目次 次の話




 彼女を一目見たその瞬間から、嬲り尽くしたい衝動に駆られていた。
 そのサルカズの女はレズビアンで、昔から同性に対して劣情を抱く気質にあった。それも色恋や愛情の繋がりというよりも、気に入った獲物をこの手で調教して、思いのままに喘がせてやりたい欲望の炎が燃え上がるのだ。
 普段はそんな素振りも見せずに振る舞って、自分が同性愛者であることも、わざわざ言い触らしてなどはいない。そう打ち明けることで同じレズビアンの仲間を寄せ集めるより、見つけた獲物を捕らえて辱めることこそが、彼女にとって楽しくてたまらないことなのだ。
 外面を装う仮面の裏には、猛獣が肉を求めて彷徨うような、剥き出しの牙からヨダレを垂らした本性を隠している。
 下手に本性を曝け出せば、同性愛を苦手とする女にたちまち避けられチャンスを損なう。むしろ、普段は同性にとって親しみ安い存在を演じつつ、その仮面の内側にこそ牙を隠し持つのが彼女のやり方だ。
 ただの友人を装い、言葉巧みに誘い出し、二人きりになったところを襲う手口で、過去に何人もの同性達を喘がせてきた。
 これまで、獲物に惹かれてきた理由は様々だ。
 顔が気に入った。声が気に入った。手が綺麗、唇が綺麗。何かに食指が動いた時、その相手を襲わずにはいられなくなる。一度生まれた衝動は、発散しない限り消えることはなく、だから彼女はあの手この手でターゲットと決めた相手に近づいて、必ずどこかに連れ込み調教する。
 一度は交友関係を作り上げ、遊びに誘い出すのが基本的な方法だ。
 そして、彼女は今回もそれをやろうと試みていた。

「ねえ、あなた」

 狙いの獲物は青い髪のサンクタだ。
 角の黒いサンクタを初めて見かけ、一瞬サルカズと見間違えつつ、その横顔が視界に入るや否や胸を撃ち抜かれた。すぐにでも青い髪のサンクタを手に入れて、思うままに調教したくてたまらなくなっていた。
 胸の中に燃え上がるこの炎は、狂おしいまでに腹を熱して、この肉体を内側から焼き尽くしてしまいそうな、実に激しい衝動だった。
 初めてのことだ。
 同じような衝動は何度もあったが、それがここまで強烈で、今にも体の内側で発火でも始まりそうな感覚には、何よりも彼女自身が戸惑っていた。
 自分で困惑するほどに、あまりにも巨大な衝動は、今すぐにでも晴らさなければ、狂おしさのあまりに心がどうにかなってしまう。そうしなければ自分を保っていられない、切実な思いさえかけての接近に、彼女はかつてないほど心臓を高鳴らせる。
 これでは、まるで初恋の乙女だ。
 王子様に恋い焦がれ、愛おしくてたまらない時の乙女というのは、これほどまでに切ない気持ちでいるのだろう。そして、その恋する相手が目の前にいる時は、胸がどうにかなりそうなほどに心臓は激しく高鳴るのだ。
 彼女の中には、そんな熱があった。
 激しく高ぶる感情は、もはや勝手に起動してしまったエンジンだ。とっくに点火は済まされて、あとは推進力を放出しきる最後まで、決して止まることの出来ない衝動に、彼女は囚われているのであった。
 彼女はすぐに青い髪のサンクタを追いかけて、咄嗟に声をかけていた。
「旅行者かしら? トランスポーターといったところ?」
 外からやって来た者への、基本的な声のかけ方はわかっている。
 案内任として町の中を紹介して、良い店を教えたり、危険と安全についての助言を与える役割には一定の需要がある。一見、治安が良さそうに見えて、何も知らない旅行者を狙った悪党の手口にはいとまがない。
 ギャングの徘徊の多さから、どの道を歩いてはいけないのか。どこなら旅行者に優しく、どの店なら旅行者からふんだくろうとしているか。情報を知り尽くした案内任によるガイドがあれば、ぼったくりや犯罪のリスクをかわしたルートを辿っていける。
「そうだねぇ、外から手紙を届けに来たってところかな」
「私は案内役場の仕事をやってるの。もしお決まりでなかったら、私に任せてみない?」
 最高なことに、彼女は正式な職務の立場に就いている。
 肩書きのおかげで余所者の信用を買い取ることは簡単で、そしてひとたび案内を任せてもらえれば、外向的な性格を駆使して距離を詰め、一気に好感度を勝ち取りながら、いつのまに友人のような存在として、狙った相手の心の中に君臨する。
 きっと、思ってもみないことだろう。
 旅行者やトランスポーターに安全を与えるための、案内役場の肩書きを持ちながら、その案内任こそが危険な牙を隠し持っているなど。
「確かにありがたい話だね」
「そうこなくっちゃ! さっそく話は決まったようね」
「いいや、そうとも限らないかな?」
(え……)
 内心で引き攣った。
 彼女は今まで、この時点で失敗したことがない。見栄えの良い服装と、真面目すぎずふざけすぎない髪型に、声色から表情の作り方まで計算して、丁寧に磨き上げた第一印象は、初対面の相手から信用を勝ち取る最高の武器である。
 磨くことを怠らず、懸命に身に着けた腕前で、過去何人の女を落としてきたか。
「この町は初めてじゃなくってね。だから、一人で十分っていうわけさ」
「そうなの? 残念ね」
「申し訳ないけど、そろそろ行かせてもらうよ。急ぎ旅というほどでもないけど、仕事を早く片付ければ、少しは遊んでいられるからね」
 そう言い残し、青い髪にサンクタは行ってしまう。
「あ……」
 待って欲しいような気持ちに駆られ、思わず手を伸ばしそうな自分がいた。
 だが、そうすることに意味はない。
 ジャケットの背中を見送りながら、彼女は最後の最後まで、プロの意地で営業スマイルは保ってみせたが、心の中は荒れ果てていた。

