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 木戸拓也はドキドキしていた。
 今日は祝日で学校は休みだが、部活動のために登校しつつ、しかし早めに終了するので、友達の斉藤健二や田中次郎と共に居残って、ゲームなり漫画なりを一緒に楽しむ。中学生という多感な時期、特に意味などなくとも、友達同士で残って過ごすそれ自体に、ちょっとした楽しさがある。
 拓也達はその楽しみを味わうべくして過ごすのだが、風山羽矢子が練習を終える頃には、頼んでもいないのに気を利かせる。拓也だけを残して帰っていき、そのことにぶつくさと文句は言いつつ、結局は羽矢子のことを待ち伏せした。
 恋愛感情があるのか否か、本人にもわかっていない。
 見た目が可愛いとは思っていて、他の女子に比べて気が合うとも思っている。
 その羽矢子だが、陸上に駆ける熱意が拓也よりも強いので、部活の終了時間が早い場合、しばらくは一人で練習を続けている。大会に出場するような、レギュラー向けの専用メニューはただでさえハードなもので、終了後には死体が転がる光景も珍しくはないというのに、よくやるものだと拓也は思う。
 よくやるものだと、斜に構えながら言うようで、心のどこかでは感心している。あれだけ一生懸命に練習できて、勉強もちゃんとしている。凄い奴だと、腹の底では尊敬していて、ただ言葉にして伝えたことは一度もない。
 半袖のワイシャツとスラックスという、夏の制服姿で待ち構え、拓也は更衣室のドアを眺めて思い出す。
 もう一週間は前の話だが、あの時の光景は未だ鮮明に残っていた。
 羽矢子の乳房に、アソコ――あれが起こった翌朝、羽矢子は何事もないように振る舞って、友達同士で平然と笑い合い、平気な顔で部活にも参加していた。あまりにも普段通りで、てっきりあれは夢だったのかと思わされたくらいだが、会話の際に拓也の方が思い出し、胸やアソコをついつい気にしてしまった時、怖い顔で睨まれた。
 何も記憶が消えているわけではなく、トラウマにはなっているのだ。
 なので揃ってあの事には触れずにいる。
 健二に次郎、高山先生も含めて、何もなかったような振る舞いだ。暗黙のうちに設定を作り上げ、存在しない出来事だったことにしているのだ。
 しかし、本当の意味で歴史が消失しているわけではない。
 拓也の脳には、やはり羽矢子の裸体が染みついていて、それに初めて触れたのは、処置のためとはいえ、高山先生なのだという事実も焼き付いている。先生に悪意はなく、まして生徒との恋愛など想像すらしていないだろうが、だとしても拓也にとって、面白くないことなのだった。
 こうなると、裸を拝めてラッキーというよりは、他の男に触れられて最悪だという気持ちが上回るような気もしてくる。
(ってことは、俺ってやっぱ風山のこと好きなの?)
 壁に寄りかかり、天井でも見上げながら考え事をしていると、やがて正面のドアが開いて、更衣室の中から羽矢子が出て来るのだった。
「まーだ帰ってなかった」
「別に? 考え事してただけだし」
「ふーん? どんな」
「どんなって、色々だよ」
 言えるはずもなく、拓也はさっと顔を背ける。
「木戸くんって、帰りに寄り道してアイス買ったりしそうな顔してる」
「買わねーよ」
「ほんと?」
「ホントだよ。金ねーし」
「うーん。信じられないから、木戸くんの帰り道を監視させてもらおうかな」
「なんでだよ……」
 微妙に引き攣った顔をする拓也だが、実のところ嬉しくてたまらない。羽矢子と一緒に帰ることができてラッキーだと、内心ではガッツポーズを決める自分がいた。
(ってことは、俺ってやっぱ風山のこと好きなの?)
 疑問が改めて心に浮かぶ。
 本人を前にして、深く考えるのはやめておこうと、疑問は頭から振り払い、共に靴を履き替え昇降口の外へ出る。並び歩く男女の姿は、ただ帰り道が同じだけの、友達同士に見えるだろうか。カップルに見える可能性は、少しでもあるだろうか。
 女子を隣にして歩く状況で、何かそういうことが気になってきて落ち着かない。
 微妙にそわそわした様子で、拓也は歩くことになるのであった。
(っていうか、なんか喋るべきだよな)
 更衣室の前で軽く話して、それから校舎を出てからというもの、ほとんど何も話していない。話題が浮かばず黙りこくって、かといって羽矢子が何か喋ってくれるわけでもなく、沈黙が続いている。
(なんかねーか? えっと、話題……話題……)
 頭の中から話題になるものを掘り起こし、話を振ってみようとは思うのだが、ここまで沈黙が続いた中で、急に話題を出すのも妙な気分だ。黙っているのが普通という、そういう空気が出来てしまって、打ち破ることに抵抗が湧くというか、何というか。
「なあ、風山」
 しかし、一つだけ思いつく。
「ん?」
「今度さ――」
 どこかに、誘おうと思った。
 今なら二人きり、他の誰にも聞かれることはない。それに羽矢子は他の女子に比べて気安いというか、話しやすい相手なのだ。他の女子を誘うより、羽矢子を誘う方がずっと気楽というか、何というか。
 もちろん、羽矢子は休日でもトレーニングをするだろうから、無理にとはいかない。その時はその時で、ならば一緒に練習に付き合うとでも言ってみようか。そんな作戦を頭に並べ立てていた時だ。
「んぅぅ……!」
 羽矢子が妙な声を上げていた。
「あれ、どうした?」
「な、なんでも! なんでもないんだけど、ちょっと待ってて!?」
 突然だった。
 羽矢子は急に何かを慌てて、拓也を残してどこかへと走り去る。その急な事態に呆気に取られ、ぽかんとした顔で拓也は消えゆく背中を見送っていた。

     *

 まさか、まさかの失態だった。
 風山羽矢子にとって、木戸拓也は憎からずな男子というか、他の相手と比べると、一緒に過ごすのは気が楽だ。余計な気を遣わずに、言いたいことは何でも言ってしまいやすい対象なので、二人きりの状況でも、あまり気苦労を背負ったり、神経を使ったりといったことがない。
 好きかどうかを聞かれても困るのだが、一緒に帰るぐらいは良いと思って、せっかくだから並び歩いてみたわけだが、本当にまさかの失態である。

 ――なんで薬を塗り忘れちゃうかなぁ!

