第2話 認識阻害アプリ

 スマートフォンに見知らぬアプリが入っていた。
 ダウンロードした覚えのない、覚えのないアプリのアイコンが急に紛れ込んでいた時、真っ先に疑うものはウイルスである。
 SNSのダイレクトメールや電子メールで届くような、怪しいURLを踏んだことなどないはずだが、それでも知らないうちにどこかで何かに感染したのだろう。でなければ、アプリのダウンロードということ自体に覚えがないのに、知らないうちに入っているはずがない。
 一体、どこが感染経路になったのか。
 とにかく、消しておこう。
『ciGO』
 という名前の謎のアプリに指を置き、エイジは何の疑問もなく削除を試みる。
 特定のアプリに少し触れ、画面上端に運べば、削除やアンインストールのメニューが現れる仕組みに沿って、エイジは確かにそれを消す。
 起動は一切していない、はずである。
「は?」
 なのに、起動していた。
 アンインストールへとアイコンを運んだ結果として、起動というまったく異なる動作が起こっていた。

『ciGOへようこそ』

 初めての起動に対してか、まずはそんなメッセージが表示され、それに続いてこうである。
『このアプリは認識阻害アプリです』
 一体、誰がそんなことを信じるだろう。
 馬鹿馬鹿しいものを作る人間もいたものだと、半ば呆れ、半ば困って、エイジは仕方なくメッセージの続きを読む。指でスライドさせることにより、メッセージの表示内容を次へと移して、その瞬間に真顔になった。
『このアプリは世の不幸な人間を救済します』
 この一文はまだいい。
 怪しいは怪しいが、そういう設定なのだろうと軽く流した。
 問題はこの次だ。
『あなたはこれまでイジメや周囲からの軽視を受けながら育っており、過去にはエロオークというあだ名を付けられています。また、高校時代にも中学での痴漢について知れ渡り、暗い青春を送ってきました』
 ぞっとした。
 学生時代当時のあだ名などという、普通は知りようのない個人情報が入っている。ストーカー被害に遭った時の気持ちとはこういうものかと実感をさせられた。
「なんだ……これ…………」
 戦慄せざるを得なかった。
 どこぞに会員登録する場合、そこには住所を入力する機会がある。住所や氏名の流出なら、まだしもイメージとしては掴みやすいが、かつて付けられたあだ名など入力した覚えはない。
 同じ中学か高校にいた人間による悪質行為だというのか。
 それにしても、何の接点もない、連絡先もわからない元クラスメイトの中に、こんなことをする人間がいるというのか。
 ありえるが、ありえない。
 人にあだ名を付けて苛める人間が存在するのだ。下らないアプリを悪戯感覚で送りつける人間がいたとして、それ自体には驚かない。ましてエイジはその手の対象にされて生きてきたので、その一点には疑問がない。
 だが、どこの誰がエイジの個人情報をわざわざ突き止め、その上でこんなことを仕掛けてくるのか。就職なり何なりして、人よっては結婚したり、子供もいて、そんな中でエイジの相手をすることがあり得るだろうか。
 やれ仕事だ子育てだと忙しい人間なら、時間を割いてまで自分に構うわけがない。
 かといって、元クラスメイトでもなければ、誰があだ名まで知っているものか。興信所でも頼って人の身の上を調べるにしても、軽い悪戯感覚でそこまでするだろうか。
 よくわからないが、とにかく気味が悪い。
『あなたは今頃、このアプリを気味が悪いとお思いでしょうが、このアプリを操作することによって、ご使用の端末に不具合を起こすことはありません』
「信じられないなぁ……」
 だいたい、心を読まれた気分になって気持ち悪い。
『これから、このアプリの使用方法を説明します。是非、一度は必ずお試しになってみて下さい』
「試すっていってもなぁ……」
 認識阻害の効果を信じて実践など、いくらなんでも馬鹿馬鹿しくはないだろうか。本当に不具合の心配さえなければ、ごっこ遊びと思って試すことくらいは出来るのだろうが、その不具合についてが信じられない。
 個人のあだ名を突き止めてくる相手だ。
 どこの誰がエイジに対してこんな悪戯を仕掛けるのか、その想像がまったくつかないにしても、事実として突き止められている。だったら、やはり人の過去を調べてまで、悪戯感覚の遊びをやる人間が存在するに違いない。
 下手な操作をすれば、何がどう流出するかもわからない。
 しかし、アンインストールの操作をした結果、何故か起動するアプリである。そんなものの削除方法は果たしてあるのか、それともスマートフォンを丸ごと買い換える必要があるのか。悩まなくてはいけないネタを抱え、エイジはため息をついていた。
 せめてアプリを終了させ、消せないとしても、存在を無視し続けたいと考えた。
 ところが、アプリを落とすための操作を試みれば、なんと警告メッセージが出るのである。
『まだ説明の途中です』
 このままでは別のアプリも開けない。
 ならば、操作説明の画面をスライドさせ、全て見終わってからならどうだろう。
『あなたはまだ操作を実行していません』
 認識阻害アプリの効果を試すまで、終了すらさせてもらえないようだ。これではSNSを覗いたり、ゲームで遊ぶこともできないではないか。
 まさか、こんなことに時間を使う日がくるとは思わなかった。
「もういいよ。どうせ暇だし」
 エイジは諦めたようにアプリの使用を試みることに決めるのだが、もしも認識阻害などという効果が実在したら、それは何に使うべきだろうか。

