プロローグ

 某国の研究所は都市の外れに位置しており、そこでは重要な研究が行われているという。世の中に重要でない研究などないだろうが、その研究所が抱える問題の大きさは、町一つ丸ごとの一般市民に、あるいはもっと大勢の人々に関わっている。

 ――魔界都市計画。

 だそうだ。
 最初にそれをを聞いた時、思わず笑いかけてしまったが、詳細を知れば知るほど顔を険しくせざるを得なかった。
 動物や人間を異生物化するそうだ。
 生物兵器を生み出して、化け物に都市を蹂躙させる。荒唐無稽な殺戮計画こそが魔界都市というわけだ。
 それを阻止すべく、一人の女性が白衣を纏い、さも研究員の一人の顔をして、偽装IDカードでドアのロックを解除する。
(やけに静かね)
 ジュディはその静寂さを訝しむ。
 確か傭兵まで雇って警備を固めているとの話であったが、それにしては静かすぎる。
 だいたい、表のゲートからして無人だったくらいだ。
(ひょっとして、もぬけの空?)
 屋内に侵入して、こうして廊下を歩き始めるまでのあいだ、誰一人の姿も見かけていない。不気味なほどの静寂に、ジュディはむしろ警戒心を高めていた。
 何か、ある。
 懐に手を忍ばせ、いつでも発砲できるように備えつつ、慎重に散策を進めていった。
 ここはもう、放棄された後なのだろうか。
 スパイの侵入を悟って、ジュディが来るより早く引き払ってしまったのか。もしそうなら、ついでに罠でも仕掛けてあっておかしくはない。
 既に命が狙われていると思いながら、気を引き締めて突き進み、ジュディは目的の部屋を目指した。
 今回『機関』から命じられたのは、魔界都市計画の証拠となるデータの確保だ。それを然るべき場所に提出して、内部告発に仕立てて摘発に持ち込むまでが作戦の概要だ。
 放棄された後の場合、ミッション達成は期待できないだろう。
 だが、これがもし何らかのトラブルによるものなら、この機に乗じて盗み出し、使命を達成しなくてはならない。状況を掴みたい意味も兼ね、ここは安易に撤退せず、ジュディは神経を研ぎ澄まして進んでいく。
 証拠品があると思われる部屋は、他のメンバーによる下調べでおおよその当たりが付けてある。ピックアップされた候補を漁り、そこで発見できれば上出来だが、さもなくばジュディ自身の予測で捜索を続行する。
(さて、まずはここね)
 第一の候補に辿り着き、ジュディはIDカードを通して電動式のドアを開いた。
(これは……!)
 ジュディは戦慄した。
 この部屋は培養器をいくつも並べ、生物の怪物化を行う施設と聞く。培養液に閉じ込められた生物は、人間だろうと犬であろうと、徐々に異形に変化するという。
 事前調査を行ったメンバーから、部屋の様子を隠し撮りした写真を見せてもらっている。床から天井を繋ぐ柱のような、円柱状のガラスの中に異形が浮かんでいる光景こそ、この部屋の正しい景色のはずなのだ。
 だが、こんな状況は聞いていない。

