第1話 はじまりの時

目次 次の話




 行事の合唱コンクールの時期が近づき、天羽有香はピアノの練習を行っていた。
 サラサラとした黒髪ロングの持ち主の、いかにも大人しそうな顔付きの通りに、スポーツや悪ふざけといった方面では、あまり活発とはいえない。物静かに本を読む姿こそが絵になって、そこに窓からの逆光でもかかろうものなら、芸術家が手がけた一枚にすら見えてくる。
 育ちの良いお嬢様として見られがちだが、実際に家の収入はよく、普通よりも大きな家に暮らしている。ピアノやバイオリンを習った経験もあるところは、ただ豪邸に住んでいるか否かの違いだけで、多くのクラスメイトが抱くイメージとおおよそ一致したものだった。
 そんな有香がピアノを弾く。
 合唱コンクールにおいて、誰が指揮者をやり、誰がピアノを弾くかの役割決めで、伴奏はまず間違いなく有香であると、クラスの誰一人として疑っていなかった。そもそも、他にピアノの経験を持つ子もおらず、半ば自動的な決定となり、有香はそれを快く受け入れた。
 そのリハーサル連中で体育館に集合して、クラスが列を作った中、有香は舞台上のピアノの席についている。
 小学生の歌声が響き渡った。
 指揮者が腕を振りたくり、それに合わせて一人一人が抑揚をつけている。音楽の先生に習った通りに、声の高低を意識しながら、そして有香は鍵盤に向かって指を踊らせていた。
 白く柔らかい指が弾んでいる。
 繰り返しの練習の果て、もはや手元や楽譜を見るまでもなく音を奏でている有香の、軽やかな指遣いは美しかった。詩人に詩的な表現をさせるとすれば、その指はまさしく湖で踊る妖精そのものだ。
 男子の誰もが有香に注目を寄せている。
 密かにチラチラと盗み見ずにはいられないほど、今日の有香は本当に可愛いのだ。
 といっても、黒いワンピースを着ている以外、何か特別なメイクやアクセサリーがあるかといったら何もない。服が可愛いのはいつものことで、ルックスも男子には人気が高いが、やはりピアノを弾く姿の、その絵になりようこそが人目を引きつけていた。
 ゴシック調のデザインで、腰の締め付けを調整するためのベルトには、大きなリボンが付いている。太ももを隠しきる程度の、よくある丈の長さの下には、膝のすぐ近くにまで迫る長い靴下があるのだった。
 そんな洋服がピアノとマッチして、誰もが目を惹かれてしまう。
 同じ服装でピアノのコンクールに出場して、審査員が見守る中で弾いたなら、それこそ本物のお嬢様に見えるだろう。どこかの大企業の令嬢にして、英才教育で育った筋金入りのお嬢様として表に出せば、誰もがうっかり信じかねない。
 それほどまでに雰囲気を出し切る有香には、クラスメイト以外にも、このリハーサルを見学している一人の大人の目が向けられていた。

「あの子が天羽有香ちゃんかぁ」

 小さな独り言を漏らすのは、一人の医者だった。
 彼は最近になってこの町に引っ越して、とある病院を引き継ぐこととなった太野屯一という中年である。
 太野はそれまで大きな病院に勤める人員の一人であったが、小さな病院に勤める知り合いから声をかけられ、うちの病院を継がないか、と勧められたのだ。
 聞けば宝くじに当たったとかで、仕事をやめることにしたものの、病院をそのまま閉めるのも忍びない。今まで働いてもらった看護師に、いつも利用してくれる患者達のことも考えて、病院は潰さずに誰かに引き継がせようと考えたらしい。
 だが、子供が医者をやっているわけでもなく、親族にも医者がいない。順当に声をかけるべき身内がおらず、必然的にそれまで知り合ったことのある誰かに声がかかることになる。たまたま知り合ったことがあり、たまたま連絡先も交換したことのある人物として、太野は選ばれたわけだった。
 そして、それを受け入れることに決めた理由はただ一つ。

