第1話 謎のウイルス

 チェン・センユーは驚愕した。
 この村に到着してから、Wウイルスの存在が耳に入ったのはその日のうちの話であった。決まった性別にのみ感染など、そんな話が真しやかに囁かれていたために、真実を確かめようと診療所へ駆け込めば、開け放ったドアの先では中年医師が逸物を握っていた。
 何故か顕微鏡を前にして、シャーレを片手に男根を扱き、まるで何かの観察を始める直前のように、しかしやっている事は自慰行為なのだった。
「えええ!? えーっと、ごめん! 急に入って!」
 チェンは慌てて背中を向けた。
「ま、まったく! ノックぐらい――」
 そんなチェンの背中へと、同じだけ慌てた声がかかってくる。
「ごめん、だってそんなことしてるとは思わないし! ホントびっくりしたよ!」
「びっくりはこっちさ! ああもう、これでは本当に気まずいといったらない。まあとにかく、もうしまうものはしまったから、こっちを向いて構わないよ」
「うん。それじゃあ……」
 男根が視界に入った手前、確かに気まずい。少し躊躇いがちに振り向くと、やはり中年医師は顕微鏡を前に腰を落ち着け、そのレンズの下にはスライドガラスがセットされていた。そして白衣を纏った装いは、やはり何かの観察をする直前に見えるのだが、ならばあの自慰行為は何だったのか。
「それで、慌ててきたという事は怪我人でも?」
 気を取り直して、中年医師は尋ねてくる。
「ごめん、ちがうんだ。この村に変なウイルスがあるって聞いて、お医者さんに確かめてみようかなー、なんて」
 チェンとしても、つい先ほど見たものについては触れないように流行病へ話題を移す。
「ああ、そういうことなんだね」
「ねえ、ホントにそんなものってあるの?」
「そうだね。どういうわけか、今まで男性への感染例がなく、女性だけが患者となり続けているウイルスがある」
「うっへぇ、あたしって、そんなところに来ちゃったの?」
「帝江号に報告はしていたはずなんだけどね。ちょっと、色々と積み重なっていたみたいだ」
 そう口にした彼は、共有ミスによる不手際から、まさにそのタイミングでランドブレーカーの脅威性が判明して、良くも悪しくもチェンの腕が必要とされてしまった流れを説明する。仮にも治療法は発見しているので、万が一チェンが感染しても完治は可能である事まで語られるも、その表情は非常に曇ったものだった。
 いくら治せるとはいえ、Wウイルスが流行っている場所に、わざわざ女性が来てしまった。曇った表情の理由をチェンはそう捉えていたが、中年医師はそれとは少し違った事を言い出した。
「治療法にはね、少し問題があるんだ」
「問題? 薬が足りないとか?」
「いいや、そうじゃない。そうじゃないんだ。治せるか治せないかでいえば治せるし、副作用も今のところ確認されていない。だけど、問題がある」
「ほー……。副作用もないのに? なんか、どういう問題なのか、あんまり想像がつかないんだけど」
「さて、ここでさっきの話に戻るよ? 本当にね、僕の方からそこに話を戻すのは、本当に気まずいんだけどね。実は顕微鏡で精子を見ようとしていたんだ」
 まさに気まずい部分に戻ったおかげで、チェンは困った風に苦笑する。
「いやぁ、そこに話戻す必要ある?」
「信じられないかもしれないけど、これもWウイルスと関係のある話なんだ。なんで精子を観察しようと思ったかといえば、これは映像――ああ、顕微鏡のね、ウイルスの撮影なんだけど、それを見てもらった方が早いかな?」
 中年医師は立ち上がると、デスクに置いたパソコンを立ち上げて、動画ファイルの再生を行った。顕微鏡にカメラを取り付けた撮影の、微生物が無数に蠢く映像が始まると、その光景にチェンの視線は吸い寄せられた。
「ほーぅ……」
 感心していた。
 オタマジャクシに近い形の群体が、円盤状の群れを次から次へと消滅させている。まるでお互いの正体が風船であるように、触れ合った途端に針が刺さったように消え去って、最後には何もなくなっていた。
「この通り、精子によってWウイルスが駆逐されたんだ」
「精子? うん、あれ? 問題って、それじゃあ……」
「治療には精子を使用するんだ」
「ねえ、それってホントに言ってる?」
「信じられないだろうし、どうしてこんな事が起こるのか、僕にだって理解できない。まるでわけがわからないまま、ただ精子が治療に使えることだけが判明してるんだ」
「そんなコトってある?」
「精子を薬として投与しなくてはいけない。副作用で別の病気や症状に罹るわけではないけど、あまり好きで受けたい治療とは言えないでしょう?」
「うん、そりゃそうだね。えっとさ、冗談じゃないよね? あたしのこと、からかってるわけじゃ……」
「からかってないよ。実際に完治した患者を紹介すれば、受けた治療について本人から聞き出すことも可能だよ。もっとも、話したがる子がどれくらい居るかはわからないけど」
