目次 次の話




 まさか、自分が家庭教師をやろうなどとは思ってもみなかった。
 きっかけというなら、それは町の掲示板に依頼として張り出され、そこそこに稼ぎが良いと感じたことか。それに小学生の勉強なら、自分でも先生が務まる気もして、目に付いたその依頼に手を伸ばしていた。
 元々、勉強は嫌いな方だった。
 難しい本など読めば、秒で眠くなってしまう。
 そんな自分がテレサ女学院などというお嬢様学校に通うとは、かつては想像もしなかったことである。母親がテレ女の話を持ち出して、そこに入学してみてはどうかと言い出して時も、まず真っ先に耳を疑った。
 だが、考えてみた末に死ぬほどの勉強をして、本当に入学してしまった自分がいる。
 入学はおろか、家庭教師などといって、人に勉強を教えようとまで考えている。
(ま、アレ言われなきゃ、ゼッテーやんなかったかなー)
 自分がテレ女に入ったきっかけを仲間に話した時、言われたことがあった。
 元々勉強が苦手だったなら、わからない人の気持ちがわかるので、きっと誰かに勉強を教えるのに向いている。
(とか言われた時は、まあ考えもしなかったけど)
 何がわからなくて、どこでどうつまずいているか。苦手だった人なら、わからない人が何故わからないのか、そのツボがわかる。だから教えるのに向くという理屈は、わからないでもない気がした。
(ええとこの学校なんか入って、んでもってその学校の勉強についてって……)
 そんな今の自分の学力を昔の自分が知ったら、それなりに驚くだろうか。
(ま、稼ぎにはちょうどいいわけだ。ありがたくやらせてもらうとするか)
 そうなれば気になるのは、一体どの教科について教えるかだ。
 どうせ小学校レベルなら、どの教科でも構いはしないが、人によって苦手は違う。国語が駄目な人もいれば、算数が駄目な人もいる。一口に勉強が苦手といっても、タイプに違いがあるような気もするが、そんなことは子供に会ってから決めればいい。
(ってか、あの依頼書って、小学校としか書いてなかったけどさ。一体いくつよ)
 うんと小さい子なのか、それとも五年生や六年生か。
 高学年か低学年かによって、対応はだいぶ変わってくるわけだが、少なくとも子供の相手は弟で慣れている。
 クロエが考えているのは、およそそんなところであった。
 何の教科を教えて欲しいのか、何歳の子供なのか。
 細かなところは抜けていたので、会ってみるまでわからない部分について思いを馳せ、行き着く結論はこうである。
(会わなきゃ、しゃーない)
 会って詳しく聞かない限り、考えたところで仕方がない。
 何をどう教えればいいのかは、その時になって決めればいいことだ。

 とある家のドアをノックする。

 依頼書にあった住所で間違いない、例の子供がいるはずの家に時間通りにやって来て、まずは大人が出て来ることを想像した。子供の家庭教師など募集するのは、子供の勉強嫌いや苦手に頭を悩ませ、どうにかしようと試みる親だろうかと、クロエは思っていたわけだった。
 それだけに、予想を裏切る展開にはぎょっとした。

「すみません。うちの親は急用で、俺一人で……」

 実際に出て来たのが子供というだけなら、それほどの驚きにはならなかっただろう。
 だが、ドアが開くと同時に目が合って、それと同時に引き攣りながら固まったのは、何もクロエだけではない。男の子の方も驚きながら硬直しきり、沈黙の時間が一体何秒続いてのことだったか。
「お前! あの時の!」
 男の子は思いっきり人を指差し、声を高らかにしていた。
「ちょっ、どゆこと? え? あんの? こんなこと」
 お互いに指を差し合っていた。
 二人は以前、会ったことがある。
 たった一度きり、お互い名前も知らずに終わった関係だが、その時の出来事が出来事だけに、記憶には強烈に焼き付いている。
 何も知らずに受けた依頼で、見覚えのある顔が出て来るだけでも意外だというのに、よりにもよってあの時の子供である。
(は? マジないんだけど? え、これって、どういう展開?)
 クロエの脳裏に蘇るのは、あの時の出来事だった。
 決してまともな出会いとは言えない。
 いや、そもそも、ああいうものを出会いなどと言うものだろうか。
 あれは聖学祭の最中、たまたま現場を見かけてのことだった。

