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 しかし……。

 とうとうお尻の検査へ移った時だ。
(な、何よこの気持ち悪い豚は!)
 順番のまわってきた亜由美の前にいたのは、いかにも汗の臭そうな醜く肥え太った男だった。顔の造詣も見るからに崩れていて、脂ぎった髪にはフケでも溜まっていそうにみえる。着ている白衣も黄ばんで萎れており、不潔極まりない医師がそこにはいた。
(き、気持ち悪い! 何で? いつもの人はどうしたの?)
 亜由美は気を動転させ、恐る恐る丸イスに座った。
 先程の検診のためにブラジャーは外しっぱなしになっており、ワイシャツに包まれた乳はプルンと揺れやすい。いつものクセで亜由美は腕で胸を支えていた。
「えーっと、神埼亜由美ちゃんだね」
 声にまで背筋をねっとり舐めてくるような気持ち悪さがあり、おまけに馴れ馴れしいちゃん付けである。亜由美のこの校医に対する拒否反応はかなりもので、今すぐにでも回れ右して駆け去りたいほどの心境にあった。
 しかも……。
 ジロッ、と校医は胸に視線を送ってきた。
(本当に何なのよ! 医者のクセにいやらしい!)
 ケダモノに乳房を狙われでもしている心地がして、自然と警戒心が強まった。
「毎年同じ校医さんだったはずですが、今日はどうして人が変わっているのですか?」
 こんな不細工な豚にお尻を見せて溜まるものか。
 父が配置した若手校医さんなら、いつもと同じ優しい人だという安心感がある。それが毎年の慰めになって今まで耐え切れた。
 同じ相手に見せるというのは、だんだん慣れが生まれてくるものだ。
 それが急に別の人に変わってしまうと、積み重ねた慣れが全てリセットされてしまう。
「昨晩なんだけどねぇ、いつもの人は急な事故に遭ってしまいましてねぇ」
「事故って……! 交通事故ですか?」
「幸い事故といっても軽症でね。ま、何日かの入院は必要なんだけど、そうなると学校に来ることはできないでしょう? 変わりに入ることになったのが私なんですよ」
 そして、肥え太った校医は笑った。
 ニタァァ、と気味悪いほどに唇を歪め、見るだけで怖気が走るほどのゾッとする笑顔を投げかけられた。
 嫌だ、気持ち悪い……。
 やっぱり、胸をジロジロ見てきている。
 普通の医師ならこんないやらしい顔はしないのに、こんな人は絶対に嫌だ。
「そ、そんな……」
 ただ事情があって人が変わるだけなら、亜由美とて我慢したかもしれない。よりにもよって怖気のするほど醜い男が相手など、それだけでも泣きたくなった。
「ま、そういうわけだからね。いつもとは違う人で悪いんだけど、検査はしっかり受けないとね。さ、脱いだ脱いだ」
 亜由美はそんな指示に動くことはなく、膝に置いていた拳でスカートの丈をぎゅっと握った。できるなら顔も見たくないような相手の前で脱ぐなど、絶対にありえない。
「気分が悪くなってきました」
 どんな手を使っても、こんな男に見せるものは何もない。
「気分? どうしたんだね」
「たぶん風邪だと思います。実は朝からクラクラしていて、なんだかもう限界で……」
「へぇ? それで?」
「早退します。検査はまた別の日に別の医師に受けさせて頂きますので、失礼致します」
 亜由美は軽い会釈をし、さっと立ち上がってその場を去ろうとする。
 しかし、それを叱責する声があがった。
「コラ! 亜由美さん!」
 亜由美のクラスを担当する担任教師の佐倉美紀だ。
 亜由美と同じく乳の大きい、負けず劣らずのルックスを備えた美人教師だ。ワイシャツの胸元は丸く大きく膨らんでおり、
「な、なんですか? 佐倉先生」
「今の話、聞こえていたわよ? 亜由美さん。 そんな勝手が通るとでも思っているの?」
「勝手じゃありません! 気分が優れないので帰らせて頂きます!」
 鋭い剣幕の担任教師に食って掛かり、亜由美と佐倉の二人は言い争いを起こす。
「お黙り! みんなはちゃんとあの先生から検査を受けたのよ? 我慢しているのはみんな同じなのに、亜由美さんだけ抜け出してマシな先生のところへ行こうって腹でしょう? 悪いけれど、そんな勝手は絶対に許しません!」
 さすがに嘘が見え透いていたか、佐倉には全てを看破されていた。
「が、我慢する方がどうかしています! 学校側だって何であんな……。デリケートな検査だっていうのに、あれだけで配慮にかけています!」
 亜由美は校医を指して喚き散らした。
「あれだけで? 一体どういう意味かしら?」
