プロローグ

以前、セクハラ現場を目撃した。
 学園祭の最中、小学生の男子が同じ年頃の少女に手を伸ばし、いやらしい顔で様々な言葉を投げかけたり、体を撫で回そうとしている場面を見るなり、クロエはすかさず止めに入った。
 今思えば、それは運命の分岐点だったのだろう。
 男子はすぐにその場で逃げ出した。すぐさま追いかけることを考えたクロエなのだが、女の子の方を思い、慰めの言葉をかけることを優先して、逃げる背中を見送った。
 その時までは、もう二度と会うことはないと思っていた。
 たまたま目撃しただけの、どこに住んでいるかも知らない男の子と、どこぞで偶然にも鉢合わせる可能性は、ほとんどないはずだった。
 ところが、その偶然が起こった。
 クロエは校則で禁止であるバイトを行い、学費や家族のことを思って、日々稼いでいるわけなのだが、そんな彼女の目に留まったのが家庭教師の仕事である。
 小学生に教えるなら、自分でも出来るかもしれない。
 そう考え、仕事を受けたクロエの、なんと教える相手の男の子は、問題のセクハラ少年だったのだ。
 名前はケンというらしい。
 話は偶然の再会だけではない。
 ケンの手元には、驚いたことに禁呪のスクロールがあったのだ。それを使った罠に陥れられ、洗脳をかけられたクロエは、一時期のあいだ言いなりだった。
 洗脳と言っても、人格を書き換えたり、思想や言動を変えられるわけではない。弱みに確実につけ込んで、言うことを効かせる程度のもので、何らかの材料が元からなければ、上手く効果を発揮しないのだそうだ。
 ケンはクロエの通う学園のバイト禁止を知っていた。
 もし逆らったら、バイトのことを言い触らすと脅されて、しかし本来なら選択肢はあったのだ。言いたければ言えばいい、などと強気に出て、言いなりになどならない姿勢を示すのは可能だった。それが出来ないほど、クロエは弱気な性格をしていないはずだった。
 なのにスクロールの魔法陣を見せつけられ、その効果を浴びたクロエは、言い触らされたら絶対にまずい、よもや命に関わるほどの勢いで、必要以上の危機感を抱いていた。
 あの時はおかしかった。
 確かに退学や停学など困る。
 親に苦労させ、何とか通わせている学校なのに、万が一にも退学になったら申し訳が立たない。
 だがその上でも、やはり抱いた危機感は異常であった。今だからこそ、洗脳が解けているからこそ、当時の自分がいかにおかしかったかがわかるのだが、自分が洗脳されていることにも気づかずにいたあいだ、抱くべき違和感をほとんど抱いていなかったように思う。
 自分が洗脳されていることに気づき、異常さを自覚することが出来たのは、道具屋でのバイトがきっかけだった。
 あの偶然がなければ、今なお言いなりのままだったかもしれない。
 その道具屋の中で、見覚えのある魔法陣を見かけたのだ。
 道具屋の店主は前々から、危険な効果を持つスクロールを販売していた。正しく使えば日用品に過ぎないが、『誤って』使えば大火力を発揮するような代物を売り渡し、誤用しないように事前の『注意』を怠らない。
 そんな店の中ならば、洗脳関係のスクロールが置かれていても、何もおかしくはなかったわけだ。
 店主曰く、それも日用品らしい。
 洗脳といっても、心や人格をどうこうする術の応用で、正しく使えばストレスを和らげる効果があるらしいが、扱い方をうっかり間違えれば危険らしい。
 その危険性をもろに浴び、クロエはそれまで小学生男子の言いなりにさせられていたわけだが、その時に聞いた解除方法で、クロエは術から脱したのだ。
 方法はいたって簡単だった。
 洗脳にかかった状態で、同一の魔法陣を改めて拝む。そしてスクロールを起動すれば、かかっていた術は解除となる。
 ケンがトイレに行っている隙を狙い、部屋を漁って見つけたスクロールで、見事解除に成功したわけだった。
 ところが、地獄はそこで終わらなかった。
 まだ、続いたのだ。
 こんな危険な術まで使い、女の子に言うことを聞かせる子供など、クロエの言葉だけではなく、きちんと親の言葉によって説教してもらわなければまずい。
 ケンは散々要求してきた。
 裸にならされ、性的な奉仕をやらされ、たっぷりと辱めを受けてきたクロエとしては、その恨めしさも半端なものではない。いくら一〇歳児でも、さすがに立派な犯罪者ではないかと、クロエはケンの父親に全てを話した。
 パイズリやフェラチオをやらされたような話をするのは、もちろん苦痛で仕方なかったが、しでかしたことは全て知ってもらうべきだと、耐え忍びながらに語ったのだ。
 その時のクロエは想定していなかった。

