第1話 娼婦のきっかけ

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 ジェーン・ウィローの記憶の中には、痛ましい惨劇の数々が刻まれている。
 友人だと思っていた者に石を投げられ、故郷と思った地が戦火に焼かれ、ありとあらゆるものを失いながら、それでも前に進むことが出来たのは、ヒロック郡の事業所に勤めていたロドスの面々やバグパイプとの出会いがあってのことだろう。
 それまで過ごした大地を去り、ロドスの船を目指したジェーンだったが、彼女の中に刻み込まれた他にもある。
 ヒロック郡を出てからの道中、またしても忘れられない出来事に遭ったのだ。
 今でも思う。
 あの時、あんなことが起きなければ、自分の中でこうした価値観の変化は起きなかっただろう。乙女心を持つ女は皆、それぞれの感覚で自分の貞操観念と付き合っているだろうが、その感覚に劇的な変化が起きて以来、もはやあれらの行為に抵抗を感じなくなった自分がいる。
 それどころか、自分の肉体を金勘定で捉える感覚さえ、心の奥底には芽吹きつつあるのかもしれない。
 この胸を揉ませることで、男からいくらの金を得られるか。口を使えば、あるいは最後までを許したなら、その行為をいくらに換金できるか。そういった計算を無意識のうちに行って、見返りも無しに体を許すことは損であると考える部分が心の中に生まれかねない。
 体を売る生き方と縁が無ければ、決して生まれないものが精神の中に芽を出すのだ。
「駄目ね。忘れないと……」
 ジェーンは自室で独りごちる。
 頭の中から振り払おうとしてみるが、忘れようと意識することで、記憶とはかえって脳の奥まで根を伸ばす。下手に意識などせずに、何か別のことを考える毎日を送っていければ、いつかは記憶の彼方に押しやれる日が来るだろうか。
「難しいわね。意識しないって」
 意識しない、別のことを考えよう。
 そう思おうとしている時点で、実はそのことを意識している。頭の中に浮かぶたび、別の考え事で上書きして、消し去ろうとする行為自体が意識していることの象徴で、自分では意識から追い払ったつもりでも、実は払い切れていないのだ。
 一日中ずっと何かに忙殺され、余計な悩みに頭を使う暇がなかった時さえ、その日の夢にそれらは出て来る。
 強烈な記憶を消し去ろうと思ったら、もはや記憶喪失にでもなるしかないのだろうか、とさえ思えてくる。
 ロドスの船に着いてから、仲間達の後押しを得て就任を住ませ、コードネームはサイラッハと決めてから、訓練や業務の日々を過ごし、いくつかの任務もこなしていった。そんな中、一瞬たりとも思い出さなかったはずの日でさえも、ふとした拍子に夢に出て来ることが、もう長らく続いている。
 一週間ほど忘れたまま、思い出さずにいられても、急に夢に出て来てしまう。
 夢でなくとも、ふとした拍子に急に前触れもなく頭の中にぶり返す。
 そのたびに、消えてくれないのだと実感するのだ。
「だったら、もう……」
 ジェーンは思う。
 鏡に映る自分を眺め、静かに髪の手入れをしながら、胸中ではその覚悟を決めつつあった。
「この記憶と、ずっと付き合っていくしかないのかな」
 消せない記憶は、一体他にどうすればいいだろう。
 忘れようがないのなら、嫌でも付き合う道を選ぶしかない。
 すっと、目を瞑る。
 まぶたの裏に浮かぶのは、あの荷台に乗った時の光景だった。その当時の景色が鮮明になればなるほど、大地を駆けるタイヤの揺れで、乗っている自分達まで揺らされた時の感覚が蘇る。
 それから、何人もの――。
 何人もの、何人もの男の味も、体中に蘇る。
 今まで意識から追いやっていたものを、いざ意識的に思い出してみた瞬間に、まるで五感がフラッシュバックでも起こしたように、表皮がそれらの感触を蘇らせる。太い指先に乳房を揉まれた時の感覚が、尻を撫でられ、口に咥えさせられた時の感覚が、挿入によって喘がされ、たくさんの快楽に翻弄された記憶が次々と押し寄せて、体中を包み込む。
 皮膚や耳さえ、あの数々の行為を覚えているのだ。
 これでは消えようもないはずだと、ジェーンはより深く実感した。
「ちょっと、後ろ向きかな」
 消しようがない。
 だから付き合っていくというのは、ただ他に道がないから仕方なくそうするということに他ならない。
「でも、もしバグパイプさんに相談したら――」
 前向きでも後向きろでも、決めないままぐだぐだするよりいいはずだっぺ――という、彼女らしい答えが想像出来て、打ち明けたわけでもないのに少しは心が軽くなる。
「うん。そうしよう」
 付き合っていこう。
 そうは決めてみたものの、この記憶と付き合うというのは、一体何を意味するのか。変わってしまった自分自身の価値観と戦うのか、開き直って肉体を金に換えることをこれからも是とするのか。
 いいや、もう体を売る必要に迫られることはない。
 そういう生き方の女もいるだろう。
 だが、自分がそうしたいわけではない。
 ジェーンが選ぶ道は、もう決して自分の肉体に値段は付けず、金勘定で誰かに体を許すことはしない。愛しい相手が出来た時、パートナーに心を許した時、そんな一般的な貞操観念の中に無理にでも自分を当て嵌め続ける。
 などと、そう決めてみた日の夜。
 またしても夢に出た。
 夢が必ずしも記憶の再現とは限らず、実際に体験してきた内容とは矛盾する。夢にありがちな脈絡のない構成になりながらも、見覚えのある場所や物、人物達が登場する。その中で自分は男に奉仕をしたり、交わったりしているのだ。
 それはヒロック郡を出て、とある隊商に出会ってからの、ジェーンが娼婦として過ごした日々の記憶であった。
 あの荷台の娼婦としての日々をジェーンは――サイラッハは思い起こした。
 向き合って、その記憶と付き合うために。