「どうもこうも、どこであんな豚を見つけてきたんですか! ここは養豚場ではありません! 学校ですよね?」
「随分失礼なことをおっしゃっているけど、人を見た目でキモイだのオタクだのと決め付けるのはよくないわ。誰だって好きで醜悪な顔に生まれるわけじゃないのに、どうして人を平気で豚呼ばわりするのかしら」
 喚く亜由美に対して佐倉は冷静に、しかし叱りつける口調で迎え撃つ。
「だって豚は豚ですよね? 何でも我慢すればいいってもんじゃないはずです! 女の子が心に深い傷を負ったら、これは学校の責任ですよ?」
「彼だってああ見えて立派に仕事をこなすプロよ! 見た目の悪さはおまけして、きちんと能力を見てあげるのがれっきとした大人の態度!」
「そういう必要がある時もありますけど、負け犬と紙一重じゃないですか?」
「今は勝ち負けなんて関係ないの! これから社会に出たら嫌なことだってたくさん待っているかもしれないのに、ここで我慢ができない人間にならせるわけにはいかないわ!」
「だったら先生もあの先生から検査を受けられますか?」
「そ、それは……」
 佐倉が一瞬怯む。
 亜由美はすかさず追撃に打って出た。
「ほら、やっぱり! 何でもかんでも我慢ですって? それじゃあ人はストレスで死んじゃいます! 嫌な事を避けて通るのだって立派なやり方ですよね? それとも、佐倉先生は全てのものに立ち向かいますか? あの豚にも!」
「くっ……」
「ま、佐倉先生もアイツから検査を受けるっていうなら考えますけど? どうせ大人は他の場所で検査をするんですよね」
「……だったら、いいわ。私も彼から検査を受けようじゃない」
「へ?」
 佐倉の出方に、今度は亜由美の方が怯んだ。
「今、確かに言ったわよね? 私も彼から検査を受けるのなら考えると。そうね。私も彼から検査を受けるから、あなたもちゃんと一緒に受けなさい?」
「い、いや。今のは単に勢いで……」
 ついさっきまで威勢の良かったはずの亜由美は、この一瞬で弱りきっていた。はずみで言ってしまった言葉が弱みになり、教師を相手に完全に逆転されてしまっていた。
「勢い? あなたは自分の言葉にちゃんと責任を持てないのかしら?」
「……訂正します。それは勢いで言っただけで、私は……」
「亜由美さん! いい加減にしなさい!」
 強い叱責が部屋全体に響き渡る。
「そうそう。早くしてくれませんかねぇ? 私もずっと待っているんですが」
 横から入り込んでくるのは肥え太った校医だった。
「申し訳ありません。検査はちゃんと受けさせますので」
 佐倉が彼に頭を下げる。
「彼女は先程から私に暴言をおっしゃってますね。豚だの何だの、これでも学校の要請に応じて来ている身だというのに、全く傷つきますねぇ?」
 ニタァァア、と校医は笑みを浮かべる。
「本当に申し訳ありません」
 空気は確実に悪くなっていた。
 大の大人が腰を深く折り曲げて、亜由美の前で頭を下げているのだ。今までの口論も当然クラスメイト達にだだ漏れで、周囲を囲むカーテンの向こうからヒソヒソ声が聞こえてくる。どんな話し声なのか正確に聞き取れるわけではないが、それでも亜由美には女子達の抱く気持ちが伝わった。
『気持ちはわかるがお前も受けろ』
 クラスメイトはみんなそう思っているのだ。
 自分達が心に痛みを受けたのだから、クラスの仲間としてお前も痛みを共有しろ。そういった集団圧力がひしひしと伝わって、亜由美の中から抵抗の意思が沈んでいく。
「本人からも謝罪がないと、私はこのことを報告しますよ? 病院や同僚の仲間はもちろん、いつもここで検査を担当なさっているという若手の方にもね」
 背筋が凍りついた。 
 せっかく父の力で置いてもらったまともな医師と、中学の頃から良好な関係を築いていた。もちろん毎年の検査の日に顔を合わせるだけの関係だが、その医師は亜由美のことを覚えて気遣いある接し方をしてくれていた。
 そんな優しい医師の先生に、自分の嫌な部分が知れてしまったら……。
 言いようのない恐怖感がのしかかり、クラスの集団圧力もまた亜由美を押しつぶす。
「さあ、亜由美さん。ちゃんと彼に謝って、彼から検査を受けなさい?」
 教師から受けるプレッシャーに追い詰められ……。
 とうとう亜由美は頭を下げるしかなくなった。

「……申し訳ありませんでした」

 自分に向かって頭を下げた亜由美を見て、校医はやはりニタニタ笑っていた。




 
 
 

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