第5話 異なる阻害

 シャワールームを後にして、食堂で昼食を注文する。そのあいだはciGOを終了させ、ゲージの回復を待ち、運ばれて来た料理を食べ終えた頃、エイジは改めて起動した。
「ん? そういえば」
 アプリのメニュー画面を見てみると、何やらSNSという文字が現れている。先ほどまではなかったはずだが、メニュー内の更新履歴を確認すると、昨日のうちに新規メニューが登場して、今さっき自動更新が行われたわけらしい。
 それにしても、SNSとはどういうことか。
 試しにそのメニューに指を置き、すると目に飛び込んできた内容は、全て痴漢にまつわるものだった。
『これマジで触り放題だな』
『女湯入ったわ』
『家宅侵入成功』
 ぞっとした。
 エイジは自分の行動も忘れて、犯罪者の巣窟に最初の一瞬は引いていた。
 だが、エイジはふと思う。
 この書き込みは、そもそも何だ?
 女湯に入り込み、家宅侵入にも成功するなど、エイジと同じように認識阻害を使用としているとしか思えない。
(ほ、他の利用者か!?)
 エイジは戦慄した。
 思えば、どこからどうやって送信され、いつダウンロードされていたのかもわからない『ciGO』は、不幸な人間の救済を謳っていた。
『このアプリは世の不幸な人間を救済します』
 そういう文言が掲げられていた。
 ならばエイジと同じく、このアプリで好き放題に楽しむ権利の持ち主――すなわち、充実した青春を謳歌している充実貴族から、劣等人種として取り立てを行う権利だ。
 そうやって正当化しているのが、エイジの思考回路である。
 だから犯罪者の巣窟を見て、最初は戦慄したものの、この書き込みを行う人物が自分と同類であるならば、何も問題ないではないかとエイジは考えるわけである。
 同類が痴漢をやっても、そのくらい当然だとしか思わない。
 それがエイジという人間なのだ。
 ではそんなエイジの目に、この書き込みはどう映るか。

『今からこの子いきます!』

 そう宣言しながら、女の子の写真を投稿している書き込みがあった。その水着の後ろ姿を見て、いいぞ、やってやれ、などとエイジは応援の気持ちを抱くのだった。
 そればかりか、エイジは気づく。
(ここって……)
 映り込んでいる景色に見覚えがある。
 ――ここだ。
 この大規模プールランドの中、ウォータースライダーのある区画ではなかったか。
(よ、よし!)
 今度は見学を目的に立ち上がる。
 今すぐに行けば間に合うかもしれない。急いで向かって見てやろう。自分が触るのでなく、人が痴漢をやっているのを眺めるのも面白いはずだ。
 エイジは早足で区画移動を行って、焼きそばやかき氷など、出店の並ぶプールサイドを突き抜ける。周囲に視線を走らせて、写真の後ろ姿を手がかりに見つけ出そうと試みるが、この混雑では簡単には発見できない。
(無理かな……)
 諦めかけて、その時だった。

「ひゃっ!」

 悲鳴が聞こえた。
 その方向を見てみれば、出店の列に並んだ女の子に手を伸ばし、堂々と触っている男がいた。まるで横入りしようとするポジションから、しかし列に割り込むのでなく、お尻に触るために腕だけを伸ばしていた。
 普通ならありえない。
 こうも堂々と、バレないわけがない触り方が出来るなど、認識阻害に違いない。その証拠であるように、周りの人間は男に関心を向けていなかった。
「えっ、えっ?」
 困惑の声を上げる少女へと、通りがかりの人間や列の前後にいる面々は、何かと思って一瞬は視線を向ける。向けるのだが、痴漢に気づいた様子もなく、一体どうして妙な声を上げたのか、不思議そうにしつつも直ちに関心を失っている。
 見て見ぬフリではない。
 気づいていて、わざと無視する様子とは違う。
 男は透明人間なのだ。
 エイジにはごく普通に姿が見えるが、周りの人間はそうではない。痴漢の存在を認識できず、だから目と鼻の先で犯罪が起こっていることがわからない。
(ちょっと待って? 僕には見えるの?)
 エイジは慌ててアプリの説明画面を開く。
 ciGOを扱うユーザー同士では、認識阻害が通用しない。周りの人間には見えていないが、エイジには姿が見える。逆に言うなら、自分が認識阻害を発動しているあいだ、あの男にもエイジのことが見えるのだ。
(声は……。かけないでおこう)
 仲間同士でつるむことを一瞬は考えるが、別に気が合うとは限らない。
 ここは見学を決め込むため、エイジもまた認識阻害の機能を発動した。眺めるだけなら不要なのだが、特定の人物だけにジロジロと視線を注げば、挙動不審で怪しまれないかと心配だ。
 出来れば堂々と撮影したい。
 エイジはお宝像確保のため、動画アプリを起動した。