     *

 ジェーン達は絶望的な状況にあった。
 ほどなくして隊商の列が現れ、彼らの移動に乗せてもらうことが出来たのは、不幸中の幸いに他ならない。
 あのヒロック郡の騒乱の後、ロドスの船へ向かったジェーン達は、その道中でダブリンと思わしき集団の攻撃を受けたのだ。ただの儀仗兵とはいえ、元はヴィクトリアの軍人だったジェーンに加え、共に行動していたロドスのオペレーター達も応戦したが、武装集団が途中で撤退してくれなければ、果たして無事で済んだかどうかはわからない。
 その偶然出会った隊商は、商品を守るために傭兵を雇った一団だった。
 武装集団としては、彼らに加勢されては厄介と思ったのだろう。もちろん、隊商側がトラブルを嫌い、無視して過ぎ去ることもあり得たが、少しでも加勢される可能性がある以上、撤退こそがもっとも懸命だと判断したのだろう。
 そして、後から知った事実によれば、その撤退はまさしく最善だった。
 隊商の先頭を進んでいたトラックは、その運転中に前方の様子に気づき、双眼鏡で覗いてみれば誰かが何者かに襲われている。それをてっきり、賊に狙われた旅人か何かと思い込み、被害者を守るつもりで、ジェーン達の元にわざわざ接近していたらしい。
 近くを通ったことは偶然でも、進路は意図的に変更したのだ。
 多くの傭兵を抱えていたので、多数の兵力を前にすれば、たまったものでないと一目散に逃げ出すのは、計算のうちだったという。
 しかし、隊商が考えていたのはそこまでだ。
 賊を追い払ったら、助けたついでに情報を聞き出すべく、この辺りにはああいうのが多いのかと尋ねて把握するつもりでいたらしい。双眼鏡で覗いただけでは、車をやられているとまでは気づいておらず、隊商の列に混ぜて連れていってやるつもりなど毛頭なかったのだ。
 確かに、本来ならば追い払ってくれただけで十分だ。
 それだけでも大いに感謝するところだが、その時のジェーン達としては、極めて切実な状況だったのだ。
 車を失っただけでなく、重傷者まで抱えている。
 そんな状態で長い距離を徒歩で移動していくなど、とても考えられることではない。まして、またどこかでダブリンに狙われたり、単なる賊が出て来ても、疲弊によって対応力が低下するのは否めない。
 だから、オペレーター達は交渉に打って出た。
 途中まででいい、どこそこまででいい、自分達を移動の列に加えて乗せて欲しいと、必死に頼み込んだのだ。outcastが救った重傷者をまさか捨てることなどできず、しかし現実的に怪我人を抱えていくのは辛すぎる。
 当然、隊商は渋った。
 さすがにそこまでしてやる義理はないと突っぱねてきたのは、重傷者が感染していることも理由としては大きかったことだろう。
 感染者に対する対応など、所詮はどこも似たようなものだ。鉱石病が感染症である以上、感染を恐れる気持ちはどうしても仕方がない。
 それでも根強く交渉して、ロドス伝手の後払いまで約束しようと試みたが、隊商側はなおも渋り続けるのだ。そんな隊商に辛抱強く拝み倒して、やっとのことで折れさせることには成功したが、感染者には隔離用のトラックを用意するので、そこに乗せろというのが条件となった。
 それだけなら、残念ながら順当だった。
 しかし、ついでのように付け足された条件は、さすがに怪しいものだった。
 感染者の面倒を見るために、ある程度は出入りする必要があるだろうと、隊商側はいくらか気を利かせてはくれつつも、かといって感染を恐れる他の商人や傭兵の気も遣いたい。そこで男達には行動制限をかけ、近づいても構わない馬車やトラックは予め指定する。指定された以外のものに接近するのは禁ずるというものだった。
 健康な女一人を別の荷台に乗せつつも、男と感染者は隔離するというのが怪しさを匂わせた。面倒を見る者と、そうでない者を決めるのが、どうして隊商の意見によって左右される必要があるわけなのか。
 だが、その条件に呑まない限り、決して乗せることはありえないという。
 そう強く言われては、結局は条件に乗らざるを得ず、オリバーもシュレッダーも、同行の直前に口を酸っぱくして「気をつけろ」と繰り返してきた。
「わかっているわ」
 と、ジェーンはもちろんそう返した。
 商人達にせよ、傭兵達にせよ、いくら恩人であるとはいえ、無理な夜這いをかけにきたり、セクハラじみた真似をして来ようものなら、それは受け入れることはできないと、はっきりと表明するつもりでいた。
 そういう警戒心は、持っているつもりだった。
 しかし、結論から言うと、そう身構えていたジェーンの決意と警戒は、商人達による交渉と圧力の数々によって折られることとなる。