 ――痴漢。

 真っ先に浮かぶ二文字がそれだった。
「そうだよね。うん、使い道はそれしかない」
 操作説明を読まずにスライドでさっさと飛ばしたため、もう一度確認できないかと画面を探す。上端に『メニュー』を意味する『Ξ』のマークを発見して、そこに触れれば『操作説明』の項目が出て来たため、今度はきちんと目を通す。
 どうやら、使用画面内にあるボタンを押せば、認識阻害機能が発動するらしい。その際はゲージが表示され、発動中はだんだんとゲージがゼロに近づいていく。
 発動中は周囲の人間はエイジの存在を認識できない。ゲージがゼロになるまでのあいだ、スリや万引きがやり放題になりそうだ。
 なんという犯罪推奨アプリだろう。
 ただし、痴漢のような身体接触行為を行う場合、周りの誰に気づかれることはなくとも、痴漢対象だけにはアプリ使用者の存在を認識できるらしい。
 となると、自分はこうもはっきり痴漢に遭っているはずなのに、どうして周りの人間は見て見ぬフリ、視線をくれることすらないのだろう。といった具合に、痴漢対象の女の子は絶望でもするのだろう。
「まあ、そんな都合の力があればの話だけど」
 認識阻害の最中、アプリ使用者は写真や動画に写ることがないらしい。
「これなら試せるね」
 ひとまずのエイジの目的は、一度は使用するまでアプリが終了できないので、仕方なくの落とすための使用である。
 信じてもいない認識阻害を試すのに、わざわざ外に出るのも馬鹿らしいので、そういえば機種変更前の古いスマートフォンが残っていることを思い出し、エイジはそれを使って実験する。
『ciGO』を起動して、すると画面にはゲージが表示され、その減少は既に始まっている。
 説明された効果が事実なら、今のエイジは自撮りも出来ないはずである。古いスマートフォンを起動して、馬鹿馬鹿しいとは思いながらも撮ってみる。
 それみたことか、認識阻害などという力など、別に存在しないではないか。
 と、馬鹿にするつもりであった。
 どこに誰がこんな悪戯を考えて、わざわざアプリを送りつけて来たのかと、腹を立てる準備すらしていた。