「うわぁ、そりゃ感染したくないなー……」
 チェンは引き攣っていた。
 摂取と言うが、それは具体的にどう行うのか。紙コップの中で薬液とかき混ぜそれを飲むのか。まさか男性器から直接摂取ではないと思うが、とにかく治療を受ける機会など発生しないで欲しかった。
「それで、具体的な治療法は今のところ伏せてるんだ。あまり言い触らすというかね? 治療を受けた患者さんとしても、なるべく知られたくないんじゃないかと思って、帝江号への報告でも実は伏せていて……」
「うーん、秘密にした方がいい?」
「隠し通すわけにもいかないし、いずれは報告しなくちゃいけないけどね。どうやって伝えるか、できるだけ考えをまとめてからにしたくてね」
「ならあたしもなるべく喋らないようにするけど、ところでWウイルスの症状って、どういうものなの?」
 チェンは元々、そのウイルスについて尋ねに来たのだ。女性にのみ感染するものが本当にあるというなら、その症状についても知っておきたい。
「患者さんの許可を得て、いくつか症例写真を撮っているから、これも見てもらうのがいいかな? ただ、ショッキングな写真になるけど」
「まあ、大丈夫かな」
 知るためにもそう答えるが、一体どれほどショッキングなのか。気を引き締めたチェンの前へと、次々と提示される症例は、乳房や性器が黒く変色して爛れていき、見るも無惨となったえげつないものだった。
 そして、チェンには感染の可能性がある。
 もしも自分がそうなったら、その恐怖が具体的な形を帯びて背筋を這い、心と魂を引き締める。こうはなりたくない思いが強く働き、ならばチェンが考える事といったら、どうすれば予防できるかだ。
「これらの写真は、ステージが進行した場合のものでね。初期症状のうちはここまで恐ろしい事にはならない。だけど、放置するとやがてこうなる」
「ねえ、予防法は? ちょっと詳しく聞いておきたいなー、なんて」
「僕も詳しく話したいのは山々だけど、治療法の発見だって偶然に過ぎないくらいだ。どうしてもわかっていない事の方が多くて、申し訳ないけど手洗いうがいはしっかりと、ってくらいしか言う事がなくってね」
「うーん……。罹らないように祈って、よーく洗うことにしておこうかなぁ……」
「ああ、そうだ。強いて言うなら例の洞窟かな。元々、その洞窟の土中に潜んでいたんだけど、掘り返したせいなのか、元からそうだったのか、調べたところ大気中にもうようよいてね。村の大気とは比べものにならないほど危険だから、特段の理由がない限り、例の洞窟には近づかない事だね」
 中年医師はそう言って、その洞窟とやらの場所を教えてくれるので、この周辺にはできるだけ近づくまいと、チェンは強く肝に銘じていた。
「もし症状が出たと思ったら、すぐに来るんだよ? 具体的には――」
 そして、どういう場合に診察を受けるべきなのか、兆候について詳しく話を聞いたところで、この日のチェンは診療所を後にして、とんでもない所に来てしまったと、後で密かにため息を吐いた。
「でもまあ、普通にしてる人もいっぱいいるし」
 村の様子を見渡せば、畑を耕す女性や元気に駆け回る少女などいくらでも見かけるのだ。いくら流行りの病気といっても、村の全女性に感染しているわけではない。この村で過ごすからといって、チェンにも罹るとは限らない。
 きっと罹らずに済む。
 そう信じつつ、手洗いうがいの意識を強めたチェンであったが――。
 僅か数日後。
 不幸にもランドブレーカーとの戦いに駆り出された。
 よりにもよって、中年医師が話した洞窟付近。
 村人の命に関わるので、参加しないわけにもいかない争いが発生して、洞窟に入りはしないまでも、すぐそこの空気は吸ってしまって不安に駆られた。
 そんな先頭の翌日である。

「あー……。えっと、大変言いにくいというか、何かの間違いだったらいいなー、ってカンジなんだけどさ」

 チェンは再び診療所を訪れた。
 できれば、Wウイルスを理由に来る機会など、本当にない方が良かったのだが、感染した上で放置した場合の未来を、恐ろしい症例写真をチェンは見ている。精子が薬として使われる事には抵抗があるものの、あれら写真の通りになる方がよほど最悪ではないか。
 来ないわけにはいかなかった。
 そして、これはWウイルスではありません、何か別の症状です、と。そう言って欲しい願望を胸に、チェンは診察室で中年医師と向かい合う。
 綿棒で唾液を採取した。
 注射器で血液を採取した。
 トイレに移動して、紙コップに尿を出した。
 それら検査の結果として、特に異常はないという答えを心の底から祈り求めて、診察室の椅子でチェンは待つ。この場を離れ、どこか別の部屋で成分分析をしている中年医師が、やがてチェンの前に戻って来ると、妙に言いづらそうにした風な、気まずい顔をしていたので、もうそれで察してしまった。
(い、いや! まだわかんない! 答えは実際に聞いてみるまでわからない!)
