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 梓川夢音には一つの呪いが残されていた。
 先生のペニスを忘れられない。
 それは単に気持ち良かったからという話ではなく、何十回ものセックスをしてきたことで、体が形状を覚えたせいだ。見せつけプレイを強要された際に至っては、一体何時間にわたって刺さったままの状態を維持したかわからない。
 そのせいで脳にびっしりと余韻が残り、何日たっても、何週間経っても、夢音の中からペニスの感覚はなくならない。
 ふとした拍子に感触がフラッシュバックして、あの剛直が内側にあった際の感じがありありと浮かび上がる。

「腹、大丈夫か?」

 時期は変わって、一月の寒い季節に差し掛かる。
 東京に雪が降ったおかげで、昨日までは雪景色だった道路も、たった一日で溶け出して、タイヤや土の汚れと混じり合い、お世辞にも綺麗な景色ではなくなっている。
 手を繋いでの登校も、手袋を介したものになっていた。
「……ちょっと、重いかな」
「何かあったら言ってくれよ? 俺が助けになるから」
「うん、ありがとう」
 と、こうして交わす会話は、将来もするのだろうか。
 ミイラ症の免疫を得るための妊娠は、どうしてなのか出産まで済ませなければ定着しきらず消える可能性があるという。夢音にそのメカニズムは想像もできないが、処置によって生む子供は、特別な申請がない限り、必ず国が預かって施設で育てることになっている。
(……それでいいんだよね)
 中学生で妊娠しても育てられない。
 だが、生まなければ死ぬ。
 この問題を解消すべくしての引き取り制度だけでなく、学校教育によっても処置の子供は預けて当然と教えている。あらゆる書籍や番組、ネットに氾濫する情報でも、預けて当然の論が飛び交い、それに何ら疑問を抱かない人間がいくらでもいる。
 夢音だって、愛してもいない男の子供を育てたくない。
(そう、そう思っちゃう。私の中で育って、私の中で大きくなる命なのに、大切に思える自信がない……この歳でママになりたくない……)
 我が子を捨てるかのような罪悪感は、夢音の場合はゼロではない。
 誰もがそういうものとして受け入れて、誰もが疑問を抱いていない。そうした時代の中で、それでもやはり大なり小なりの罪悪感は生まれてしまう。
 生んだ子を捨てるかのようで、罪の意識が出来るというなら、では自分の手で育てるのかという葛藤に必ずぶつかる。すると中学生の身で無理に決まっているという結論になり、どうあれ施設に引き渡す以外に道はない。
(……ごめんね)
 腹の子に対して、夢音は思う。
(心は俊樹のもの。先生は愛し合った相手じゃない。だから、血のつながりでは母親でも、心までママになれない)
 ミイラ症など存在せず、初体験の相手を自分の意思で決めることが可能だった昔の時代の人間なら、こんな自分の考えをどう思うだろう。
(たとえ悪いことだとしても、先生の子供より、今の恋を選ぶ)
 それが夢音の気持ちであった。
 育てる能力があったなら、また答えは変わるのだろうか。
 だが、夢音にそれはない。
「夢音、階段は気をつけろよ」
「わかってるって」
「って、その前に足下か」
 俊樹は氷結した地面を蹴り、靴がつるりと滑りやすいことを確かめる。もっとも、氷の張りついた部分は限られており、路面の露出した部分を好きに歩けばいいだけだ。
「俊樹なら、転んでも支えてくれそう」
「任せとけ」
「へへっ、頼もしいなー」
 夢音は俊樹に肩をすり寄せ、甘え放題に撫でてもらう。
 そんなおり、ふと周囲に気づいて夢音は思う。
 学校が近づくにつれ、登校生徒が増えてくると、その中に混じる三年生の中には、夢音のように腹を膨らませた女子がちらほらといる。
(昔の人がこの景色を見たら、たぶん……)
 夢音にとって、ミイラ症のなかった時代など、歴史上の一幕に過ぎない。あるいは昔の小説の中に存在する架空の世界だ。
 その中の人間から見たこの世界は、一体どれほど怪奇なのだろう。
 過去と今の時代の二つに思いを馳せ、夢音は校舎へ向かっていく。