 なんで!?

 ありえなかった。
 失敗したことが――いいや、違う。
 きっかけを作り、心の距離を詰めていき、友人のような立場を勝ち取る。その初手で躓いたことに対しても、確かにありえないと思う気持ちはある。
 だが、そうじゃない。
 一番ありえないことは、あの最高の獲物をみすみす取り逃がすということだ。

 だいたい、初めてじゃないって何!?

 彼女は憤っていた。
 あんなにも人の衝動を煽るような、素晴らしい獲物が一度はこの町に来ているのに、その時は見かけもせず、存在を知ることすらなかったのだ。そんな途方もない損失を知らず知らずにしていたことも、まさにありえないことの一つである。
(いいわ。取り返してやるわ)
 まだ、ここで終わったわけではない。
 初手で挫いても、偶然を装いながら、またどこかで会えばいい。青い髪のサンクタに近づくための手口など、まだまだ他にいくらでも思いつく。

 待ってなさい?
 必ず……。

 彼女はその背中が見えなくなる最後まで、サンクタを見送っていた。
 何故だか角の黒い、しかし惹かれるものを持つサンクタへの、親しみを込めた営業上の笑顔の裏には、ドス黒いものを隠していた。

 絶対、調教してあげるわ!

 彼女はもう完全に、獲物として見做していた。
 必ずや食らいつき、味わい尽くさなければ気が済まない。そうしなければ生きていけないほどの、あまりにも強い衝動を彼女は抱えているのであった。

