いた道のりを進んでいく。
 多くの馬車や旅人の行き来によって、すっかり踏み固められた土道は、迷うことのない一本道となって目的の都市へ続いている。
 歩いているおり、隣を行くエレディが不意に手をやってきたと思えば、指先でさりげなくアイガの手に触り、心なしか何かを求めているようだ。
 ならばと、アイガは手を握る。
 すると、エレディの方からも握り返され、こうなったら手を繋いで歩いていた。
 そんな時だった。
「あ……」
 道行く先から、二人組の影が見えてくる――通行人だ。
 この道は町と都市とを徒歩数十分ほどの距離で繋いでいるため、都市で買い物をしたい町人がよく使っているらしい。都市でしか買えない可愛い洋服を手に入れたり、アクセサリーやらお土産を買ってくるのが大半の目的だとか。
 二人組との距離が詰まるにつれ、あれもそういう手合いだろうと、アイガの中で判断がつくのだが、エレディは咄嗟にアイガの影に隠れようとしていた。
 ……そうか。
 あれは二人とも男だ。
 もちろん、彼らは何も悪くない。単なる通行人、それ以上でもそれ以下でもないが、トラウマを抱えたエレディから見れば、見知らぬ男の全てが信用ならないのも無理はない。
 心の傷が原因で、反射的に怖い想像をしてしまう。
 二人組との距離が縮まるにつれ、エレディはアイガの裾を掴み、腕を握り、すれ違う頃には密着までしてきていた。
 彼らは軽く声をかけてきて、挨拶程度に二言か三言ほど言い交わしていったが、エレディが何も喋らず、震えながら隠れていたのは言うまでもない。
「大丈夫か? エレディ」
 しばらくしてから、アイガは声をかけた。
「……うん」
 まだ震えたまま、腕から離れる様子がない。
 だが、これでもマシになった方である。
 検問所を出た直後など、今回のように他人とすれ違う際、まるで悪人に決まっているかのように背中に隠れて震えだし、あまりの反応に通行人を驚かせていた。
 お互いに、色々と打ち明け合ったおかげだろうか。
 それが少しは明るくなり、今までの調子を取り戻し始めている。アイガ以外に対する全ての男性不信も、いつかは薄れていくはずだ。
「ごめんね? アイガ、やっぱりちょっと……」
「気にすんな。怖いものは怖くていいんじゃねーか?」
 アイガは思う。
 いざとなったら大剣を振り回し、力ずくで周りをどうにかできる自分と違い、腕力という手段を持たないのだ。襲われてはどうにもならない身で、怖がるなという方が無理な話ではないだろうか。
「でも、アイガがいるのに怖くなっちゃう。アイガがいれば平気なはずなのに……」
 過剰な恐怖を抱きすぎではないか、エレディは自分で気にしている。
「だけど、昨日は俺にみんな話してくれたろ? 立派に前に進んだってことじゃねーの」
「アイガがいるおかげ、かも……」
「次からはエレディを迂闊に一人にしない。ずっと俺の隣にいろ」
「うん」
「俺はエレディがいい。他のどんな女よりも、エレディが」
 はっきりと口にしてしまった。
 しかし、もう二人の交際は始まっている。
 あの時、あの場に広がった二人きりの世界観は、まさにそういったものだった。
 こういう、愛だの好きだのを伝える言葉は、まだまだ口にするのは照れ臭いが、これからはだんだんと言えるようになってくるだろう。アイガはそんな自分の変化を感じ取り、物は試しのように気持ちを伝えてみたわけだった。
「あのね。私、ちょっと気になることがあって」
「なんだ?」
「それはね。着いてからがいいんだけど……」
 エレディが語るのは妊娠の心配だった。
 あの場にいた兵士達は、口先では避妊魔法がどうと言っていたが、恐怖やパニックに駆られていたエレディには、本当に避妊が効いているかの判断がつかないという。膣内射精の事実を知るのは、胸を抉られるような気持ちであり、それを伝えて来るエレディ自身、とても申し訳なさそうな、罪でも告白するような顔をしていた。
 だが、改めて思う。
 何も悪くないエレディが、自分の遭った被害を伝えるだけで、どうして申し訳なさそうで、さも自分が悪いような顔をしなければいけないのか。確かに、好きな女が他の男に抱かれた話を聞くのは不快だが、それとは別に、どことなく理不尽な何かを感じずにはいられない。
 もし命が宿っていたら、望みもしない相手の種が自分の体内で芽生えるのだ。それはどんなに辛いことか、エレディの心境を思えば思うほど、アイガとしても神に祈りたい気持ちになってくる。
 どうか、どうか宿っていませんように――。
 その確認を行うための魔法道具は、都市であれば手に入る。そして、できれば使わずに済む方がいいのだが、堕胎魔法をかける道具も出回っている。
 到着後に行うことは、まずそれからだ。
 そう決めたところで、都市を囲む巨大な防壁と門が見え、エレディはみるみるうちに怖がり引き攣り始めていた。
 検問を恐れたのは言うまでもない。
 幸い、そこに特別な検問はなく、金貨一枚の入場料で出入りができるのだった。