     *

 十一ヶ月後。
 夢音の出産は高校生になって七月のこととなり、病院で子供を生んだ後、桃井俊樹は言うまでもなくお見舞いに顔を出していた。
「あ! 俊樹!」
 ベッドに横たわっていた夢音は、俊樹の顔を見るなり体を起こす。
「平気か?」
「うーん。ちょっと、大変だった。ごっそり体力持って行かれたっていうか、今は体育の授業とか絶対に出たくない気分」
「ああ、出ないでくれ」
「夏休みだけどね」
「だな。そこはちょうど良かった」
 授業中に産気づき、学校に救急車を呼ぶようなケースもある中で、夢音の出産は夏休みの頭となった。
 これで大きな山を越えたわけである。
「ねえ、重い台詞言っていい?」
「重い台詞? 一体俺は何を言われるんだ?」
「こっち来て? 耳貸して?」
 夢音がそう言うので、その口元へ耳を近づけると、小さな声で囁いてくる。
 その言葉は確かに重かった。

 ――赤ちゃんより俊樹を選んだよ。

 夢音は俊樹と赤ん坊を天秤にかけ、その上で俊樹を選んできたのだ。預けて当然の風潮と制度がある以上、きっと施設行きだと俊樹は当たり前に思っていたが、引き取る選択肢もあるにはあったのだと実感した。
 もし引き取ったら、夢音というより、もっぱら夢音の両親こそが育児に励むことになるだろう。もちろん、生んだ本人がなるべく世話はするにせよ、母と子にも関わらず、姉弟か姉妹でもあるような、奇妙な関係が出来上がったのではないかと、何となく想像している。
(ま、そんな未来は来ないようだけどな)
「ねえ俊樹、心置きなくデートしようね」
「そりゃもう。いっぱいしよう」
「あと、二人っきりの時間も……」
 それがセックスを意味するのは、顔の赤らみを見てわかった。
「ああ、それもいっぱい。ぶっちゃけ、マジでいっぱいしたい」
「……エッチ」
「いいだろ? 別に」
「いいけどね。俊樹だもん」
 ところで、俊樹にはプレゼントを渡す計画があった。
 処置制度の呪縛から解放され、子供も国の施設が引き取り、夢音は自由の身になるのだ。そのことを記念したいが、よくよく考えてもみれば、生んだ子を捨てるかのような複雑さも、決してゼロではないはずだ。
(赤ん坊の施設送りを祝うってのもな)
 そう、それは違う。
 ではどんな口実のプレゼントにすればいいのか。
 それとも、この時期のプレゼント自体を中止にした方がいいのか。
 それが今の俊樹が抱く密かな悩みなのだった。

 ……いや、決めた。

「夢音はさ。なんていうか、きっぱり忘れていこうって考えなんだよな」
「そうだよ。さっき言ったでしょ?」
「ああ、わかってる。確認しておきたくて」
「なら、もうちょっとはっきり言うよ。あの子は捨てました」
「…………」
 そこまではっきりと言われると、さすがに絶句してしまうが、そこに反論しても仕方がない。ここで何かをぐちぐちと言い出せば、「じゃあ育てるのか?」という疑問に繋がる。明確な意見を聞いた以上は、もうそのことには触れないことにした。
「わかった。今日から新しい一日が始まるってことだな」
「うん! あ、あのね? 俊樹の子供はちゃんと生むからね?」
「お、おう。気が早いな」
「早くていいじゃん。長続きしたらどうせ籍入れるし」
「そりゃ社会人になるまで続けばそうなるけど」
「え? 続かないの? 私達」
「それは続く」
「じゃあ、いつかは子供を作るかどうか。生むとしたら何人か。どこに住んで、どこで育てるかも考えないとね」
「はは……」
 軽く苦笑い。
 何年も続いて、籍を入れることを考えるまでに至ったら、まあ確かに夢音の言う通りのことを考えなくてはいけないだろう。
「ところで」
 と、俊樹は話を切り出す。
「ここで新しい一日の始まりを記念して、プレゼントを用意したいと思う」
 そう宣言した瞬間に、夢音は期待に満ち溢れた目をしていた。
「え? なになに? なにくれるの?」
「それは後のお楽しみ。ここに持って来ているわけではない」
「えー! 焦らさないでよー!」
「まあまあ、家の方に送らせてもらうから、家に戻ってから確かめてくれ」
「家に? うーん、まあいいけど」
 てっきり、今ここで貰えることを期待していた夢音は、見るからにふて腐れて、文句があるぞと言わんばかりに、やたらに腹を指で突き、俊樹に攻撃を仕掛けてくるのだった。
「腹筋、固いね」
「まあな。本気で突いたら、たぶん夢音の指の方が折れる」
「えっ、カンフー映画の世界みたい。少林拳みたいな」
「ああ、なんかあったっけな。腹に金属バットくらって、逆にバットの方がへし折れるやつ」
「それそれ! 私も知ってる!」
「あれな。映画ってワイヤーとかCGとか、破壊用セットとか、色々とあるんだけど、あのバッドが折れるシーンは本物の拳法だ」
「本当に?」
「今度見せてやろうか」
「うーん。ちょっと読めないなー。ねえ、本当に言ってる? からかってる? 実際どっち?」
「さあ、どっちだろうな」
「なんか今日は意地悪……ていっ」
 軽いパンチが来て、それも腹筋に受け止めた。

