第5話 犬の放尿
シンがそこに立っている。
待ち合わせより、まだ十分以上も早い時間に、シンは既に立っている。
そして、レーナもここに到着しているといえばしているが、とても姿を現せる状況ではなくて、むしろ消えたくて消えたくてたまらない。誰にも認識されていないのだから、周囲の人間にとっては最初から存在していないも同じだが、それにしたって恥ずかしいあまりに消え入りたくなってくる。
「ここで小便しろ」
物凄い命令を彼はしてきた。
「な、なんで!? おかしいんですか? あなたは!」
レーナはまず先に狼狽した。
「小便しろよ。じゃなきゃ、ここであんたの認識阻害だけ解除する」
「ぐぅ…………」
それを言われれば、どんなに嫌でも従わざるを得なくなる。
それにしたって、理解できない趣味である。裸を見たいとか、触りたいとか、そういう欲望ならわかりやすいが、バスの時から今の今まで、やっぱり屈辱を与えたり、惨めな思いをさせるのが一番の目的なのか。
だから、こんな公共の場で小便しろと、いくら透明人間の状態とはいえ、言ってくるのだろうか。
「四つん這いで、片足を上げろ。犬と同じポーズでするんだ」
他人には見えなくとも、異能の彼にはそれを見られる。
誰にも見られていなくても、大きな屈辱になるはずなのに、少なくとも一人だけにはそれを見られる。
「最低です。こんなこと、させるなんて…………」
無念に打ちのめされながら、レーナは地べたに膝をつく。そして両手も地面につき、丸裸でポーズを取っただけでさえ、たまらない屈辱が湧いて溢れる。相手の姿は見えないけれど、きっといい気になって見下ろしていて、それが余計に屈辱を膨らませた。
それに、よりにもよって、シンの近く。
一メートルくらいは離れている。
円形状の噴水だから、曲線の関係で、シンからすれば斜め後ろにレーナはいる。もしもレーナの姿が見えて、シンの視線が向いてきたなら、シンから見えるのは突き出された尻である。
レーナは片足を上げた。
四つん這いも屈辱だったが、犬の小便と同じポーズを取ることで、ますます込み上げてくるものがある。尊厳を大いにいたぶられている感覚だけで、舌を噛み切りたいか、逆に報復したくてたまらないか、何かをどうにかしたい衝動がいくらでも溢れてくる。
だいたい、小便と言われても、尿意があるかもわからないのに、犬の放尿ポーズを取るだけとって、しばらくはただポーズを維持しているだけだった。最低でも、このポーズを一人には見られているのだという、激しい羞恥心に囚われながら、何秒も何秒も維持していた。
レーナの抱く屈辱感はまだまだ膨らむ。いつしか唇を噛み締めて、拳も固く震わせていた。
その時である。
「はあ、さすがにまだか」
シンの小さな独り言。
まだ待ち合わせ時間には早いとはいえ、本当はもう到着しているのに、姿を見せるわけにはいかなくて、抱く感情は一気に複雑になった。
(シン……)
涙目になった。
助けて欲しい。この状況に気づいて欲しい。いや、絶対にバレたくない。シンに助けて欲しいのに、絶対に秘密を知られたくない相手もやっぱりシンで、自分は一体、ならシンのことをどう思っているのだろうか。
いや、シンへの気持ちがどうとかじゃなくて、そもそも知り合いに見られたら生きていけない。
そんな時に尿意に気づき、レーナはますます強く拳を握り締め、手の平に爪を食い込ませんばかりにした。右脚の上げ方で、アソコの角度を咄嗟に調整して、自分自身にはかからないようにと意識していた。
出そうと意識してみれば、先ほどまではあるかもわからなかった尿意は、だんだんと大きくなっていく。水分そのものは十分あって、出せるだけの量自体はあったらしい。
もし出せなければ、彼は何と言っただろうか。
どうしても尿意がないからと、許してくれることなどあっただろうか。
果たしたくもない命令を、これで果たせてしまう。果たせる、達成できる、ではなくて、本当にもう――果たせてしまう、という気持ちであった。
(こんなところ……見られたら…………)
もし急に、放尿の最中にでも認識阻害を解除され、しかもシンがこちらを見たら、それこそ本当に死にたくなる。いや、いっそ殺して欲しい。そうなった時は、ひと思いにあの世に送ってもらえることこそ、せめてもの情けにすら思えてくる。
たくさんの死を背負ったシンを相手にして、そんな気持ちが湧くほどに、レーナの中には屈辱やら情け無さやら、そんなもので溢れかえっていた。
(出る……)
出てしまう。
せり上がった尿意は、やがて尿道口の外へと水滴を作り出す。ぷっくりと、玉の汗のようにして出て来てから、それは一気に噴水の元へ向かって放出された。
チョロロロロロロロロ――――。
こんな公共の場所で、あってはならない解放感。
(やだ……やだやだ……やだやだやだ……!)