 目つきや表情については見間違い、特に異常は無し、健康そのものと言ってもらえる可能性は残っている。そう信じたチェンに対して、中年医師の言葉は残酷だった。
「大変言いにくいけど、Wウイルスだね」
「あ、あはは…………」
 チェンは引き攣ったように苦笑した。
「そういうわけで、治療をしないわけにはいかなくなってしまったよ」
「まあ? 治るものに罹っただけ、治らないものよりずっといいかな? うん、だって治療自体はできるんだよね」
「そうだね。あの写真を撮った時、救えなかった数が増える一方だった。でも治療法を発見した今、今後の患者にはあんな写真のような未来は迎えさせない」
「う、うん。そっちの方が大事! っていうか、投与の方法だって、錠剤のカプセルに詰めるとか、なんかそういうカンジだったりしない? 気にせず飲んじゃえば普通の薬と変わらない、みたいなさ」
「それなんだけどね……」
「ありゃ……。あのさ、もしかしてなんだけど、そういうカンジではなかったりしちゃうのかな」
「放出後、十数秒以内の精子でないと効果がないんだ。つまりカプセルに詰めるとか、紙コップに混ぜてどうこうとか、そういう措置を挟む猶予がなくてね……」
 中年医師がそう述べれば、もうそれでチェンの脳裏には、あらぬ手段が嫌でも浮かぶ。
「な、な、なぁ……ははっ、治す方が……大事…………」
 見せてもらった症例写真といい、命に関わる問題である事といい、健康と天秤にかけるのなら、嫌でも治療を受ける道を取るしかない。
「チェンちゃん、気持ちはわかる。いや、女性の気持ちをわかると言い切っちゃいけないのかもしれないけど、心中は察しているよ。そして、僕は今まで何人も、そういう困った気持ちにさせてきた」
「そりゃ……。うん、そっか。そうだろうなぁ」
「精子の有効性が判明して以来、治療の確実性を上げる方法もわかっている。これもね、そうすれば効果が上がるとわかっていても、何故そうなるのかは不明なままなんだけどね。これから僕自身が薬を飲む。そうする事で、精液が持つ特効薬としての力を高める。今回はまだ初期症状で猶予があるから、僕の飲む薬の効果が出るまで二日待つ。そして、二日後に具体的な治療を行う。その際、どの程度の精子量が必要なのか予測するため、チェンちゃんの体をもう少し詳しく調べたい」
「りょーかい。とは言いたくないけど、了解するしかないんだよね、これ……」
「悪いね? チェンちゃん」
「うー……。色々と文句を言いたいような、けどウイルスの特性はお医者さんのせいじゃないし……」
 チェンは頭を抱えていた。
 まさに思い悩んでいた。
 放出後、数十秒以内の精液である必要性という事は、どんなに急いでも目の前での射精になる。中年医師がすぐそこにいる状況で、チェンが見ている前で自慰行為が行われ、その上での投与となると、最初に想像したカプセルにでも閉じ込めての飲用よりも、よほど抵抗のある話ではないか。
 だが、そこで嫌だと拒もうと思ったら、今度は命と天秤にかける話になる。治療を受けて助かるのと、受けずに症例写真のような未来を迎えるのなら、どんなに抵抗があろうと治療を受けるしかないわけだ。
「ちなみにね。呼吸による空気感染、接触感染などの恐れもあるから、治療完了まで隔離期間を設けたい。ほんの何日か、村人から少し離れて生活してもらうからね」
 かくしてチェンは荷物をまとめ、村から少し離れた隔離用の家で過ごす事となり――。