第1話 囚われたモスティマ
冷たい鉄の感触に手首が包まれ、彼女は後ろ手に拘束されていた。
腕輪のような手錠のかかった両手の間、輪と輪を繋ぐ鎖がじゃらついている。その長さがもう少しあったなら、まだしも窮屈さは薄れるが、残念ながら短い鎖に結ばれて、腕の動きにはゆとりがない。
青い髪をしたその女は、始終険しい表情を浮かべていた。
早い話、悪党に囚われの身となり、そのアジトに連れて来られているのが彼女の置かれた状況だ。
笑えない状況もさることながら、さらに不快なことに首輪まで付けられている。
その銀色のリングには、長い鎖が伸びていた。両手のそれと違って、ゆうに一メートルは越えた鎖は、彼女の前を歩くもう一人の女の手によって握られている。
これでは犬の散歩である。
飼い犬をリードに繋ぎ、飼い主の手で歩かせるようにして、彼女はこの廊下の絨毯を踏み締めていた。
「まったく、いい趣味をしているよ」
独り言のように言ってみて、しかし飼い主からの返事はない。
それもそのはず、リードを握ってはいるものの、彼女もまた飼われる側の人間であり、この道を進んだ先にこそ、本当の飼い主は待っている。
このアジトのボスだ。
飼い主に忠義を尽くし、手に入れた獲物をボスに差し出すことが、リードを握る女の役目というわけである。
「それに長い廊下だ。暇だねぇ?」
「…………」
「口を利くなって、ボスにでも言われているのかい?」
「…………」
「それとも、無口なのは君の性格かな?」
「…………」
何度か話しかけてみるものの、リードの握り主から返って来るのは、今のところ沈黙ばかりだ。
「はあっ、わかったよ。そのダンマリが性格だろうと命令だろうと、私もしばらく黙っておくよ」
ため息をつきながら、ついに会話を諦めて彼女は俯く。
そんな首の角度に合わせ、少しばかり垂れ下がった髪の中から、彼女には二本のツノが生えていた。サルカズのように黒いツノは、それ故に魔族と呼ばれたことも数度あるが、しかし彼女はサルカズではなかった。
その頭上に浮かぶ光のリングの存在は、彼女の本来の種族がサンクタであることを示していた。
彼女の名はモスティマ――。
アーツの扱いに長け、並大抵の敵には負けないモスティマでありながら、なおも囚われた理由は『不運』という一言に尽きる。
龍門を離れ、とある移動都市を徘徊していた時のことだ。
商店街で食べ歩きを楽しんでいると、急に起こった抗争に巻き込まれ、自衛を余儀なくされて応戦した。モスティマにとって、その辺りの下っ端のチンピラを追い払うのは造作もない話だったが、どうやらそこで恨みを買ったらしい。
報復を考えた連中に付け狙われ、気づけば戦う暇もなくこの有様だ。
驚くべきストーキング技術だった。
連中はまるで気づかれることなくモスティマの周囲に張り込み、生活模様を休まず監視し続けた。いつ食事をして、いつ眠るのか。トイレに行く傾向にある時間帯はいつ頃か。日頃どこをどう歩くか。
全てを綿密に調べ上げ、シャワーを浴びる時間まで把握するのが連中のやり方だった。
モスティマの私生活を洗い出し、そのスケジュールを細かく正確に予想した上でかかったなら、あらゆる薬や罠をで力を奪い、無力化して拘束するなど造作もなかったらしい。
シャワーノズルから煙が出た。飲み物から怪しい薬の味がした。道ばたに急に車が突っ込んできて、何故か何度も轢かれ賭けた。明らかにおかしい出来事が一日のうちに連続するうち、いざ敵が目の前に堂々と現れた頃には、アーツを上手く扱えず、筋力すら発揮できない状態に陥っていた。
口にするもの全ての中に混ざった薬で、モスティマは完全に弱体化させられていた。
抵抗虚しく組織に捕まり、武器も金品も奪われて、こうして手錠に繋がれていたわけだ。
この町に来ていなければ、抗争に巻き込まれなければ、執念深い組織でなければ、自分の迎えた運命の分岐点は、振り返ればいくつもあった。カフェかランチか、選んだ店の違い一つを取っても、抗争のど真ん中さえ避けていれば、自衛やむなしの状況には陥らなかった。
(過ぎたことを後悔しても意味はないけど、あの時ああしていればって、色々と考えてしまうものだ)