レーナは一気に苦悶した。
無意識のうちに首を揺り動かし、何かを否定したいように髪を軽く振り乱す。
「そうそう。あんたの存在は隠してるけど、小便の方までは阻害されないから」
確か、そうだった。認識阻害の内側に隠せるのは、身に着けた衣服や手に持った所持品、すぐ手の届く距離にあるものだけだとか。
だったら、レーナから出て来た体液の方は、阻害の外側でもおかしくなくて。
「え……!」
聞くなりレーナは戦慄して、下腹部をぐっと強張らせる。
チョロ――チョロロロ…………
少しでも勢いを抑え、石畳で水の弾ける音を小さくしようと努力した。もちろん、噴水の音はしているので、普通にしても聞こえるとは限らない。ただ、少しでも気づかれる可能性を減らせるなら、抑えずにはいられなかった。
気づかれたくない。自分が小便で濡らした石畳を見られたくない。
レーナの小便だとは、まさか想像すらしないとしても、レーナにとっては見られたくない。
「ははは! 本当に小便してるよ! おもしれぇ!」
(ぐっ、この人は……!)
「犬だ犬だ。犬の小便だ」
屈辱のあまり、食い縛った歯にはみるみるうちに力が籠もる。途方もない羞恥心まで込み上げて、頭から火柱でも出るかと思うほど、羞恥の熱は高まっていた。脳にすっかり火が通るなど、もはや時間の問題で、本当に気がどうにかなりそうだ。
チョロロロ…………
まだ、尿は途切れない。
出し切るまでは、あと数秒ほどかかるレーナの、犬のポーズから見える放尿のアーチは、ピチャピチャと小さな音を鳴らし続けた。
それが、やっと途切れる。
自分自身にかからないように気をつけたが、出した直後のアソコには、僅かな滴が残ったりはするわけで、微妙に濡れた表面に風が通ると、すーっと、ひんやりとする。その風の感触は、自分は何をしてしまったのかの実感を、これでもかというほど高めていった。
シンがレーナを誘ったのは、まあ一緒に買い物をしたり、ぶらぶらと歩いたり、なんてことをしてみたい目論見があるにはあって。その誘いにレーナが乗ってくれたのは、だからもちろん、それなりに嬉しくて。
早く着きすぎた。
出かける前は、おめかししてけよ、などと冗談めかしてくるライデンをうるさく思い、けれどまあ、一応それなりの服は選んでいる。買ってから、まだそう何度もは穿いていない、比較的新しいスラックスに、ボタン留めのシャツの上には、ファッション用の薄手のジャケットを重ねている。
このファッションがどこまで決まったものかは知らないが、まあフレデリカの評価も悪くはなかったので、悪いということはないだろう。
それにしても、やっぱり早く来すぎた。
十分以上も早く来てしまったから、相対的にというか、レーナの到着を遅く感じる。早く来ておいて言う文句ではないので、まあそれはいいとして、さっきから妙な臭気が漂ってくるのは一体なんなのか。
(確かにさっき、犬がいたけど)
やたらに豪奢な貴婦人がブルドッグをリードに繋いで、やたらにご機嫌そうに散歩をしていた。噴水の周囲をぐるりと一周していたので、その犬がこのあたりでしたのだろうが、場所が近いのだろうか。
(ちょっと気になるな)
特別な臭気というほど、臭すぎるほど臭いわけではないが、トイレでもない場所で嗅ぎたいものでもなく、シンは顔を顰めつつあった。
「というか、そこか」