 だが、写っていなかった。

 エイジが撮ろうとした自撮り写真は、顔が画面をいっぱいに占めるはずのものである。そのエイジの顔があるべき部分がまんべんなくぼやけた上で、後ろ側の壁こそが写っていた。
「は?」
 信じられなかった。
 もしや人間の姿を認識して、自動的にその部分をぼかすAI機能でも存在するのか。などと一瞬は考えるが、そういう技術が存在しても、入ってもいないシステムがどうして機能するだろうか。
 なのに、撮った写真はそうなっている。
 ないはずの機能が働いている。
「ちょっと待って? 嘘だよね?」
 信じられずに、エイジは繰り返し写真を試した。動画撮影さえ試みて、自分の姿を映そうと躍起になるが、写るものはエイジを透かした壁や窓やカーテンだけで、決して姿は映らない。あくまで人型のぼやけた感じがあるだけで、着ている服の色すら判別できない。
 もしも透明人間が存在して、その姿が『一応』写るとしたら、こうして景色が部分的にぼやけた写真が出来るに違いなかった。
 だとしたら、認識阻害は本物なのか。
 いや、まだ完全には信じられない。
 しかし、もしかしたら……。
 もっと本格的に試さずにはいられない衝動が湧いてきて、しかしゲージが減るのは思ったよりも早い。説明によれば、時間経過によってのみ回復して、世のソーシャルゲームのように回復アイテムを課金で買うようなシステムは入っていない。
 その代わり、一時停止でゲージ残量を留めておくことはできるらしい。もっとも、操作画面上での停止中は回復しない。時間経過による回復は、アプリを終了させている最中のみだ。
 今は検証さえできればいいので、一時停止でゲージを保って外に出る。
 目の前から人が歩いてくる状況で使ってみた。
 前をしっかりと見て歩き、スマートフォンを見ているわけでも何でもない人間が、エイジとの激突など構わず迫ってくる。いや、ぶつかっても構わないのではなく、そもそも見えてすらいない風だった。
 エイジが咄嗟にかわさなければ、本当にぶつかっていたのだろう。そういえば、痴漢など接触行為を行えば、その相手だけにはエイジを認識できるとのことなので、激突した場合、相手にとっては、見えない壁にぶつかったと思ったら、透明人間が急に姿を現して見えることだろう。
 店の出入りを試してみる。
 相手がエイジだろうと、必ず「いらっしゃいませ」の言葉がある店で、店員は何の反応も示さない。では人の目の前に立っている状態で、急に認識阻害を解除したらどうだろう。
「!?」
 相手はぎょっとしていた。
 きっと、まばたきをする一瞬で、急に人が現れて感じられたことだろう。ワープで急に現れたり、透明人間が能力を解除してみせたように思えるだろう。
 ということは、もしも痴漢行為を働いたら……。
 ゲージ残量が残っている中、エイジは道端で一人の女子中学生を見かけていた。学校帰りなのか、夏の半袖ワイシャツで歩く二つ結びの後ろ姿に、エイジは衝動的にふらふらと、誘われるように寄っていく。
 接触すれば、その相手にはエイジがわかる。
 痴漢をすれば、対象だけからは認識阻害が解除される。
 そうとわかっていながらも、やらずにはいられない衝動から、認識阻害アプリを起動する。一時停止していたゲージが再び減り始め、残量がゼロにならないうちに触るため、エイジは足を速めて迫っていった。
「はぁ……はぁ……!」
 白いうなじ、小さな肩幅を真後ろから視姦して、エイジはすっかり息を荒げていた。こうもぴったり後ろについて、荒っぽい呼吸をしていたら、その気配に気づかない人間はいないだろう。
 だが、少女は気づかない。
 まだ手を触れないようにして、後ろからそっと手を伸ばし、手の平だけを肩越しに、顔の正面へと回り込ませる。視界を塞ぐ真似までして、それでも少女は気づかず歩き続ける。
 細かい原理はわからない。
 人間の脳に対して、どのような働きかけが発生しているのか、その想像はつかないが、ともかく今のエイジは透明人間と同じである。
「あー。ねえ君」
 声をかけてみる。
「…………」
 無視ではなく、そもそも本当に気づいていない、声が聞こえていない様子である。
 姿が透明なのは透明人間と言えばいいが、喋り、音を発生させているのに、それを認識してもらえないのは、声が透けているとでも思えばいいのだろうか。
 だが、触った瞬間、エイジは存在することになる。
 認識阻害の効果が発生している世界の中で、触れた相手だけが唯一のエイジを認識できる人間となる。
 その反応を見てみたい。
 だからエイジはお尻に向かって手を伸ばす。歩く動作に伴って、前後に揺れるスカート丈の上から手を置いて、お尻の感触を感じ取り、手が幸せになった直後である。
「いやっ!」
 少女は悲鳴を上げていた。
 ぎょっとした顔で、大慌てで振り向いて、勢いよく何歩も何歩も後ずさる。そのまま背中を向け直し、恐怖しながら駆け去っていく。
 その小さくなる後ろ姿を見ることで、エイジは高揚感を覚えていた。
「今の僕は…………」
 捕まらないに違いない。
 町中で堂々と触ったが、周囲の誰にも認識されず、姿はカメラにも写らない。この場所を映す防犯カメラがあったとしても、エイジには関係がない。
 あの少女がそれから警察に相談して、エイジの特徴を話したとしても、その通りの男がここをこの時間に歩いていたという事実がこの世界には存在しない。
 しかも、この『ciGO』にはまだ試していない機能もある。
 それらを全て使いこなせば……。

「は、はは……僕は……僕は……!」

 今まで、散々不幸だった。
 エロオークなどとあだ名を付けられ、蔑まれて生きてきた自分への、これは天からの贈り物だ。
 不幸だった自分には、これを使って大いに楽しむ権利がある。
「やる……やるぞ……!」
 これから認識阻害アプリを使いこなして、好きなだけ痴漢行為を楽しんで生きてやる。
 その歪んだ決心をしたエイジは、今日のところはゲージを回復させるため、アプリを終了させて家に帰るが、頭の中には既に計画を広げていた。
 どこでどんな風に楽しもう。
 どうやって痴漢をしよう。
 楽しく計画を練っている時、ふと頭に浮かんだ場所は、大きなレジャー施設であった。

 大型のプールランドである。

 そこを痴漢の舞台にしよう。
 場所を決定したエイジはスケジュールを立て始めた。