第1話 バスルームの覗き

 集合無意識という用語がある。
 心理学上の概念の、人類の意識が集まる海。全ての個人が持つ意識は、その海から生やした木のようなもので、表層的な意識の奥には、深層意識というものがある。そのさらに深い層へ、深い層へと入っいくと、根っこの先にある意識の海、集合無意識へと辿り着く。
 正直、あくまで学問上の概念に過ぎないと思っていた。
 だが共和国が開発したという知覚同調は、集合無意識が実在のものだと、まるで証明でもするように、同調によって人と人の感覚を繋げてしまう。通常、聴覚の共有しか行わないが、同調設定によっては他人の視覚を借りることもできるという。
 シンが持つ異能も、きっと集合無意識を経由して、機械の化け物どもの声をかき集めている。
 だったら、ライチェスが持つ異能は何か。
 こちらの脳から、ある種の念を発信することで、周囲全ての人間に受信をさせる。人の脳に任意の信号を送りつける、影響を与えると言えば、それだけならかなりの反則能力に聞こえるが、けれど知覚同調のようなことも、洗脳催眠のようなこともできない。
 こちらから発したものは、一方的な影響を与えることしかできない上、与える影響の種類は限られている。
 万能かといえば、ちっとも万能ではないが、間違いなく有用な能力。
 ライチェスの家系は代々、その異能で諜報活動をしていたそうだが、しだいにその血は薄れていき、ライチェスには引き継がれることがなかった。自分には異能などなく、シンのような特別なことはできないと、頭部を負傷する時までは思っていた。
 だが、戦場で頭をやられ、脳に強いショックを受けたせいなのか、てっきり引き継がれてはいないと思った異能が目覚めていた。普段は必要ないものだが、何かの機械に役に立てばと、たまに練習して、それなりに磨いた異能の活用する機会は来てしまった。
 あの顔を見ただけで――〝鮮血の女王〟をきっかけにまた頭が痛んだ。負傷がそのまま蘇ったような痛みに、傷跡が焼き直されるようだった。
 この痛みは、まるで運命が告げているようではないか。
 使え、今こそ使え――と。

 その異能とは、認識阻害能力である。

 脳から脳へ、ライチェスから別の人間への影響しか与えられず、レギオンには効果がないと、親や祖父が試しているからわかっている。身に着けている衣服、手に持っている道具までにしか作用しないから、いくら能力を使っていても、カメラには関係無く写ったり、着ている衣服を脱げば、脱ぎ散らかしたものは他人に見える。
 本当に消えるわけではなく、けれど透明人間のようになれるのだ。
 姿を見せない、声を聞かせない、触れた感触を感じさせない。何を認識させないかは調整できる。
 知覚同調が導入される以前なら、それは脳から脳への電波送信のようなもので、超能力アニメで見たことのある〝念波〟という用語を当て嵌めるのがちょうどいいと思っていた。しかし集合無意識が架空の概念でなく、実在の何かであるなら、実際にはそちらを経由する能力かもしれない。
 悪用すれば女子更衣室や女子トイレを覗けるが、正義感はむしろ強いライチェスなので、それは一度もやっていない。妄想まではしてしまうが、実際に試す真似はしていない――していなかった。
 だが、彼女は別だ。
 忌まわしき国籍を持つヴラディレーナ・ミリーゼに対して、あんなバケツの水くらいでは足りていない。彼女自身は共和国の在り方に疑問を持ち、有色種の扱いに決して賛成はしていなかったと、聞いてはいるが、そんなものは当たり前だ。
 そうでなければ、まず客員士官として連邦の地を踏む資格がない。スタートラインに立つ資格があるに過ぎず、その先に踏み込むには、まだまだ洗礼が足りていない。共和国人でありながらエイティシックスを指揮下に置くなら、もっとそれ相応の試練というか、禊ぎというか、とにかく資格を得てもらわなくては困る。