     *

 天災トランスポーターの役目を果たし、無事に一通の手紙を届ける。
 早々のうちに仕事を終えたモスティマは、あとは目論見通りに町の中を見て回り、出店で美味しいものでも食べてみようと考えていた。
 初めてではない町なので、既に知っている店もいくつかある。
 最初に来た時には、まだ食べていなかったものを探して商店街を練り歩き、漂う香りを鼻孔に吸い上げる。客の前で肉を焼いてみせる店主の店に目を向けて、そのジュージューと油の弾ける音に耳を傾ける。
 気晴らしの時間を満喫しているうちに、これはと思うものを見つけて金を払い、その味を楽しんでいた。
 そして、出店をひとしきり回った後、モスティマは飛行装置のレンタルに目をつけて、便利に移動を済ませようと考え始めた。
 飛行装置は貴重なものだ。
 源石によって移動を行う航空機は、空を飛ぶという性質上、地上に危険なルートがあっても無視できる。その代わり、天候に左右されるなどの問題は生じるが、嵐の中での移動が困難なのは、徒歩でも車でも変わらない。
 この町ではそんな飛行装置のレンタルが行われている。
 移動都市同士で契約関係にあるらしく、だから移動可能なルートには制限がある。持ち逃げを目論んで、範囲エリア外に出ようとすれば、自動的に発進場所まで戻り始める上に、犯人が逃げられないようにドアにロックがかかる仕組みらしい。
 要するに、駅の決まった鉄道やバスのような使い方が基本となる。
 指定エリア内を自由気ままに飛び回ってみるのに使っても構いはせず、そういう道楽もあり得るものの、モスティマとしてはちょうどよく次の移動都市へ移ろうと考えていた。徒歩での移動も当然のように可能だが、途中にある地形を考えると、どちらの方が楽かは言うまでもない。
 そこで商店街を離れていき、この移動都市の出入り口付近にある施設へ向かう。
 レンタルの手続きをしようと建物に入ろうとして、その時だった。
 急にまた、通りがかりの女に声をかけられた。
「あら、あなた」
 聞き覚えのある声だった。
 町に入ったばかりの時も、歩き出して数分のうちに、早速のように声をかけられたので覚えている。
 案内役場に勤めるというサルカズ女性であった。
「おや、また会ったみたいだね」
 モスティマが目で微笑む。
 このサルカズの女性は、実に妖艶な美女である。長身でスタイルが良く、大きなバストとくびれた腰で、美しい曲線が成されている。上質な繊維で仕立てた紫色のドレスは、まるで貴族や貴婦人のパーティーに出席する衣装のようだが、外面を重視した仕事の場合、この町では高級な服装が普通化しているようなのだ。
 サルカズとラテラーノには長きにわたる確執があるとはいえ、彼女はそんなことをまるで気にせず、ただ純粋に、個人的に声をかけてきているのだろう。
「飛行装置を使うのね」
「まあね。届けるものは届けたし、見て回りたい場所も一通り回ったからね」
「そして、もう出発を考えているってわけね?」
「ま、そういうことさ」
「だったら、今度こそ私が案内しましょうか?」
「君が?」
「案内役場の勤め人が一緒の方が、手続きはスムーズになるわよ? 飛行装置ってほら、ハッキングでシステムを破って盗難しようとする人もいるから、そうなるとビジネスどころか大損でしょ?」
「そりゃ、損失額なんて考えたくもなくなるだろうね」
「で、ある程度の審査があるわけだけど、案内役場の私なら、人格に問題無しってお墨付きをつけやすいのよ。案内時に一緒に行動することが多いから」
「もし、君を頼らずに手続きをしたら?」
「もちろん、身分や支払いが確かなら通るけど、審査には半日以上かかるわね」
「さて、別に急いではいないけど、どうしたものかな」
 モスティマは少し考え込む。
 元々、その審査にかかる時間も含めて確かめに来ていたので、ここで答えがわかってしまったのは儲けものだ。半日以上かかるというなら、そのつもりで予定を組んで、出発日を決めるまでの話だ。
 ただ、物事がスムーズにいくのなら、その方が良いといえばよい。
「ねえ、私も仕事で点数を稼げるから、お互いの得になるのよ」
 と、サルカズ女性は自分にも利益があることを主張する。
「なるほどねぇ」
 モスティマは特に彼女を疑っていない。
 案内役場の正式な肩書きを持つ相手なら、トラブルの確率は低いだろうと、そう漠然と考えていた。ただ皆無だとも思っていないので、サルカズという種族はともかくとしても、見知らぬ他人に対する品定めの気持ちは少なからずあるのであった。
 こうして親切な顔をして近づいて来た者が、実は何かを企んでいる。
 そういった話はよくあるもので、長年トランスポーターを続けていれば、過去には何度か勉強になってしまったこともある。
 なので少々考え込み、迷いで決めかねていたわけだが。
(ま、別にいいかな)
 なまじ、危険な地域での空気感を体験して、リスクに対する嗅覚を養ってきた経験がある。その経験則から、この町で何かに巻き込まれる確率は低いと感じて、だからモスティマは油断していた。
 言い方を変えるなら、治安の良さという香りによって、かえって嗅ぎ分けにくい環境になっているとも言う。
 町そのものは本当に安全なのだ。
 無論、犯罪がゼロの都市などどこにもなく、安全性はただ高いに過ぎないが、治安整備によってギャング達の肩身が狭い。その追い打ちのようにして、案内役場の者に旅行者の安全を保障させ、危険をゼロに近づけている。
 その安全性が生み出す空気感は、モスティマも大いに感じ取っていた。
 だからこそ、不意に現れる悪意に気をつけようとは思っていても、町全体に空気に紛れてリスクの気配が嗅ぎ分けにくい。モスティマは比較的に勘の良い部類であるが、ならば騙し欺く側もプロであったなら、果たして目論見を見抜ききれるか。
 騙すプロ、見抜くプロがぶつかり合ったとして、どちらが勝ってもおかしくないのだ。
「うん、決めたよ。今度は頼らせて頂くよ」
 モスティマはそう決めた。
 そして、彼女がいかに内心ではほくそ笑み、口角を醜く吊り上げていたとしても、モスティマにはそれを見抜けない。巧妙に作り込まれた物理的な表情は、優しく親しみやすいオーラばかりを放出して、内面に隠れた邪悪をいくらでも覆い隠していた。
「嬉しいわ。さ、こっちよ?」
 その笑顔はまさしく、自分が人の役に立てて嬉しいものにしか見えなかった。
「ご厚意に甘えさせて頂くよ」
 モスティマはサルカズ女性の案内に着いていき、建物の中へと進んでいく。
 清潔な廊下を歩き、サルカズ女性を伴っての受付は、確かに彼女自身が言っていたように、ものの数十分という早さで済んでしまった。
「これはたまげた。今すぐにでも出発できてしまうってわけだ」
 と、モスティマは関心しきっていた。