 小学校の校医になれるからだ。

 この時代、小学生以下の児童に性的な感情を抱く、いわゆるロリコンやペドフィリアといった存在は、さも架空の存在のように見做されていた。そんな大人が存在するはずはなく、よって目の前に児童の裸があったり、下着が見えていたとしても、特別に気にしないに決まっている。
 こうした風潮の中、子供の羞恥心というものは、まだまだ軽く見られていた。
 それどころか、下手に恥じらいを表に出そうものなら、子供のくせに何を一丁前に赤くなっているんだと、逆に怒られるのが普通ですらある世の中だ。
 そんな時代において、しかし太野はロリコンだった。
 医者を目指した動機そのものは、若かりし頃に抱いた使命感だ。誰かの助けになりたい、人の命を救いたいといったものだったが、そうした感情は加齢と共に枯れていき、仕事の忙しさにストレスを感じるようにさえなっていた。
 以前の病院で主に見ていたのは、同世代の中年かそれ以上の老人で、年老いた肌ばかりを見てきている。子供であったり、若い女の子の肌を見たことなど、果たしてどれほどあっただろうか。
 それが校医ともあれば、毎年のように小学生児童の裸を見ることができる。
 ついでに男子の裸も目に入るが、そこは仕方がない。
 ともかく、周囲には性癖を隠しているが、実のところ小学校高学年あたりの裸に興味を持つ太野には、学校の校医をやれるというのはメリットだ。病院を引き継げば校医にもなれるというので、表向きには動機を隠しつつ、太野は誘いに乗ったわけだった。
 引き継ぎも完了して、来年からは校医が変更になるということでの、学校への挨拶に伺ってみたところ、合唱コンクールの練習があるというので、ついでに見学に来たというのが、太野が今こうして体育館にいる理由である。
 そして、天羽有香の容貌が目を惹いた。
「可愛いもんだ」
 誰に聞こえるわけでもない、本当に小さな声で彼は呟く。
 太野は有香のことを数日以上も前から知っていた。
 というのも、病院を引き継ぐ際に身体検査のデータも手にしており、太野はそれらに目を通した。再検査の必要のある児童はほとんどおらず、誰もが健康そのもので、たまに視力の低い子供がいるくらいではあったが、一つ気になる点もある。
 どうもあの子は、オナニー経験者らしいのだ。
 子供の成長についてデータを取るため、性的な刺激を与えたり、性的な質問を行うケースもあると聞くが、その過程を経て作られた有香のデータには、自慰経験有りと記載があった。
 顔写真も見ているため、おかげでこの学校に通う可愛い女子の存在だけは知っていたが、偶然にも張本人を目にしたわけだ。
「よし、決めたぞ」
 そういえば、性にまつわる調査依頼が保健機関からやって来ており、太野には調査データの提出義務が課せられている。
 それに有香を指名して――。
「ふひひ」
 好みの女子の裸を想像して、頬が緩みそうになった途端、太野は慌てて表情を引き締める。
 いくらロリコンなど存在しないかのような風潮があったとしても、裏返して考えるなら、それだけ異常視されているのだ。
 ネッシーやツチノコなどいるわけがないと語るのと同じくして、ロリコンなど存在しないと、何の疑問もなくごく自然と人は言う。一億人の中から探して、やっと一人見つかる程度の存在なのだから、そこらを歩いているわけがないと、誰もが当たり前に考えている。
 いなくて当然と考えるのは、異常視の裏返しに決まっている。
 こんな世の中でロリコンが発覚すれば、一体どんなことになるだろう。
 ついつい、魔女狩りの時代に起こった残酷な裁判の数々を連想してしまう。
(ま、でもバレないんだよね)
 パンツ一枚での身体測定にも、大人は疑問を抱いていない。
 ならば、検診の場で脱衣を命じたくらいでは、まず疑われることすらないだろう。医者として当然のことをしているに過ぎないと、そう思われて終わりである。
(というわけで、指名しちゃおっかなー)
 伴奏に集中している本人は、太野の邪悪な心になど気づきもしない。
 自分の知らないうちに書類が作られ、本人の意思確認もなく手続きが完了することになってしまうのも、今の有香は想像すらしていないのだ。