     *

 この時ほど、心の底から安心したことはない。
「よかったぁ……」
 安心のあまり、それで涙が出そうなくらいだ。
 都市への到着後、まずは宿部屋を確保して、町にはなかった広めの部屋に泊まるなり、その後は買い物に出かけたのだ。魔法道具の店を回って、妊娠の確認や堕胎に使う道具を見つけ出し、その結果として今まで抱えていた不安は解消された。
 エレディにとって、命が腹に宿るのは恐怖以外の何でもない。
 望まぬ妊娠なのは言うまでもなく、あの中の誰が父親かすらわからない。わかったところで責任など取る気のない相手の種で、もしも自分の腹が膨らんだら、一体どうすればいいのかがわからなかった。
 しかも、よしんば責任を取ると申し出て来られても、まさか輪姦集団の中の一人を夫に迎えるなど、それこそ考えられない話である。
 どうして、自分のせいではないのに命を宿さなくてはいけないのか。
 生まれてくる命に罪はないと、倫理観ではそう言われるが、最低の男によって強引に植えられた種なのに、複雑な気持ちを抱いてはいけないのだろうか。妊娠していた場合、大きくなるのはエレディの腹であり、負担がかかるのも全てエレディなのに、嫌だ嫌だと恐怖してはいけないのだろうか。
 強姦によって生まれる命であっても、堕胎は悪なのだろうか。
 倫理観があればこそ、それこそ本当の本当に、どうか宿っていませんようにと願い心は肥大していく。
 それらの不安と恐怖が晴れたのだ。
 ここまで大きく切実だった不安によって、深刻に悩んでいたエレディなのだが、分厚い灰色の雲が丸ごと消え去ったような清々しさで、今度は解放感でたまらなかった。
 しかし、すると今度は怒りが湧いた。
 自分をこんな目に遭わせた奴らのせいで、今までこんな不安を抱えていた。トラウマのせいで怖い想像をしてしまい、男とあらば体の方が怯えてしまう。悪い夢まで見るようになった元凶が急に憎らしくなってきた。
 アイガに頼んで血祭りにしてもらおうか、そう真剣に悩みたくもなってくる。
 そして、そのアイガがやろうとしているのは、検問所の違法な実態を暴き、告発することであると思い出し、是非とも手伝いたいとまで思い始めた。
 それに、不安の解消によって枷が外れて、きちんと前向きに考えられるようになったこともある。
 アイガとの関係だ。
 恋人になってくれたはいいが、ただでさえ悩んでいた不安は、かえって膨張を加速した。アイガと心が繋がって、せっかくの関係が出来上がった矢先に妊娠が発覚しては、上げて落とされるようなものだと思っていた。
 それが解消されたからには、前向きにアイガのことを考えたい。

 ただ、それでも検問所でのトラウマがある。

 初めてのセックスがああなって、性行為が恐怖の思い出とセットになった今、きっと恋にも影響が及んでくる。行為に及ぶ段階で思い出し、他ならぬアイガを怖がる自分、などということさえあり得るかもしれないのだ。
 だが、冗談じゃない。
 自分は悪くも何ともないのに、恋や人生の全てに影響が出てもおかしくないところが、本当に腹が立って仕方がない。どうして自分があんな奴らの影響下にいなくてはいけないのか、理不尽でならない。
 この気持ちを晴らすチャンスはきっと巡ってくる。
 アイガはそのために動いている。
 アイガは……。
 自分のために動いてくれている……そのことを思えば思うほど、怒りや憎しみから打って変わって、今度は愛おしくてたまらない気持ちが湧き起こる。何があっても自分は味方だと宣言して、守ろうとしてくれるアイガへの愛情が肥大して、どうにかなってしまいそうだ。
 このままでは……。
 こんなに狂おしいほどの気持ちが湧いてしまっては、アイガに死ねと言われたら死んでしまう。

 ところで、いつも同じ部屋に泊まっている。

 護衛しやすいように、という理屈は十分にわかっているが、以前までの二人はお互いの気持ちを伝え合っていなかった。好き合っている気配だけはわかっていたが、建前の上では貴族令嬢と使用人の域を出ず、手元に置いて当然の護衛を室内に配置しているだけ、というのがこれまでの状態だった。
 だが、今となっては恋人同士だ。
 はっきりと愛情の対象になってしまうと、そんなアイガと同室であることの、不安とドキドキといったらない。

 何か起こるのではないか?

 期待感さえ湧きそうで……。
 やっぱり、セックスを怖がる気持ちが腹の底に芽吹いている。刻み込まれてしまったトラウマのせいで、はしたない妄想に頭がいくと、それに水を差すかのように悪夢が脳裏に浮かび上がって、甘い気持ちになりきれない。
 狂おしい恋の感情から、またしても怒りや恨めしさの方が湧き、今日のエレディは気持ちがあちらこちらに揺れすぎている。

「今夜、話がある」

 アイガが真剣な眼差しで熱意を向け、真っ直ぐに告げてきたのは、その日の夕方だった。
 ……話?
 一体、何の……もしかして……。