 全てのガラスが割れている。

 柱一本残すことなく、どれもが内側から割られている。周囲に破片が飛び散って、培養液の流出で床は水浸しになっている。だが誰に気配もなく、培養器にいたはずの生物や、ここにいた研究員は一体どこへ消えたのか。
(スリリングなことになってくれたじゃない)
 ジュディは冷や汗をかく。
 今まで出会わなかったのは、ただ運が良かっただけだ。この研究所は既に怪物が行き交っており、数十分か、あるいは数時間前、研究員はパニック状態に陥ったはずだ。
 本来、この手の施設には、危険な生物を外に出さないための隔壁が下ろされる。外の柵には高圧電流を流しておくなどして、脱走防止の措置は二重三重に重ねるものだ。
 そんな時、ごく普通に出勤して、いつも通りにIDカードを通して研究所内に入っていくなどできっこない。
 出来ないはずのことが出来てしまった。
 その結果、ジュディは無人化した研究所を徘徊している。
 怪物暴走による影響で、システムが破壊されている可能性がまず一つ。
 もう一つの可能性は、既に魔界都市計画は始動しており、この研究所を中心に町に怪物が蔓延る未来だ。
(実験トラブルであって欲しいところね)
 でなければ、町が魔界都市と化すことは避けられない。
 いや、実験事故だったとしても、隔壁が正常に作動していないのなら、もう既に外へ逃げ出した怪物がいるかもしれない。
(とりあえず、一通り調べておきましょう)
 事前調査で潜り込んだメンバーは、研究所内の各所を隠し撮りしている。だがそれらの写真では証拠能力が不足しており、公の場に出してもよく出来たフェイクと言われて終わる。
 より決定的な証拠を掴むのがジュディの任務だ。
 トラブルによるパニック下で、重要な証拠品がこの部屋に残されてはいないかの確認がしたかった。
 靴でガラス片を踏み潰し、一歩進むたびにびちゃびちゃと水溜まりの音を立てながら、ジュディは慎重に部屋の中を歩いていく。
 すると、倒れた研究員の姿が見えた。
 入口からは見えない、ガラス柱の土台に隠れる位置に、一人の男がうつ伏せとなっている。
 気を失っているか、それとも既に……。
 確認のため、ジュディは慎重に距離を詰めていく。死体かと思いきや、急に動き出しても構わないつもりで首筋へと手を伸ばした。
 脈がない。
 今度は手首も掴んでみるが、どちらの脈も止まっている。
(お気の毒ね)
 生きていれば何か聞き出せたかもしれないが、亡くなっているのなら仕方がない。他の場所を調べようと死体に背を向け、離れ始めた時である。
 ぴたりと、ジュディはその足を止めた。
(……冗談よね)
 滴の音が聞こえてくる。
 ぴちゃり、ぴちゃりと、どこからか垂れた滴が水溜まりを打ち鳴らす。つい先ほどまで一度も聞こえたことのない、波紋の広がる水音が背後でリズムを刻んでいる。

 ピチャ――ピチャ――ピチャ――――。

 ジュディは銃を握っていた。
(こういう演出って、初めて見たのはなんて映画だったかしら)
 水滴の音が増えていた。
 静かであった水音から、いくつもの箇所から垂れ続け、水面の至る所が連打されての、リズムの激しい水音へと変わっている。
「あぁぁぁ……………………………………」
 それは人間の声ではなかった。
 獣が出すような、低い低い呻き声だ。

 パリッ、

 と、次に聞こえるのは、人がガラスを踏みつけての、靴の裏側で割れた音だった。
 ジュディは懐の銃を完全に取り出して、引き金に指を触れさせている。いつでも発砲できる準備を整えて、ジュディは覚悟を決めて勢いよく、瞬間的に振り向くのだった。

 その瞬間に研究員は迫っていた。

 顔中にガラス片が刺さっていた。頬から、顎から、額から、いくつもの破片を生やし、表皮には血管が浮かんで皮膚が盛り上がっている。
 先ほどまで艶やかだった両手にまで、異常なほどに浮き出る血管の様子は広がっていた。
 そんな男が腕を広げて、まるで抱きつこうとしくるような突進で迫っている。
 ジュディの心に走る戦慄は、暴漢に対するような生易しいものではない。
 一目見て、一瞬で様子を見抜いていた。顔や表皮の状態だけでなく、爪や唇の隙間に至るまでの、細かい部位についても観察しきっていた。
 爪が異常に鋭くなり、口からは牙まで生えている。
 もう彼は人間ではない。
 遠慮なく引き金を引き、途端にその怪物は大きく仰け反る。まるで頭を打たれたように大袈裟に背中を反らし、両腕を後ろ側へとだらりと垂らす。
 だが、倒れない。
 怪物はその姿勢から、だんだんと背中を元の角度へ戻していき、額を銃弾が貫通していようとお構い無しに、再び前へと一歩進み出た。
「本物のゾンビなんて、初めて見たわ」
 最高にスリリングな体験だ。
 明日はいいことがあるだろう。
 だが、歓迎はしない。
 何発打てば死ぬのか、それとも手足を破壊して身動きを封じる必要があるのか。動きが止まるまでいくらでもぶち込もうと、ジュディは鋭い眼光でゾンビを睨む。