     *

 セクハラ現場を見かけたので、見てしまった以上は見過ごすわけにもいかず、止めに入ったところ男の子の方は逃げ出した。
 言葉にすれば、実に簡潔な内容にまとまるが、実際には嫌がらせを受けた女の子は泣き出す寸前だった。こんな風に傷つけて、相手の気持ちも考えられない子供に対する憤りも湧いていた。
 追いかけて、掴まえて注意するべきだったのか、後々になって悩みもしたが、まさか再び顔を見ることになるとは思わなかった。
 この子は十歳かそのくらいだろうか。
 そんな小さな少年が同い年であろう少女に詰め寄って、いやらしい言葉をかけながら、体を触ろうとまでしてた状況には戦慄したものだ。どこぞのセクハラオヤジや成人以上の不審者が取る行動そのままのイメージで、幼い男の子がそんな真似をしているのは、まさしく見るに堪えなかった。
 思い出すだけで肌がぞわぞわするような、虫唾の走る思い出として残った一方で、女の子の方には猛烈な感謝をされた。
 それにしても、こんなことがあるのだろうか。
(ちょっと、ありえんくね? どゆこと?)
 クロエの脳裏には、未だそんな疑問符ばかりが、沸騰の泡のように湧いては消えを繰り返す。
 しかし、少年の方はしだいしだいに、驚きに染まった顔を嫌らしい笑みに変え、唇を吊り上げつつあった。
「へえ? 姉ちゃんが勉強教えてくれんの?」
「いや、まあ? そうなるんだけど」
「じゃあさ、とにかく上がってよ。姉ちゃんってさ、テレサ女学院でしょ? 俺、勉強していい学校行けって言われてるから、頭良さそうな学校の人が来てくれて嬉しいよ」
「そりゃね。そう言って頂けるのはヒジョーにありがたいんだけどね? アンタってあん時さ、逃げたじゃん?」
「あー……ん……?」
 適当に首を傾げ、よくわからない謎の声を発して誤魔化そうとしている。
 もしや、何事もないように振る舞うことで、さも何もなかったようにして、お互いに初めて会うフリをしながら過ごすつもりだったのか。さすがの気まずさを思えば、そういう手もあるのだろうが、数日限りのバイトとはいえ、今の自分は家庭教師だ。
(ってことは? ほら、あるっぽくない? 子供を教え導く責任、的なやつ。別にうちは親でも教師でもないけど、ね。なんていうか、アレは注意しなきゃダメくないかな)
 セクハラについて思えば思うほど、何かそういう気がしてくる。
 クロエが目撃した現場では、それ以上のことに発展する前だったが、もし誰も止めに入ることがなかったら、あれ以上の行為をしていたのか。こんな歳の子が強姦を働いた可能性についてなど、それこそ考えたくはないのだが、やったことへの注意はいるはずだ。
「まー。そうだね。とりあえず、あげてくんない?」
 一度部屋まで入ってしまえば、少年もさすがに逃げられまい。
「あ、うん。じゃあ、どうぞ……」
 急に腰が引け気味に、しどろもどろにクロエのことを玄関に上げ始める。そのまま部屋まで案内してもらった矢先、クロエはセクハラについての追及を開始した。
「で、なんだけどさ。あんまし言いたくないけど、聖学祭の時? いたよね。うちの学校」
 床に膝を下ろして座り込むと、その真正面に腰を落とした少年は、そのまましゅんと顔を下げ、肩を縮めて萎縮を始める。
(なんか説教? やば、なんでうちがこんな? いやでも、あれは言わなきゃダメなやつだし、やるしかない系?)
 気を引き締め、クロエは改めて口を開いた。
「まー、ほら。あの子だって、あんまり思い出したくないと思うし? 今から会いに行ってさ、頭を下げろとまでは言わないっていうか。けど、だからって反省無しとか、お咎め無しってのはマジでないから。なんかの罰とでも思ってさ、代わりにうちにあやまんな?」
 被害者ではないクロエが謝罪を受けても、あの時の少女の傷が癒えるわけではない。嫌な目に遭った時、それを癒やすのや時間や周りの慰めくらいだ。
 ただただ、お咎め無しにはさせられない。
 クロエが謝罪を要求するのは、ひたすらそのためのことだった。
「ほら、そしたら? いちおー家庭教師として来てるわけだし、ちゃんと勉強でもしよっか。だから、その前に先にあやまんなよ」
 厳重注意で済ませるのは甘いだろうか、両親にも教えるべきか。そういったことが頭の中をぐるぐると駆け巡るが、かといって小さな子供相手に厳しすぎることはやりにくい。
 やがて、少年は今まで床ばかりを見ていた顔を盛り上げる。
(……は?)
 その表情を見て、まずきょとんとした。
 てっきり、謝る気になったのかと思いきや、そんな気配もなくニヤっと、先ほどのような楽しい悪戯でも思いついた顔をしていた。