 まずはあんたの肌からだ。

 ずぶ濡れとなったレーナのことを、シンが案内して連れていく。
 ライチェスはその後ろに着いていき、存在を知られることなく、たまたま踏み潰した葉の物音さえ認識させず、透明人間となって歩いていた。
 本物の透明人間では決してなく、あくまで他人の脳から認識されないだけの、ただの擬似的な透明化。その効果は半径一帯に及ばせることができるので、たまたま無関係な人間に目撃されても、ライチェスの姿はその人の目には写らない。
 気持ちは透明人間のつもりで後に続いて、シンとレーナの目指す建物に自分も入る。
 第一隊舎最上階のレーナの居室は二間続きで、廊下に面した一室が執務室兼応接室、奥の一室が寝室だ。
 軍事基地とはいえ戦線から百キロ以上も離れた安全地帯だ。防衛よりも居住性と指揮官の威厳を重視した居室は広々として、配属されるのが女性であることを意識してか、繊細な白蝶貝細工揃いの丁度が美しい。
 トランクとキャリーバッグを執務室に置いてシンは出て行き、黒猫は初めての場所にちょっと警戒しつつさっそく部屋の中を探検して回っている。シンだけは怖かったが、思いっきり目が合っても気づかれなかったので安心した。
 能力バトルアニメでは、能力者には一般人と違って能力への耐性があったりしたので、本当は冷や冷やしていた。耐性でなくとも、シンならよくわからない勘の鋭さを発揮しそう、バレたら殺されそうとも思っていたから、その分だけ安心感はなかなか大きい。
 そういえば、動物には認識阻害は効かない。猫のせいでバレないように気をつけたいが、考えてもみれば、いないはずの誰かを見つめたり、追いかけたり、逃げたりする動物がいたら、幽霊の相手をして見えそうだ。
 ということは、部屋に幽霊がいると思い込ませて、恐怖を与える作戦も可能ではないか。
 だが、それはさておき、肝心なのは肌の視姦だ。
 びしょ濡れであるレーナは、すぐそこにライチェスがいるとは知らず、この手にカメラすらあることに気づきもせず、自分一人しかいないつもりで服を脱ぐ。その下から現れる艶めかしい肌に、さすがに鼻の下が伸びそうだ。
 レーナはバスルームの中へ進んでいき、色タイルの上にライチェスも立つ。服は濡れるかもしれないが、シャワーを浴びてぐっしょりとはいかないように、上手いこと距離を取ればいい。
 それにしたって、いいご身分だ。
 こんな、何かの花の精油がバスタブに乗らされて、清冽ないい香りのするバスルームで、肌を湯気に隠している。指揮官としての威厳もあるから、ある程度の扱いは必須だと、もちろんわかっているが。
 レーナはその細い首にレイドデバイスを付けている。
「大尉、あの――――――――どうして切るんですか」
 どうやら、シンと会話をしているらしい。
「話が途中でしたから」
 電話なら、音量さえあれば音が漏れ聞こえる。
「どうして、シャワー中はダメなんですか」
 知覚同調の仕組みでは、聴覚を共有していなければ、この場にいない人間の声は聞けない。どういう会話内容なのか、レーナはともかくシンからの盗み聞きはしたくないので、片方の声しか聞こえないのはちょうどいい。
「大尉は平気だったじゃないですか。二年前のスピアヘッド戦隊の隊舎で、<黒羊>や<羊飼い>について聞いた時、その、……大尉がシャワー中に、繋いでしまって」
 何かとんでもない話を聞いた気がする。
 レーナの風呂を覗くつもりが、まさかシンの過去のプライベートまで――いや、まあいい。レーナとスピアヘッド戦隊の関係は本当に良好だったと、今のでポイントが一点増えたことにはしておこう。
 だがまだだ。それくらいで溜飲が下がるものかと、目を血走らせる勢いで視姦の圧を強めてやった。
 意趣返しのつもりで、奪ってやるつもりで。
 乙女心が強いなら、初めて肌を見せる相手は、きっと初恋の相手がいいだろう。そんな自己決定の権利を奪う。好いてもいない男の視線を浴びてもらう。
「でっ、ですが今後はそういうわけにも、あっ」
 同調が切られたらしい。
 会話相手がいなくなり、レーナは喋ることがなくなって、そのまま無言でシャワーを浴びる。その背中をジロジロ眺め、綺麗できめ細やかな肌を、ライチェスは目に焼き付けていた。
 濡れた繻子の長い髪がシャワーの熱を吸い取って、皮膚にべったり張りついていく。その吸水によって束ねられ、尖った先端から、いくらでも撃ち出される水滴は、尻の美しいカーブに沿って流れ落ちる。
 尻だけでは済ませるわけなどなく、もちろん胸の大きさも、乳首の色も、それから毛が生えているかどうかも、全てを確認させてもらう。目に焼き付けるだけでは済ませずに、カメラの中にデータとして収めていき、そしてレーナは自分が撮られていることを知らない。
 シャワーを止め、湯船に浸かり始めてからの、ゆっくり過ごすレーナにも、カメラや視線を繰り返し向け続けた。
 というより、他にやることがなかった。
 透明人間がドアを開ければ、それはもう心霊現象というか、ポルターガイスト現象にしか見えないわけで。今回のところのライチェスは、自分の存在をレーナに伝えるつもりがない。収穫を得るだけ得て、それでもまだ、足りないと判断したその時には、これよりも大きな清算を受けてもらう。
 それにしても、なかなか大きい。
 バスタブに浸した身体の沈み具合とで、乳房がたぷっと水面に浮かんで見えたタイミングが何度かあった。半球ドームのように綺麗に丸っこく整って、薄色の乳首も綺麗なもので、そんなレーナの美貌の周りで漂う湯気は、なんというか絵になった。
 優れた写真家の技術があれば、美術品として美術館に飾るような写真が撮れそうだと、ライチェスは本気で思ってしまうのだった。