 あの出来事はもう一週間前。
 病院で薬をもらい、毎日のように塗り続け、症状を抑えながら過ごしてきた。医者の説明によるところでは、最大でも二週間は生き続ける種類らしいので、薬も二週間分ほど出ているのだ。
 チューブ状の塗り薬を学校にも持ち込んで、毎日のようにトイレの個室で下着を外し、患部に塗り込みを行っている。家でも朝や寝る前に塗り、日常的に症状を抑え続けているが、一日四回から五回は必要な処置の、うち一回を今日はたまたま忘れてしまった。
 家の朝と夜、学校での午前と午後でなるべく四回、必要に応じてさらにもう一回塗り込むのが羽矢子の日々で、部活の終了後にはいつも必ず塗っていた。きちんと習慣化したつもりが、今日は拓也と一緒に帰れると思ったら、つい忘れてしまっていたのだ。
(なんでそれで忘れちゃうかなぁ!?)
 まったく、どうかしている。
 拓也はそれほど、夢中になる相手だろうか。拓也と二人きりの時間を想像して、自分は本当にそこまでそわそわしていたのか。
 二人で並び歩く最中に、急に症状が現れて、乳首とアソコに痒みが生じた。そのまま放置していれば、数分後には快楽が発生する。さらに悪化していけば、ついには判断力すら失って、野外でも構わずオナニーを始めかねない。
 理性や常識というストッパーを外しかねない、恐るべき影響力を持つ症状だ。
 それを抑えるべく、羽矢子は拓也の前から駆け去って、どこかに隠れて薬を塗れないものかと走っていた。この近くには公園があり、公衆トイレがあったはずなので、そこで塗れば良いはずだと、羽矢子は陸上部で鍛えた足を活かしていた。
 今はスカートだが、気にしている余裕はない。
 というより、悪化した先にある未来は、それどころの問題では済まないので、羽矢子はかなり真剣に焦っていた。
(よし!)
 公園に辿り着く。
 あとは公衆トイレに駆け込んで、個室に入ってしまえばこちらのものだと、羽矢子はさらに足を速める。鍛え抜かれた脚力は、地面を一回蹴るごとに、ぐいぐいと身体を前に進めて、ポニーテールも風に吹かれて持ち上がる。
 しかし、それがまずかった。
 急ぐこと自体は正解でも、痒みが出ている最中に激しい運動を行って、血行を良くしたらどうなるか。体温が上昇したらどうなるか。
 悪化速度がどれだけ上がるか、羽矢子は忘れていた。
(や、やば!)
 立ち止まった。
 進めるべき足を止め、走りを急に歩きに切り替えていた。

 急速に膨らむ快楽を感じたのだ。

 今の速度で症状が悪化していけば、トイレまで間に合わない。
 まるで急に満杯のコップを持たされて、中身をこぼさず、気をつけながら歩かなくてはいけなくなった気分である。悪化速度の上昇を感じたことで、これ以上は走ることが怖くなり、羽矢子は大慌てで歩きに変えたのだ。
 急に強まった快楽で、ショーツに濡れた感触が出来ている。
 走っては、きちんとトイレに辿り着けない。
 しかし、そうなると近いはずのトイレが遠く感じる。
 ただでさえ焦った顔が、ますますの焦燥に染まり変わって、この場で泣きたいほどの目で羽矢子は遠いトイレを見た。
 この公園には、中に出入りして遊ぶ遊具として、大きなタコが設置されている。周囲に伸ばした足の一本一本がトンネルで、活気ある時間帯にはちびっ子が遊んでいたり、小学生が友達同士のたむろ場所にそこを選んで、中でゲームをやっていることがある。
 そして、その向こう側に公衆トイレは設置されている。
 歩いたとしても、一分か三十秒か、その程度の距離に過ぎないが、走りで悪化速度を上げたせいで、一歩進んでの服の摩擦が気持ちいい。太ももに擦れるスカートに、腹や腕に触れるワイシャツで、異常に快楽が生まれてくる。
(ま、間に合わない……)
 焦ったのがまずかった。
 せめて早歩きぐらいにしておけば、悪化速度を上昇させず、かつ急いでトイレに到着できていただろう。今から走っても、歩いても、すぐそこにあるトイレまで間に合わない。かといって、立ち止まっていれば興奮が落ち着くかといったら、媚薬ウイルスは沈んでくれない。
 運動で温まった肉体は冷ませても、ウイルスの方がどうにもならない。
 薬を塗らない限り、止まっていようが、どんな速度で進もうが、関係無しに症状は悪化していく。悪化速度の違いが出るだけで、ウイルスの活性化そのものは止まらない。
(やむを得ないかな……)
 羽矢子はタコの遊具を見た。
 幸運なことに、今の公園内には誰もいない。あのタコの中に入って、そこで薬を塗るとしよう。もしも誰かが入っていれば、お願いして出てもらう。もう他にどうしようもなく、羽矢子は気をつけながらタコのトンネルを目指していった。





 
 
 

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