モスティマを捕らえたのは、この町でも歴史ある大きな組織で、それ故に保有している施設も大きい。ボスの根城は地下の居城で、まさしく城の内装を模した石造りの壁に、飾り物の甲冑や絵画が並んでいる。
そんな趣味のいいアジトの中、赤い絨毯の上を歩いているうちに、やっとのことでモスティマはボスの間へと辿り着いた。
さながら、王城における謁見の間だ。
わざわざ王座まで設置して、そこに組織のボスは座っていた。
「ほう? 堕天したサンクタか」
ボスの目は真っ先に、モスティマのツノやリングに向けられていた。
「ご挨拶だね。巻き込まれた上に、逆恨みでこんなところまで連れて来られて、まったく散々な話だよ」
「それはすまなかったな」
「それにてっきり、ボスの服装は冠を被った王様だと思っていたよ」
ボスは漆黒のスーツを纏っていた。
上等な生地で仕立てた無地に合わせて、黒いネクタイを結んだスタイルの良さは、なかなか格好はついている。
「趣味趣向は建物だけで十分だと思ってな。服装までは凝っていないさ――モスティマ」
「私をご存じで」
「多少はな」
「それで、私をどうしようと?」
今のモスティマにとって重要なのは、やはりボスの考えだった。
下っ端の暴走を詫びてくれるような手合いであれば、解放される希望も持てるが、そうでなければ何らかの目に遭うだろう。
「そうだな。寛大で物わかりの良い大物を演じてもいいところだが、せっかくの上玉が目の前にいるんだ。たまにはゲスな小物になってみるのも悪くない」
ちっとも期待できそうにはない。
「へえ、それも趣味かな」
「そんなところだ。モスティマ――」
そして、ボスは言う。
「――性奴隷になれ」
いっそ清々しいほど直球な言葉であった。
「なるほど、奴隷ね。それも性奴隷か。確かに下品な小物らしい選択だとは思うけど、それに快い返事なんて、普通はしないよね」
モスティマはそれを鼻で笑って一蹴した。
「君はまともな抵抗もできない状態のはずだが、拒否と捉えて良いのかな?」
「残念ながら、そうなるね」
「ふむ、私としても残念だよ。もっとも、綺麗な願いも、汚い願いも、いずれも金か権力か努力がなければ実現できない。君がここで断るというのなら、頷かせるための努力でもしてみるとしよう」
「努力ね。そんな努力をされても困るんだけど?」
「なに、君を拷問して傷つけたり、脅迫するような真似はしない。そういった選択肢もありはするが、私の趣味ではないのでね」
「ならどうしようって?」
「一ヶ月ほど、監禁生活を送ってもらう。そのあいだの衣食住は保障するが、外出などの自由は与えない」
「へえ」
明快な危害は加えてこないというものの、監禁も立派な暴力である。
「その上で、蹴りも殴りもせず、下手な弱みに付け込む方法も取らず、君を性奴隷とする努力をしよう。一ヶ月後の君にもう一度同じ質問をして、次も同じように一蹴するなら、無事に解放してやっても構わない」
「面白くもないゲームだ。既に十分、脅迫じみているね」
どんな形であれ、一ヶ月も自由を奪われたい者などいない。
それが嫌なら言うことを聞けと、そう言っているように聞こえないでもなかった。
「では物は試しだ。一週間性奴隷になれば、一週間きりで解放しよう」
「確かに一ヶ月よりはマシだけど、こっちはどこぞのボスの人となりをあまりよく知らないからね。その約束が本物になるかどうかも、正直よくわからないな」
「ま、君の立場になれば、誰もがそう思うだろうな――連れていけ」
その時になって、ボスの目は初めて部下の女に向けられていた。
それまで他に誰も存在しないかのように、空気のように扱われていた女へと、命令の時になって初めて意識をやっているようだった。
「さあ、来なさい」
そして、その女の声もまた、ここで初めて聞くのだった。
かくして、この地下施設のさらに地下へと連れていかれて、窓もない息苦しい部屋の中へと閉じ込められる。定期的に飲まされるアーツ阻害薬と、筋力抑制剤の力により、有象無象の一般人にも勝てないように弱体化させられながら、モスティマは監禁生活を送ることとなる。