     *

 リハーサル練習を経て、その週末には本番を実施した。
 一つの行事が終了して、数日が経ってから、天羽有香は担任から呼び出しを受けていた。

「精密調査への協力依頼、っていうものが来ていてね」

 放課後の教室で、デスクに座る担任を前にして、有香はその説明を受けていた。
 通常の身体測定で測る内容だけでなく、より詳細なデータを取るための精密調査で、毎年誰かに依頼が来るという。その手続きを行うと、またしても裸で検査を受ける上、性的な質問にも答えなくてはいけないのが調査内容らしいのだが、有香にはその意思確認の暇など与えられもしなかった。
「というわけで、同意書を送っておいたから、都合の良い日を教えてくれる?」
 断る機会がありすらしない。
 有香がそれを受けるという前提で、勝手に同意された上、当然のように日程の都合まで尋ねてくる。
 正直、信じられなかった。
(子供だって恥ずかしいのに……)
 その思いはふつふつと湧いてきて、本当は何か意見を言いたい気持ちでいっぱいだったが、それは無駄だとわかっている。小学生が何を言っても、大人に楯突くものじゃない、子供のくせに生意気だと、まるでこちらが悪いかのようにあしらわれる。
 もちろん、性格もある。
 強くものを言ったり、激しく主張して押し通すのは大の苦手で、控え目な有香には大人に意見すること自体にハードルを感じてしまう。
 だからこの前、ブラジャーの件では先導美樹が頼もしかったわけだが。
 性格に加えて大人の風潮まで重なってくるのでは、もはや何を言う気力もわかず、話を聞けば聞くほど諦めの心境になるだけだった。
 そんな担任とのやり取りで日程を決め、日曜日に病院へ行くことが決定すると、その日は薄暗い気持ちで家に帰った。
「……はあ」
 部屋で過ごす有香は、傍らに犬を招いていた。
 広々としたマンションの上階で、両親のそれぞれに個室があり、有香の専用部屋もある上で、リビングもなかなか広い。明らかに生活水準の高い住まいの中、ペット可とする物件なので飼っているゴールデンレトリーバーは、有香によく懐いており、よく有香が散歩に出す。
 犬の名前はミハエルだ。
 読書の邪魔をされたくない時、落ち込んでいる時、有香の気持ちをある程度はわかるらしく、今は吠えることも何もなく、ただ静かに傍らに寄り添ってくる。有香はそんなミハエルに腕を回して隣に抱き寄せ、憂鬱にも天井を見上げ続けた。
 身体測定は毎年嫌だが、今年の分はあれで終わりと思っていた。
 次は中学生になるまで機会がなく、あとは風邪でも引かない限り、男の人に胸を見せたり、まして下着一枚の姿になることはないと思っていた。その後で合唱コンクールという行事を挟み、もう忘れた頃になってのこの話は、身体測定の時期にある憂鬱な気分が蘇り、有香はブルーに浸っていた。
 嫌だなぁ、行きたくないなぁ、なんてことをひたすらに、心の中で延々と繰り返す。
 こうしてぼんやりと時間を過ごし、ふと気晴らしをしようと思いつき、有香はミハエルと共に外へ出た。散歩という言葉を覚えており、だからミハエルは「散歩行こう?」と一声かけた瞬間から、明らかに表情を変えてはしゃぎ始めた。
 犬にも意外と表情があるものだ。
 特に家族の一員として過ごしていると、たまに人間同士のやりとりと同じくらいに、顔だけで感情が見える気がする。
 気がするだけかもしれないが、少なくとも表情はきちんとある。
 リードを握ってマンションの外を出歩いて、いつも通りのコースを歩いていく。人混みに入っては迷惑をかけやすく、車の量が多いところも避けたい有香の道のりは、自然と公園付近となっていた。
 河川敷の方に行けば、密かに好意を寄せるクラスの男子、伊藤拓也の顔を拝める確率はあるのだが、そこには必ず他の多くの友達もいる。大勢の中へ飛び込んで、その上で目当ての相手に声をかけるというのは有香にとってハードルの高い話で、だから河川敷の方は通らず、静かな住宅地の道のりばかりを歩んでいく。
 すると、その時だった。

「あれ? 天羽?」

 道を曲がったその瞬間、ばったりと鉢合わせたその相手は、なんと拓也なのだった。
「え? え、え、え……!」
 急に顔が染まり上がった。
 鼓動も早まっていた。
「なんだよ天羽。驚きすぎだって」
「そ、そうだよねっ。うん、同じ町だもんね。こういうことくらいあるよね……」
「何当たり前のこと言ってんだ? ってか、犬飼ってたんだな」
 興味津々の眼差しで、拓也はミハエルの元にしゃがみ込む。ミハエルも初めて出会う人間に対する好奇心を発揮して、激しく尻尾を振っていた。
「あの、ミハエルっていうの……」
「へー? ミハエルか。いつも天羽が散歩すんの?」
 拓也は頭を撫で始めるが、ミハエルは抵抗せずに受け入れる。
「いつもじゃ……ないけど、結構する方、かな」
「ふーん? あ、俺は行かなきゃ! じゃあな! 天羽!」
 急に思い出したように立ち上がり、拓也はそれで行ってしまった。
「う、うん……ばいばい……」
 などと言葉を返すのは、その去っていく背中が小さくなって、とっくに声など届かなくなってからのことだった。
 しかし……。
 少ししか話せなかった。もう少し話したかった思いもある。
 けれど、やっぱり嬉しかった。
 急に偶然出会う体験は、ちょっとしたことではあっても、有香にとってはドキドキするものだった。
「いいことあったし、これでやっていけそうかな。ミハエルのおかげだよ」
 などと言い、有香はミハエルの頭を撫でる。
 たまたま犬を飼っていて、たまたま散歩に出ようと思いつかなければ、この幸運はなかったものだ。ミハエルが存在してこそ起きた出来事に、だから有香はミハエルを称えていた。
 ミハエルはやはり、嬉しそうに尻尾を振りたくるのだった。