第1話 裁判のはじまり
は?
という文字が頭に大きく浮かんでいた。
「は?」
ついでに口からも、それは漏れ出ていた。
町中を歩いていたクロエは、その現場を偶然に目撃するなり、まずは理解が追いつかず、ただただ遠巻きに、呆然としながら見守っていた。
咄嗟に飛び込むべき状況なのだろうが、その咄嗟の動きが撮れずにいた。
クロエがそこで目撃したのは、一人の美少女が他校の制服を着た女子軍団に囲まれている現場であった。
「えー! マジマジかわいすぎっしょ」
「うらやましー! 超絶羨ましいわ!」
「罪っしょ! この美貌は罪っしょ!」
どうやらその女子グループは、道端で見かけた美少女の魅力に惹かれ、絶賛取り囲んでいる最中らしい。まるで人気者の有名人がファンに包囲されたかのようだ。
しかし、それだけなら「は?」という反応にはならない。せいぜい微笑ましい一幕として、そっと身を引いて終わりだったと思うのだが、クロエが呆然とする理由は、そのもう少し先にある。
「えっ、えー? そんなことされちゃったら、ちぇるっと困っちゃうなー」
チエルの声だった。
女子グループの群れで成された壁の、いくつもの頭のあいだに見え隠れする髪や横顔が視界に入り、なかよし部の仲間がそんな目に遭っていることも、もちろん困惑の一因だった。
しかし、より大きな要因があった。
「おおっ、これぞ天国」
「お尻がなんとスベスベなことか!」
痴漢されていた。
一人の女の子が囲まれていて、それがチエルであることがわかり、そのチエルが胸を揉まれていた。スカートを後ろから捲り上げ、お尻を堂々と触っていた。
一連の状況を一気にまとめて目撃して、その集団痴漢としか言いようのない状況を前にしての、クロエの「は?」という反応だった。
「え? え? いや、あれって何系? どーゆー系? なにが起こっとるん? え、え?」
理解できなかった。
脳が目の前の状況を処理していなかった。
「あ、うん。同性愛者? いるよね。レズ? 百合? そーゆーんも、世の中にはいるよね。うん」
と、それはわかる。
だが、そういう気質の女子がグループを作り上げ、通りがかりの美少女を取り囲み、そのまま集団痴漢を働いていると思わしき、その光景のことが理解できなかった。
「現実? 現実かこれ、マジで現実かおい」
仲間が痴漢に遭っているなら、すぐにでも助けに行くべきなのだが、それよりもまず先に困惑が湧き、疑問符ばかりが湧くおかげで、足が動かないわけなのだった。
「ちょーっと! ちょっとちょっと!」
チエルの声を聞き、さすがにスイッチが入った。
「いくらなんでも困るっていうか? え? なんでそんなベタベタと触ってるんですか? あれですか? 女の子同士なら許されるんですか? いえいえ、どっからどう考えてもこれ、立派な性・犯・罪ってやつだと思いませんか?」
慌てたように口数を増やすチエルの声を聞き、クロエははっと目を覚ましていた。
「いかんいかん」
いつまでもぼーっと眺めていないで、いい加減に助けに入るところだろう。
今ここにはクロエしかいない。
他に助けに入りそうな通行人もいない中、被害者はチエルとなると、行かないわけにはいかない。
クロエすぐに向かって行った。
(にしても、思い出すわー)
以前は一〇歳児の男子を止めに入って、そこから先の運命がとんでもないものだった。
そして、今回はチエルを助けに向かっている。
(ま、嫌な予感はするけど)
その予感を理由にして、チエルを見捨てることは出来ない。
「ちょっと? 皆さん?」
クロエは集団の背後へ迫り、そのうちの一人の肩にぽんと手を起き……。
その瞬間、女子グループの視線が一斉にクロエを向いた。
つい、困惑した。
「え? なに?」
止めに入ろうと、声をかけようとして、その反応が困惑に満ちたものとなっていた。