「でもねーちゃんだって、ルール破ってない?」

 謝るどころか、そんなことを言い出すのだ。
「はい? どゆこと? 自分があーいうことしたんじゃん? わかってる?」
「だからさー。人のこと言えるのかって話だよ。テレ女ってバイト禁止じゃなかったっけ?」
「あ……」
 迂闊だった。
 まさか、この少年がそんな校則を知っていたとは。
「学校にチクったら、退学とかなんの? 停学? それとも謹慎ってやつ? あと、入ってる部活とか、そういうのってどうなんのかな?」
 好奇心たっぷりに、まるで知らないことを知ってみたいかのように、無邪気になりきった笑顔でしきりに疑問をぶつけてくる。
「は? なに? 脅迫ってやつ? マジでありえなくない?」
 自分が悪いにも関わらず脅迫で返して来る。
 一〇歳かそこらのくせに、恐ろしいことをしてくる神経にも驚くが、逆に自分が脅されている状況に冷や汗が浮かんで来る。
 学校にバラされては正直困る。
 稼いだ金で弟達に……。
 その思いが潰えることもそうだなのだが、万が一にも退学処分になってしまえば、せっかく学校を勧めてくれた母にも申し訳が立たない。
「ねえねえ、どうすんの? 俺、マジでチクっちゃおっかなー」
「いやちょっと、ホントにこまンだけど」
「だったらさ、お互いに細かいことは忘れて、早く勉強教えてよ」
(このガキ……)
 ここで折れていいのだろうか。
 一度脅迫に成功して、成功体験を得た子供は、一体どんな風に育ってしまうか。セクハラも合わせて考えるに、まるで良い予感がしない。
(だよね。やっぱ、ここは強気に――)
 そう思った時である。
「わかったわかった。ごめんなさい……これでいい?」
 あまり謝っている態度には見えなかったが、少年は唐突に頭を下げきた。
「いや、まあ? 反省すんなら、許しておくけどさ」
 何か納得のいかない部分はある。
 脅し返してきたのは事実で、頭こそ下げてはいるが、謝り方もヘラヘラしていて反省の色が見受けられない。腹の底では人をウザったく思っているだろうと、そう感じられなくもなかったが、ともかく謝った以上は良しとしよう。
(あんまし追求しても、また脅し返してくるかもだし)
 そういう抵抗感もあり、クロエはこれで納得しておこうと決める。
「じゃあ、さっそくなんだけどさ。保健体育、教えてくれる?」
「はい?」
 まず真っ先に挙がる教科に、クロエは露骨に顔を顰めていた。



 
 
 

コメント一覧

    コメント投稿

    CAPTCHA