      *

 戸倉花純は高校二年生の彼氏持ちだ。
 恋人に誘われて、浮かれた気持ちで気持ちで水着を選ぶ時、友達にはどれだけ冷やかされたか。からかわれながらも、同じ彼氏持ちの仲間と共に、あれはどうか、これはどうかと迷い続けるショッピングの時間は楽しかった。
 そして水着姿を披露して、彼のドキリとした顔を見た時は、もっともっと楽しい気持ちになった。
 今日はなんていい日だろう。
 水着といえば、羞恥心を考慮して、もっと露出の少ないタイプのデザインも出ているが、彼氏の視線を引きたい思いから、思い切って下着と同等の露出を行った。
 可愛い赤の水着で乳房を持ち上げ、ショーツはお尻に少し食い込ませる。スタイルに自信があったので、きっと彼を興奮させられるとは思ったが、いざドキドキした様子を拝むのは、一人で反応を予想して楽しむより、もっと面白いわけなのだった。
 きっと、エッチなことも考えている。
 花純としても、そのうちには……と、思っている。
 ただ残念ながら、今日ではない。
 初体験の相手は今の彼で構わないが、こういうことは経験がないので、どうやって段階を進めたものか。それに親のいないタイミングを見計らうなり、高校生でも借りられるホテルを探すなり、色々とやるべきことが多いので、そうすぐにとはいかないだろう。
 ともかく、今日はプールを楽しむのだ。
 一緒に泳ぎ、一緒にウォータースライダーを滑って笑い、最高のデートを味わっていた時だ。
 彼が足を捻ってしまった。
 誰かの落とし物を踏みつけて、上手い具合に足首を痛めてしまい、今はベンチで休んでいる。しばらくは歩けそうにない様子なので、仕方なく花純は一人、出店でたこ焼きでも買おうとしていた。
 今日はもう、泳いだり、はしゃいだりは無理だろうか。
 いや、それより怪我の具合が心配だ。
 帰るにしても、しばらくは座って休んでいてもらう必要がある。ちょうどお昼をまた食べていなかったので、花純は彼氏をベンチに待たせ、列に並んだわけだった。
 最後尾に立ってから、いくらか順番が進んでいき、花純の後ろに並ぶ人数も増えてきている。
(まーだっかなー)
 早く彼のところへ戻りたい。
 一緒にたこ焼きを食べて、怪我のことも考えて、酷いようなら帰るべきだと告げ、帰る方向に持って行き……。
(にしても、まさかだなぁ)
 本当はもっと一緒にいたい。
 なのに、どうやって帰らせるかを考えている自分がいる。彼には少し意地っ張りなところというか、彼女との時間を過ごしたいあまり、怪我が悪化しようと構わずデートを続行したがる可能性が考えられる。
 それが心配で、帰らせる方法を考えている。
 別に帰りたくなどないのだが、考えないわけにはいかないだろうな、と残念な気持ちになりつつ考えている。
 その時だった。

「ひゃっ!」

 お尻に手が当たってきて、花純はひどくぎょっとした。
 痴漢である。
 手がはっきりと置かれている。軽く触るどころではない、指までぐいっと食い込ませ、活発な指遣いで揉み始めている。
(き、キモ!)
 この人目の多い場所で、満員電車でもないのに、よくもこんな真似が出来たものである。
 驚きなのは、痴漢に遭ったことだけではない。
 その男は隣に立っていた。
 列に横入りしてくるかのような、おかしな位置に立つなり手を伸ばし、花純のお尻を揉み始めているのである。周りの注目が簡単に集まることもお構い無しに、どうしてこんなことが出来るのかがわからなかった。
「あの、やめてくれませんか」
 手を払い退けようと、後ろ手に力を加えるが、男はより強くお尻を掴んで来た。
「…………」
 男は何も答えない。
 無言でお尻を揉み続ける。
「やめてくれませんか?」
「…………」
 やはり、無言で続ける
(なんなの! コイツ!)
 憤り、より強い力で払い退けようとするのだが、男はそれに抵抗して、お尻から手を離すまいと力を込めてくる。
(む、ムカツク……!)
 こんな痴漢に触らせるための体ではない。
 よくも勝手な真似をしてくれるものだと、どんどん腹が立っていく。
 だが、ふと気づいた。
(って、ちょっと待って?)
 周りの誰も、この男に声をかけない。
(え? え、え? なに? どういうこと?)
 それは見て見ぬフリではなかった。これだけ目立つ行動を取っていて、はっきりと声を出して注意までしているのに、誰一人として気づいていない。
 わけがわからなかった。
 声を出した時、周囲の視線が向いてくる気配はあった。だったら痴漢の存在は周りの誰しもの視界に入っているはずで、しかし見て見ぬフリですらなく、もっと違う様子で目を逸らすのだ。
 なんだ、何もないじゃないか。
 とでもいった具合の、まるで何かと思ってみれば別に何事もなかったような表情で、人のことを不思議そうに見つめた上で視線を外す。そんな様子を花純はいくらでも捉えていた。
(ちょっと待って? は? なんで?)
 花純はしだいに恐怖した。
 おかしい、ありえない、何か普通の状況とは違う。一体何が起こっているのか。何がどうなっているのか。しだいしだいに狼狽して、恐怖を抱き始める花純は、冷や汗をかきながら考える。
(幽霊? 透明人間? えっ、いや、ありえないんだけど……)
 常識ある人間なら、そんな突拍子もない真実を急に受け止めることはできない。だがそうとでも考えなければ、そもそも痴漢の存在が見えていない周りの様子に説明がつかず、だんだんとわけがわからなくなってきた。
 非常識なものの存在は信じられない。
 だが、非常識な考え方をしなければ、どうしても説明できない状況だった。
(もしかして、本当に……)
 その説明できない状況の渦中で、幽霊なり超能力なりの存在を本当に信じる必要があるのではないかと、花純は徐々にそう思い始めていた。
 そう思っていくにつれ、花純が抱える恐怖は、お化けや妖怪に対するような、怪談やホラーの本物に怯える気持ちへと変わっていった。
 人間の犯罪者が怖い以上の悪寒が走り、完全に青ざめていた。
(やだ……た、助けて……!)
 たまらず、花純は逃げ出した。
 恐怖のあまり、たこ焼きや彼氏のことなど忘れ、そして急に列から飛び出す少女の背中には、それを不思議そうに見つめる眼差しだけが向けられていた。
 どうして花純が駆け出したのか、それを理解している人間は、認識阻害アプリ『ciGO』のユーザーを除いて、誰一人いないのだった。