「おお! 救世主! 見ての通り、マジでヤバイ系? 早く早く私をここから連れ出してぇ!」
という、チエルの言葉の洪水が耳に入って来なかった。
それよりも、女子全員から向けられる視線の数々だ。
明らかに獲物を見ている。
注意に入られ、それを疎ましく思うでも、危機感を覚えるのでもなく、まるで新しい獲物がやってきて、それが美味しそうでたまらないかのような、ニヤけた口からヨダレでも垂らしそうな顔を一人一人が浮かべている。
おかしいではないか。
悪いことをしている最中に声をかけられ、それで浮かぶ表情が嬉しそうなものであるなど普通ではない。
その不気味さに硬直して、クロエは隙だらけとなっていた。
本来、もっと実力のあるクロエが、しかしそれを発揮することもなく、数いる女子の一人に背後を許していた。
クロエは気づいていない。
引き攣っているばかりで、真後ろに立つ一人の気配を悟ることなく――。
「いやぁ、あんさ。その子、離してくんない?」
ようやく、そんな言葉を発した時である。
瞬間――。
景色が一変して、目の前には地面があった。
突如として後ろからかかってきた力に驚いて、一瞬ばかり頭が真っ白になるクロエだが、うつ伏せに倒れた直後、すぐに自分の状況を悟っていた。
後ろから押し倒された。
しかも腕が一本、背中の後ろに捻り上げられ、尻で体重までかけられて、クロエは身動きを封じられていた。
「なっ、ちょ!」
しかも、それだけではない。
咄嗟に前を見上げようとして、そんなクロエの目の前に突きつけられたのはスクロールだった。
開かれた巻物の魔法陣が目に飛び込み、クロエは驚愕していた。
まさかのそれに驚愕して目を見開き、ほんの少しでも頭をフリーズさせている隙を突かれていた。見覚えのあるそれを思い出し、それがいかに危険なスクロールであるかを悟り、それからようやく、そこで取るべき行動は、咄嗟に目を瞑って見ないようにすることだと、これだけ遅くなってようやく気づいた。
もう遅い、かかってしまった。
スクロールは起動して、魔法陣が輝いている。その光を顔に浴び、頭にはくらっと揺れ動くような感覚と、脳に何かが染み広がってくる感覚で、自分が今まさに洗脳されている最中であることを悟っていた。
(こ、これ……やば……ただの集団痴漢じゃ……)
果たして、それは不幸中の幸いと言えるのか。
その洗脳はしかし、人を操り人形に変え、何でも言うことを聞かせる種類のものではなかった。もっと効果が面倒で、人を意のままにするにも手間のかかる、少しばかり限定的な洗脳しか出来ないスクロールなのだった。
*
結論を言うと、チエルは解放された。
だが、どうやらクロエの顔やスタイルがよほどグループの好みのツボを突いていたらしく、チエルの代わりにクロエが連行され、その場所に立たされているのであった。
人里離れた草原の広場。
「では被告人、クロエ」
裁判長を気取った一人の女子が、クロエの真正面で休めの姿勢となり、腰の後ろに手を組んで、やけにピンと真っ直ぐ、綺麗に背筋を伸ばしていた。
「はい? 被告?」
こんなところまで移動して、一体何が始まるかと思えば、被告呼ばわりである。
「あなたの集団痴漢妨害罪について、その罪の重さを量るため、これより裁判を開始いたします」
「へー、ほーん。裁判? へえ、裁判ね」
ならば、クロエのことをC字状にぐるりと囲み、逃がさないようにしている面々は裁判員か。
(いや聞いたことないからな。なに、犯罪の妨害罪って。痴漢を妨害した罪で裁くって。え? マジでどゆこと?)
何よりもおかしいのは罪悪感だ。
自分は何も悪いことはしていない。反省すべきは彼女達であり、自分ではないはずだと、頭ではわかっているのに、何故だか胸の中にはどんよりと、薄暗いものが漂っている。
(これが、あれか? あのスクロールの効果なんか?)