     *

「うそ……」

 退院後だった。
 家に戻って、部屋に置かれたプレゼントの包装から、その中身を取り出した時だった。
 それは母親が預かっていたもので、俊樹が夢音の母親に頼み、決められた時間に渡すようにと指定していたらしい。それを母の手で受け取って、自分の部屋で包装を解いた時、人生でこれほど驚愕したことはなかった。
 梓川夢音は信じられないものを見る目でそれを見つめ、動揺に瞳を震わせる。心臓を激しく鳴らし、思わず両手で胸を押さえていた。
「え? だって、あの時……え? なんで? どうして?」
 声まで震えていた。
 みるみるうちに目に涙が浮かび上がり、せっかくのプレゼントがそこにあるのに、視界が滲んでまともに拝むこともできなくなる。夢音は必死に涙を拭き、この世で一番大切であるかのようにそれを抱き締めた。
 ジャケットに、シャツとスカート――あのデートの時だ。
 試着室から出たところで、写真を撮ると言って来たので仕方なく撮らせたが、夢音はこれで確信した。俊樹はあの写真を必ず大事に残してあると。
 プレゼントはまだ残っていた。
 最後の包装を破いた中から出て来たのは――。
『これはついでな』
 などと、メッセージカードを添えた下着のセットであった。
「もう! 馬鹿じゃないの!?」
 夢音は大粒の涙を流しながら、下着までそれに替えていた。
「せっかく服選んだのに、着替え直しだよ!」
 激しく揺さぶられた感情が止まらない。
 胸の中で、もう何回心臓が爆発したかわからない。

 俊樹……!

 着替えを済ませ、鏡で自分を確認する。
 その瞬間から、もういてもたってもいられなくなっていた。

 俊樹! 俊樹!

 会いたくて会いたくてたまらない。
 デートの約束は交わしてあり、待ち合わせまで決めてある。焦らずとも会えることなどわかっているのに、気持ちが逸って仕方がない。

 今すぐ会いたい! 今すぐ!

 財布、バッグ。
 残りの準備は大慌てで行った。
 靴を履くのも慌ただしく、そして玄関の向こうへ飛び出した瞬間だった。

「俊樹!」

 夢音は飛びつき、抱き締めていた。
 待ち合わせ場所は家のすぐ前、玄関を開けた先――まだ時間よりも早いのに俊樹はもうそこに立ってくれていた。
「ありがとう! 本当に! 本当に大好き!」
 感情が止まらない。
 夢音は衝動のままに唇を奪いに行き、俊樹の驚きなど構いもせずに貪った。

 こんなに私を喜ばせるって、そんなのある!?

 私をここまで本気にさせたのはお前だと、そう言わんばかりに俊樹の唇を食い散らかし、決して逃がさないように両腕を回して力の限り抱き締める。

 もう絶対……結婚までしてもらうから!

 生涯、決して他の女の元には行かせない。
 自分こそが俊樹を独占するのだと、そんな心まであらわに腕力を強めていき、抱き返してくる腕の心地よさに深く浸った。
「デートだぞ? 行こう。夢音」
「うん、うん!」
 嬉しすぎる。
 嬉しすぎて離れられない。
「しょうがない。もうちょっとこのままでいるか」
「うん!」
 頭を撫でられるや否や、胸板に自分の顔を埋没させんばかりに、本当に力を込めていた。

 ありがとう……俊樹……大好き…………。

 今の頭にはそれ以外のものを浮かべられない。
 嬉しすぎて、嬉しさのあまりに何もかもがどうにもならない。
 激しすぎる情動を制御できずに、だから抱き締める腕の力を一向に弱められない。

 二人は延々と抱き締め合った。
 人目などないかのように、延々と、延々と……。

 俊樹……!

 出会えて良かった。
 俊樹に恋して良かった。

 自分の心は永遠に俊樹のものだと胸に誓い、やっとのことで身体を引き離し、手を握ってのデートへ進む。
 きっと、心臓が始終うるさいまま休まらないデートなど、もう二度とないだろう。
 この日の景色、気持ち、感触、何もかもを記憶に刻み、一片たりとも忘れなまいとする決意まで込めて、夢音は俊樹の隣を歩く。

 このデートはきっと朝まで……。

 夢音はそのつもりで手を握り、未来へと進んでいった。
 俊樹こそ、夢音の生涯のパートナーだ。



 
 
 

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