     *

 飛行装置の手続きを済ませ、せっかくなので早いうちからモスティマはそれに乗り込む。操作パネルのボタンを押し、目的地に向けて発進させると、あとは自動運転に任せてのんびり過ごすことにした。
「そうだ。中の設備でも拝見させてもらおうかな」
 モスティマは席を立ち、航内を散策する。
 個人の移動にさほど大きな飛行装置である必要はないのだが、たまたま空きがあったのがこれらしく、集団を想定した収容人数なので、一人で乗ると随分広い。就寝用の部屋も並んでおり、トイレやキッチンなどの生活空間も見受けられ、快適に過ごせる作りである。
 それから、モスティマは窓辺に行き、地上を見下ろす。
 時速数十キロといった速度であるものの、この高さから眺める地上は、景色が随分とゆっくり動いて見える。この飛行装置の増したにある岩山の連なりは、あいだあいだに人の通れる道のりこそあるものの、迷路のような微妙な入り組みがある。
 地図もあるので迷いはしないが、道のりを真っ直ぐに行くことができずに、やたらに右折左折を繰り返し、ジグザグに移動してようやく突破となる地形である。そんなところを通っていけば、地上ルートでかかる時間は計りきれず、逆に空中から直線コースを辿ってしまえば、その時間短縮もまた計り知れない。
 モスティマはしばし景色を眺めていた。
 だが、それも数分もすれば飽きてきて、他に暇つぶしを求めて部屋を目指す。自室の荷物に本などが入っているので、時間は十分に潰せるはずだった。
 窓の並んだ廊下を突き進む。
 のんびりと、何を読もうか考えながら、機嫌良く歩いていたモスティマの足取りは、しかし不意に停止していた。
「あれ?」
 立ち止まり、モスティマは頭を手で押さえていた。
 急に頭がくらっとしたのだ。
 てっきり、立ちくらみかと思い、モスティマは落ち着いて呼吸をする。どうして急に足元がふらついて、倒れそうな気分になったのか。歩行時の足がふらっと狂い、転びそうな予感はしたものの踏み止まる。
 窓際の壁に手を当てて、寄りかかり気味になりながら、モスティマは頭の揺らめきが収まるのを待っていた。
「おかしいね。一体、どうしちゃったのやら」
 少なくとも、寝不足にはなっていない。
 トランスポーターの仕事で手紙を届け、そのついでに行った宿泊で、十分すぎるほどに眠ったはずだ。それでも長い移動疲れが残っていて、それが体調に現れたのか。脳に見えない何かが渦巻いて、頭をかき混ぜてくるような、妙にゆらゆらとする時間が続く。
 少し耐えれば引いていくと思ったが、その様子もなく視界まで霞み始めた。
「これは……よくないね……」
 こんなところで眠る気はない。
 休むならベッドでと、モスティマは眩暈に耐えながら歩き出し、一歩進もうとするのだが、前に踏み出した瞬間だった。
「え……!」
 さすがに驚いていた。
 歩こうとしたはずが、モスティマは片膝を突いていた、急に力が抜けて、立つこともできずにモスティマは座り込んでしまっていた。
「これは……いや、おかしいね…………」
 おそらく、体調不良などではない。
 もっと別の理由で力が入らなくなっている。座ってしまったモスティマは、立ち上がろうと足腰に力を入れようとはしているが、どうしても足が立たない。それどころか真っ直ぐに姿勢を保つことさえ辛く、壁に肩を寄りかける始末であった。
 いくらなんでも、ここまで疲れてはいない。
 多少のことなら、自覚がなくても疲労が溜まっていたのだろうと思うわけだが、ここまでくるとその度合いを超している。
 どこかで、何かの薬でも飲まされたか、さもなくば――。