洗脳の詳細に想像が及び、自分が操られつつあることの自覚を持てているなら、意思の強さでどうにかならないか。これから裁判長が何を言い、裁判員からどんな言葉が出て来ようと、決して従わない姿勢を貫くのだ。
という意思を働かせ、その瞬間だ。
さらに激しく罪悪感が吹き荒れた。
自分が悪いことをしたはずなのに、何を開き直ろうとしているのかという、自己嫌悪に近い感情が渦巻いていた。頭ではどちらが悪いかわかっているはずなのに、裁かれるべきは自分であるような心理が増幅していた。
(裁判……受けないと……)
この裁判ごっこのおかしさを、頭の片隅ではわかっている。
だが、拒否できない。
拒否することの拒否を、心が行ってしまっている。誰が従うものか、こんな扱いは不当だ。そう主張しようとする気持ちを湧かせるたび、それを矯正しようとする何かが働く。
精神の中に見えない魔力の固まりが入り込み、思考を制御しようとしてくる感覚に、クロエは戦慄しながら立ち尽くす。
(あー……。しくったわ)
あの時、あのスクロールを破棄してさえいなければ、今この場はともかくとして、ここを離れた後、洗脳作用は解除できたかもしれない。
それを破棄してしまっているので、これでは試すことすらできないのだ。
「ではクロエさん。あなたの犯行動機を教えて下さい」
動機ときたものだ。
これでは裁判というより取調だ。
「あー……。さっきの? チエルって子、友達なんで、助けに入ろうかなーと」
嘘をついても仕方がない。
というより、このタイミングで嘘をつくなら、一体どんな嘘になるというのか。痴漢妨害罪だというのなら、実は止めに入ったのではなく、参加を希望していたり、手伝いに来たとでも言えば無罪になるのか。
「友人の救出を目的に、私達に声をかけたと」
「そゆことそゆこと」
「しかし、それは痴漢を妨害して良い理由にはなりません」
「あ、まあ。そっすね」
相手の言動が、それに頷く自分の言動がおかしいことを、クロエは薄々わかっている。痴漢の現行犯なら、声をかけて注意する程度、何もおかしくはないはずだ。
過剰な暴力でも働いて、犯人を必要以上に痛めつけたのなら、クロエにも非があるような話にはなるだろう。だが後ろから肩を叩いて、声をかけた段階で、クロエの方が取り押さえられている。まるでクロエこそが現行犯として捕まったように……。
「さて、皆からは何か意見はありますかな?」
気取った声で、裁判長は周囲へと呼びかける。
背後や左右の群れが少しざわつき、それから一人が手を挙げてか、意見を唱え始めるのだった。
「裁判長」
「発言をどうぞ」
「我々はチエルという素晴らしい獲物を見つけ、取り囲んでいる最中でした。あれほどの上玉、一体どれだけ珍しいことか。希少な獲物を取り逃がしたことを考慮して、クロエの罪はより重く捉えるべきなのでは?」
「なるほど、確かに」
裁判長が頷くなり、周りがまたさらにざわついて、クロエの耳に漏れ聞こえる言葉のほとんどはこういうものだった。
うんうん、だよねだよね。
と、同意している声ばかりだ。
「私からも」
「発言をどうぞ」
「私はチエルのおっぱいを揉んでいる最中でした。それを中断された不愉快さ! クロエは断固有罪とすべきです!」
「それも、確かに」
頭が正常に動いていれば、突っ込みたい気持ちしか湧かないだろう。お前の楽しみの中断など知ったことかと、そう思うべきタイミングだというのに、やはり湧いているのは罪悪感だ。
邪魔をしてしまって、ごめんなさい。
湧いてはおかしい気持ちが、どういうわけか湧いている。
あの見せつけられたスクロールの効果を、クロエは実感しているのだった。
「しかし、裁判長」
そこでまた別の一人が発言の許可を求める。
「発言をどうぞ」
「クロエの行動は極めて悪質なものであり、我々の損害は大きなものとなりました。しかし、それは彼女自身がこうしてこの場に立っていることにより、埋め合わせが行われています」
それを聞くなり、あの眼差しを思い出す。
新しい獲物がやってきて、それを歓迎しているような、怒りも焦りもない、あの全員分の目つきを。
「減刑するべきということかな?」
「いいえ、直ちに減刑すべきという意見ではありません。減刑の機会を与えるべきではないでしょうか」
「ほほう」
裁判長がほくそ笑む。
悪い予感しかしない。
つまり、減刑して欲しくば、このような言うことを聞け、さもなくばこのレベルの刑に処す。という話になるのではないか。
「詳しい減刑機械の内容ですが――――」
彼女の口から語られる内容に、裁判長の顔はみるみるうちに満足そうなものとなっている。周囲の空気からも、反対の気配は感じられない。
「では、他に意見は?」
裁判長が問いかける。
それに対する答えは沈黙だった。
「それでは、第一回の裁判を閉廷し、これよりクロエには、寛大なる減刑機会を与えるものとする」
ありがたくもない機会を与えられ、クロエはこれから、言い渡された使命を果たすこととなる。
その内容は……。