「あなたには娼婦となって頂きたい」

 隊列が移動を再開してから、早速のように話を持ちかけられた。
 断ろうとしたのは言うまでもない。
 未だかつて、そのような真似はしたことがなく、体を売ってお金を稼ぐということは、そもそも考えたことすらなかった。いかに儀仗兵に過ぎなかったとはいっても、軍人であった以上は収入があり、そうしなければ生きられない困窮とは無縁であった。
 そういう意味でも、ターラー人とは初めから溝があったのだろう。
 あの市民達の中には、ジェーンが知らずにいただけで、嫌でも娼婦にならざるを得なかった身の上の女性もいたのかもしれないと、今更になってそんなことを考えていた。
 最初はジェーンも意見して、別の形で働くから、自分も傭兵の一員になるからといった切り口で、娼婦とは違う方法で貢献しようと考えた。
 商人達の言い分では、安すぎる金で感染者を匿うリスクを背負った上、オペレーター達やジェーンのために食事の配分を変えなくてはいけなくなる部分について、それでは埋め合わせが効かないと、延々とそう繰り返した。
 ジェーンが何を思いつき、自分にはどんな仕事が出来ると主張したとしても、必要ない、もう他に人がいる、そういった答えが何度でも繰り返される。言葉を尽くすことに意味はなく、どう訴えかけようと、商人側の意見は変わらなかった。
 彼らはあくまで娼婦をやれとの一点張りだった。
 もはや、初めからそれが目的で自分達を招き入れたのではないかとさえ、ジェーンは疑い始めていた。
 そんな商人達であっても、恩人ではあるのだ。
 だから声に出しては言いにくいが、ジェーンの立場からすれば、ある意味では人質を取られたも同然である。商人達にその気はなくとも、娼婦をやれないのなら途中で下ろすと言われては、少なくとも重傷者の彼女の命は保障できない。
 いくら適切な処置が施され、本人の回復力も高いとはいえ、少しでも早くまともな環境下に保護しなければ、彼女は命を落とすかもしれない。outcastが救い出した命を、こんなところで犠牲にすることはできなかった。
 それに、ロドス側にも何かトラブルが発生したらしく、向こうから迎えを寄こせる状況でもないというのが、ジェーンの結論を決定付けた。
 結局、ジェーンは渋々と引き受けたのだ。
 もう他に道はあるまいと、隊商内で働く娼婦として、ジェーンはこの移動中のあいだ、特別に雇い入れられることになるのだった。