 ――アーツだ。

 アーツにせよ、薬にせよ、こんなことをする以上、モスティマを狙う誰かが密かに乗り込んできているはずだ。どこに隠れているかはわからないが、モスティマが弱ったところを狙い、何かを仕掛けてくるのだろう。
 モスティマのアーツユニットは、杖は部屋に置いてある。
 手元にはない武器を思い、自衛のことを考えながら、モスティマは改めて立ち上がろうとした。壁に手の平を当て、壁伝いに這い上がるようにして、腕の力まで使って立とうとするが、腰を少し浮かせたところで筋力が限界を迎えていた。
 改めて確信する。
 やはり、これはアーツだ。
 脱力に逆らって、意地でも立とうとしたところに、そうはさせないかのように、より一層のこと力が抜けた。狙い済ましたように眩暈は強まり、景色が霞むあまりにぐるぐると回転まで始めたのだ。
 アーツによって、何かの術をかけられている。
 一体、何者か。
 どこの誰であるにせよ、このままでは危険なはずだ。モスティマの動きに合わせて術を強めてきたのなら、つまりモスティマの様子をどこからか窺っている。それが例えば、カメラで遠方の様子を見ながら、超長距離にかけられる射程の長い術ならともかくだ。
 そうでもなければ、モスティマのことを視認可能などこかにいる。
 それこそ、たった今、もう真後ろにいるかもしれない。

「あら、大丈夫かしら?」

 その予感を裏付けるような声を聞き、モスティマは戦慄の汗を噴き出した。
「……や、やあ。まさか、こんなところでまで会うとは予想外だよ」
 まさか、本当に背後に立っているとは思わなかったが、聞こえて来たその声は、町でモスティマに近づいて来たあのサルカズ女性のものに間違いない。
「ねえ、立てる?」
 口先では体調を気遣う言葉を選んでいるが、その口調はあまりにもサディスティックだ。人を虐めるのが大好きでたまらずに、何かを見下しながら発する意地悪な女王様の、加虐嗜好に満ちたサディストの声だった。
 同一人物の声だとはわかっていても、その豹変ぶりはまるで別人だった。
「個人的な恨みは買っていないと思うんだけど、サルカズとラテラーノ人だから、だったりするのかな?」
 余裕を気取った軽口で、取り繕った笑顔は浮かべてみせているものの、内心では気が気でない。こうも隙だらけの状態で、まともに立てもしないまま、後ろに敵が立っているのだ。これをピンチと言わなければ、周りを手練れに囲まれることもピンチのうちには入らない。
「何の話かしら? 種族の確執が今ここで関係あるのかしら?」
「いやぁ、とりあえず思いつきはするでしょ。そういう理由じゃないかって」
「傷つくわね。私はそもそも、同乗者の体調が悪そうだから、心配をしているだけなのよ?」
 あまりにもわざとらしい、初めから言い訳をする気もサラサラない、人を煽っているだけの台詞である。
 同乗者などいない予定の船内に他人がいれば、それは立派な不審人物だ。
「だったら、術を解いてくれると嬉しいんだけど」
「へえ、私のアーツのせいなのぉ? 私には、あなたが一人で勝手にフラついているようにしか見えないけどぉ?」
「だとしたら、体調不良の看病でもしてもらえるのかな? 同乗者さん」
「そうね。私がきちんと看てあげるから、私に任せておきなさい」
 かつっ、かつっ、と、靴の裏側が床を叩いての音が響くと、サルカズ女性の纏う紫色のドレスの丈が、モスティマの視界に入り込む。まさに見覚えのあるドレスの生地を見て、モスティマは我ながら呆れていた。
 手が差し伸べられた。
 そのすっと現れる手に合わせ、ぼやけきった視界が元の焦点を取り戻し、目の前にある綺麗な指先がはっきり映る。
「ま、今は大人しく看病されておこうかな」
 モスティマはそんなサルカズ女性の手に、自分自身の手を置いた。
 相手の目的はわからない。
 一つ確かなのは、モスティマがしくじったということだ。町で初めて声をかけられた瞬間から、きっと既に狙われていた。親切そうな笑顔の中に、こんなにも意地の悪い悪魔のような顔を隠して、その本性を今になって曝け出したのだ。
 危険を見抜き、回避できなかったのはおろか、アーツユニットが手元になく、術に対処することすらできない。
 今はサルカズ女性の言うことを聞き、その要求を聞いてみるしかなさそうだった。



 
 
 

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