シンは気づいた。
振り向いて斜め後ろ、噴水の塀部分がまさにそれらしく濡れていて、知らないうちにこんな近くでしていたらしい。尿に濡れた痕跡の、すぐ近くにいつまでも立っていたいわけがない。
待ち合わせの指定は噴水、噴水の周りならどこでもいいだろう。
そう思って、シンはその場所からさっと離れた。
軽いショックを受けた。
「え……」
当然といえば当然というか、小便のすぐ近くに立っていたいと思う方が、もちろんおかしい。シンの反応は責められたものでなく、むしろ常識的なものだけれど、それにしたってレーナはショックを受けていた。
たぶん、犬の小便だと思っている。そうだ、そうに決まっている。そうでなくては困る。
だいたい、冷静に考えて、こんな人目のつくところで、人間が小便をすると思う人などいるだろうか。犬の散歩だってあったのだし、だからきっと、きっと人間の小便だとは思っていまいが。
そうレーナは必死に自分で言い聞かせ、そのはずだと自分を納得させようとしていた。
というより、周りの一般人からすれば、犬と考えるのがやっぱり常識的かつ普通の判断であるわけで。目撃でもしない限りは、少女の放尿だなんて、まず想像すらしないのが普通なはずで。
こんな言い訳がましく、必死になって自分に言い聞かせるまでもなく、犬の小便ということになるといえばなるはずだが。
しかし、真実はレーナの放尿。
(く、臭かったですか? いえ、臭いは……関係ありませんよね…………)
頭ではわかっている。色々とわかっている。
レーナがシンの立場なら、別に臭いなど関係無く移動する。
だが、さっきまでは気づいていなかったわけで、もしかしたら臭いで小便に気づき、そして居場所を変えたのではないかと不安になる。
「おうおう、他にも周りを見てみろよ」
彼が言うなり、レーナはさらに多くの声に気づいた。
「あらあら、あんなところに。行儀の悪いワンちゃんがいるものねぇ」
と、ブルドッグ連れの貴婦人が。
「さっきまであったっけ?」
「さあ」
不思議がっている二人組が。
シン以外にも、他の人達まで小便に気づき、レーナの羞恥心はこれでもかというほど煽られる。みんなの中では犬の小便となっていようと、レーナにはどうしても、自分の痕跡を見られた感覚が強くて仕方がない。
だいたい、この歳だ。
レーナが味わう屈辱は、小さい頃におねしょをからかわれるものより、もっともっと大きなものだった。
「よかったじゃんか。誰もあんただとは思ってなくて」
「そういう問題じゃ――」
「お? 文句があるか? なら周りの人達にも、大尉にも、真相を知ってもらうか?」
彼の姿は見えなくても、きっとその目はシンに向いているのだと、レーナにはそんな気がした。
「もう許して下さい、十分じゃないですか……」
憤りと懇願の、それは両方だった。どちらの気持ちも大いに込めて、レーナは荒っぽく吐き出していた。
「ま、次で最後にしてやる」
「まだ……!」
「けど、最後にしてやる。ほら立てよ」
そう言われ、いつまでも四つん這いだったレーナは、やっとのことで立ち上がる。その瞬間に手を握られ、透明人間に手を引かれ、レーナはベンチの方へと連れて行かれる。
(まだ……この上、まだ…………)
ここまで尊厳を貶めて、人の心を踏みつけにしておいて、まだ何を考えているというのか。