 世の中には、人格に問題のある親もいるということを……。

 とんでもないことを言い出したのだ。
 うちの子がそんな非道に走ったのは、お前が可愛くて魅力的だった方が悪い。などと、まさしくクロエにこそ非があるように口走り、息子を叱るどころか厳しい説教の眼差しをクロエの方に向けて来た。
 実に信じられない展開だった。
 まさか、親を挟んだ結果として、事態が余計に悪化するなどとは……。
 洗脳などかかっていなくとも、大人相手というのがまずかった。クロエは学校では不良のように思われており、そんなクロエを非難する大人が、良識的な人物を装いながら学校にクレームを入れたとしたら、一体どちらの言葉が信じられてしまうか。
 年下をたぶらかし、性的な行為に誘ったのは、クロエの方であると言い張られれば、そちらが信じられてしまわないかと恐れたのだ。
 だから改めて言いなりにさせられる形となり、クロエはバイトを紹介された。
 メイド服を着て給仕を行う。
 ただそれだけの飲食店なら、服装さえ除けば何も問題はなかったのだが、もちろん給仕だけでは済まない。
 必要なお金を払えば、クロエに性的な要求が可能となる。
 つまり、風俗。
 体を使って、性的な行為で稼ぐ状況に陥れられ、しかもクロエの取り分が妙に少ないなどという、最悪極まりない日々を送り始めた。
 その際のケンの父親といったらない。
 彼は店長から大金を受け取っていた。
 クロエを売り飛ばしたわけだ。
 しかも、その金を使ってかは知らないが、すぐに客として現れて、クロエの体を注文してきた。父親との性交で処女を失い、他の客の要求も聞き入れる日々は苦痛であった。
 こんな稼ぎ方をしていると親が知ったら、一体どれだけ悲しむだろうか。
 だからケンの元に通っていた時も、似たような苦痛は抱えていた。家庭教師として赴くたび、実際には性的な要求をされていたのだから、事実上は体を売って稼いでいるのと同じ状態にあった。
 それが今度は明確に、そういう店で働かされ、そういう注文に応じる身の上に落ちたのだ。
 そればかりか、父親は学校に乗り込んできた。
 転移のスクロールを使い、急に目の前に姿を現したのは、もちろん人の体が目当てである。学校の中で性交を要求して、学生を犯す気分をよりよく味わおうという魂胆だったのだ。
 さすがに抵抗に打って出た。
 今までは、学校での生活と苦痛の時間は切り分けられていた。普通の日常と、夜の仕事で、別々の世界を行き来しているつもりであった。
 だがこうして学校に踏み込んでくるのなら、普通の日常さえも侵食されかねない。
 もう、無理だ。耐えきれない。
 とうとう実力行使に踏み切ったクロエなのだが、その時に父親が持っていたスクロールは、転移のものだけではない。
 新しい洗脳のスクロールがあった。
 それを使い、たまたま通りかかった二人の女子生徒――なんとチエルとユニを操り、クロエのことを取り押さえさせたのだ。
 あえなく、クロエは犯された。
 後ろから挿入され、目の前ではチエルとユニが取り巻きの連中に嬲られる。
 地獄でしかない状況に陥った。
 自分ばかりか、仲間さえもが手にかかるなど……。
 このまま、次は一体どんな明日を迎え、どういう日々を送っていくことになるのか、絶望すら抱いていた。
 だが、油断していたのだろうか。
 洗脳に使っていたスクロールが荷物から転げ落ちるかどうにかして、床に放っておかれていた。
 チャンスだ。それで洗脳を解ける。いや、男の方を洗脳して、今すぐにこの行動をやめさせる手でもいい。とにかく隙を見てスクロールを取り、その力を使って切り抜けるのだ。
 そして、それは成功した。
 まずはチエルとユニの意識を眠らせ、あとは実力行使によって男達に報復して……。
 それから、あの男の子やその父親の頭には、もう余計な記憶は残っていない。洗脳を有効活用させてもらい、真人間になるよう仕向けた上で、用の済んだ危険物は破棄している。
 チエルとユニも、操られている最中は、心を持たない人形のような状態にあったので、その時の記憶を元から持ってはいなかった。あんな真実の記憶を持っているより、何も起きていないことになっている方が本人達のためだろう。
 一連の悲劇にまつわる記憶は、かくしてクロエの中だけに残されている。

「ま、さすがにもう何も起きないっしょ」

 さすがに、そう思っていた。
 セクハラする男の子を注意した後、家庭教師のバイトで偶然再会――辱めを受け、紆余曲折の末に父親に言いつければ、今度はその父親からも辱めを受け、最後には学校にまで乗り込まれ、などという流れに匹敵するような、最悪の出来事はもう起きない。
 くじ運の悪い不幸は引き尽くしたのだから、次に待っているのは良いことばかりでなければ困る。
 ほとほと、そう思っていた。

 ところが、次の悲劇はあった。
 クロエを待っていたのは、わけのわからない理不尽な裁判なのだった。