     *

 という原作の映画化で、主演に選ばれたのがジュディス・ランスターという女優であった。
 その話を引き受けて、ジュディスは原作に目を通してみたのだが、どうもこれは濡れ場というか、お色気というか。派手なアクションを行うスパイミッションものなのだが、男性向けのサービスシーンに溢れている。
 そして、監督はピッグマンという男だ。
 ピッグマン監督といえば、原作付きの作品はその大元の魅力に忠実であるべきとの信念が強い。
 曰く、原作とは関係のない客層は、原作を再現しようとするまいと来てくれる。だが原作の魅力を正しく発揮しなければ、原作のファンは来てくれない。どうせ集客をするなら、両方に来てもらった方がいいに決まっている。
 その信条はいいのだが、問題はお色気に溢れた原作でも、やはり原作再現への強いこだわりを持っている点だ。
 この作品の主人公である女スパイのジュディは、表向きには警備会社に勤め、要人警護や施設警備を行っている。しかしその正体は、世界に暗躍する秘密組織の陰謀を暴き、次々と悪事を阻止していくアクションヒーローだ。
 映画化するのは第一巻だが、原作は既に十巻以上も続いており、ジュディはそれだけ数多くの事件を解決している。
 さて、そのジュディには恋人がいる設定となっており、彼とのベッドシーンは極めて具体的なものだった。大抵の映画やドラマでは、ホテルのベッドを映した演出で、上手いこと匂わせて済ませるが、原作ではジュディの裸体を事細かに描写して、挿入によって喘ぐ場面を冗長なまでに描写していた。
 アクションものとして成り立つ筋書きで、毎回巨大な陰謀と戦い、勝利していく作品でありながら、原作者はこう宣言しているらしい。

 君達は大衆向けの娯楽小説と思っているようだが……。
 ――これはエロ小説だ。

聞いたところによれば、十巻以上続くシリーズの中、敵に囚われてのセックスシーンがあるらしい。潜入調査のために秘書になるが、社長にセクハラされても逆らうわけにはいかず、果てはセックスに持ち込まれるシーンがあるらしい。
 どんな陰謀にも必ず打ち勝つヒーローだが、そのヒーローに必ずエロシーンが用意されている。
 そんな原作である上で、監督についたのは大元の魅力をきちんと引き出すことにこだわりを持つ人物だ。その過去に撮影してきた映画では、セックスシーンですら忠実さを意識した。
 もちろん、原作でいくら挿入シーンが過密でも、それを劇場で放映することは出来ない。恋愛小説を映画化する過去の仕事で、性描写を冗長に書いた原作に触れた時、少なくとも俳優を裸にはして、画面から性の香りだけは放出しようと、試行錯誤の末に男優に愛撫をやらせたと聞いたことがある。
 肝心な部分は映せずとも、実際に感じている表情だけは撮りたい思いで、その撮影現場では性行為が実行されたとか。
 そして、現在撮影中の第一巻の内容には、恋人とのセックスが含まれている。他にも色んな場面で露出を伴う場面が散りばめられている。
 ゾンビと戦うシーンもお色気付きだ。
 ジュディはあの後で弾切れになり、それでもゾンビの勢いが止まらないので、弾倉を入れ替える暇もなく素手で応じる。頭に回し蹴りを叩き込み、倒れたところを蹴り潰し、ようやく一体目を倒すのだが、次の瞬間にはより多くのゾンビが部屋に雪崩れ込む。
 多数のゾンビを相手に派手なアクション。
 華麗なジャンプで舞い上がり、しぶといゾンビの頭を次々と破壊していくが、その最中に何度も何度も、わざわざパンチラの描写が入れてある。爪が衣服を掠めることで、肌がだんだんと見えていく描写がある。
 そして、主演女優であるジュディス・ランスターは、その役の通りにアクションをこなしたのだ。原作描写を映画栄えする描写に落とし込み、ジュディのイメージを意識した振り付けに従って、ジュディスはスカートで足を振り回した。
(まあ、それはいいわ)
 ジュディスもプロの俳優である。
 恋愛ドラマではキスシーンをやるかもしれない。アクションにも危険なスタントや火薬を使用したシーンは付きものだ。一部のシーンはスタントマンに変わるとしても、役者本人が危険な撮影に挑むことは往々にしてあるものだ。
 プロ意識を持つジュディスなので、下着が見えることは受け入れた。衣装が引き裂かれる場面でも、備品を破損させる関係上、撮り直しが続くと費用が嵩むことを考えて、失敗しないようにと慎重な気持ちで挑んでいる。
 だが、セックスシーンのある原作だ。
(噂では実際に挿入までして……って、聞いたことがあるけど、さすがに話が盛られているわよね?)
 ジュディスは不安に思っていた。
 セクシーな衣装は受け入れる。下着が見えることも構わない。しかし今作でのセックスシーンでは一体どこまで求めるのか。