樋口円香は撮影について知っていた。
バイト先の先輩から撮影練習のモデルを引き受け、どうしようかと悩んだ話は、親友として当然のように聞かされている。二人きりになるのか、場所はどうするのか。円香としては警戒したが、透が最終的に出した結論は、この機会にトラウマと向き合ってみたいというものだった。
暗い影を延々と心に引きずり続けるより、どこかで綺麗に吹っ切ることができたなら、それに越したことはない。円香もその考えを尊重しようと決め、しかし安全を考え一緒にモデルを受けようかとも考えた。
二人一緒の方が、問題が起きる可能性が低いように思ったのだ。
もっとも、バイトや授業の予定など、もろもろの調整を合わせきれず、結局は透一人で行かせることになったのだが。
それでも、場所だけは聞き出していた。
それに撮影後の透とバイト後の円香で、待ち合わせの予定も作っていた。その時間にいつまでも姿を見せなかったり、連絡が途絶えようものなら、心配にもなってくるわけだ。
遅れるとの連絡もなく、待ち合わせの時間を過ぎても透は来ない。
そして、電話をしても繋がらない。
この時点で、こちらから迎えに行こうという考えに至っていた。円香も円香で、トラウマをきっかけに考え過ぎたり、警戒しすぎたりするきらいにあり、だから本当はモデル自体を止めようとも考えていた。
いいや、考え過ぎだ。警戒が過剰だ――と、過敏になっていればこそ、かえってそんな自分を戒めて、自ら危機管理を締め付けていた部分もある。
その結果として、結局は止めることをやめた。
意思を尊重しようと決めた。
だが、待ち合わせに姿を見せない状況は、戒めや締め付けを破り、何かあってはまずいと思う危機感を膨らませていた。
嫌な予感がしたのだ。
妙に噴き出る焦燥感に背中を押され、早足でビルに向かった先の円香は、結果として暴行現場に居合わせる形となったのだ。
心が冷え切っていた。
ああ、そう……また……。
あの四人から受けた被害で十分なのに、またしても性被害の機会が巡ってくるとは、自分達にはそういう不幸を引き寄せる体質でもあるのだろうか。
女の子を押し倒し、力ずくで迫っている姿には、氷のように冷え切ったものが湧き、ひどく冷たい目で見下していた。
「警察、呼びますよ」
当然の言葉を口にした時、逆上の眼差しを浮かべたその男は、今にも飛びかかって来るような勢いで激しく振り向く。
ところが、急に目が覚めでもしたのか。
すっと、その全身から力が抜けていた。
「邪魔です。どいて下さい」
円香の一言に、男はすっと引き下がる。
跨がっていた胴から降りて、男の身体がどいた時、そこにあるのは無惨な姿だった。ブラウスのボタンが弾け飛び、スカートも途中まで脱がされた様子から、ここに円香が来なければ、一体どうなっていたのかは想像に難くない。
思わず、奥歯を噛み締めていた。
(最低……)
憤りと共に男を睨む。
「樋口!」
透が抱きついてきた。
着衣を整えることも忘れて、泣きながら胸に顔を埋めてくる透のことを、円香は強く優しく抱き締める。もう二度とこんな目には遭わせたくない気持ちを込めて、抱き締める腕に腕力を込めていきつつ、その髪を優しげに撫でていた。
(あとで、警察にも行かないと……)
もっとも、すると話さなくてはいけないのは透である。
何故、どうして、どんな状況で迫られたのか。警察への説明をこなせるのか、そんなことを強いていいのか。その心配がよぎればこそ、性犯罪の理不尽さにますます憤りが膨らんだ。
迂闊に二人きりになる方が悪い、と。
人の落ち度をつついてくる輩の存在など、簡単に想像できる。
思い出したり、詳しく説明するのも辛い。
つまるところ、訴えにくい。
きちんと制裁を下すべき相手に、制裁を下しにくい。その理不尽な構造を思うとやりきれない。憤りは膨らむ一方で、一体どう収まりをつければいいかもわからずに、今の円香にはただ優しく抱き留めるくらいのことしか思いつかなかった。
「とりあえず、ここを出よう」
「……うん」
透はようやく着衣を整え、しかしブラウスはボタンが取れている。元の衣服に手を伸ばし、それを抱きかかえることで胸は隠して、二人一緒に部屋を出た。
なんで、また……。
その思いは、円香の中でひどく膨張していた。
心の中に膨らむ風船が、心を内側から押し広げるような勢いで、歯軋りをしながら思いを強く抱えていた。
どうして、また。
なんで、こうも――。
性被害にわざわざ遭いたい人はいない。
既に一度は遭ってしまった円香にとって、せめてあの一回きりで十分で、この人生に二度と似たような機会はないで欲しいと、実に切実な願いを抱いていた。
だが、これだ。
今回は透一人だったにせよ、しかし気持ちは激しく噴き出た。
なんで二度も。
どうして、なんでまた……。
頭の中で渦巻く語彙が代わり映えするでもなく、ただ感情だけが渦巻き続ける。
あの時の四人からは、散々な痴漢や盗撮。
そして、今回は強姦未遂。
より悪化した被害など、冗談にもなりはしない。
もはや、この世の運命そのものを非難したくなる。
廊下の出口にあるドアノブを掴んだ時、必要以上の力が籠もった。握り潰せるわけなどないが、そうせんばかりの力が籠もっていた。
ドアを開け、その向こうへ出る。
とにかく、今は透を着替えさせなければ、だけどあんな強姦魔のいるビル内では着替えなどやりにくいと思いながら、廊下の外へ一歩踏み出た。
その瞬間だった。
「え……」
「なに、ここ……」
まず、状況についていけなかった。
理解が追いつかなかった。
自分達はビルの屋内にいて、部屋を出てすぐの廊下を歩いていたはず。階段に繋がるドアを開いて、二階から下へ降りようとしたはずで、それがどうしてこうなるのか、まったく意味がわからなかった。
二人は洞窟の前にいた。
何故、どうして自分達がここにいるのか、まるで理解が追いつかない。
とにかく、目の前には岩壁に空いた洞窟がある。
この壁が左右どんな距離まで続いているかは不明だが、見上げれば頂上が見えないほどに高かった。ゴツゴツと荒っぽい凹凸に満ちて、鋭利な箇所も随分多い。この壁を避け、迂回して向こう側に行こうとしても、きっと延々と壁沿いに進み続けることになりそうだ。
振り向けば、後ろは森林だった。
樹木や草が生え固まって、密度の高い隙間には闇しか見えない。入っていけば、天からの木漏れ日で多少は光があるのだろうが、整備も何もされていそうにない、虫も多そうな密林など、進んで入りたいものではない。
「ねえ、浅倉。これってさ、何?」
思っていることをそのまま口にしてみれば、出て来る言葉は『何?』の一語だけだった。
だが、本当にそれが全てだ。
「わかんない。何?」
ついさっきまで、数秒前までビルの中にいたはずの、そもそも都会を出てすらいない自分達が、こんな場所に立っていることの意味がわからない。
こうなると、さっきまで夢を見ていて、目が覚めた今この瞬間、パっと現実に戻ってきたのかとさえ思えてくる。しかし、どう思い出そうとしてみても、こんな場所を訪れた記憶はない。
「なんか、さっぱりだね。本当に、どうなってんだか……」
ひとまず、そんな言葉しか出て来ない。
自分達はどうやってここに来ていて、どうやって帰ればいいのか。時間が経てば経つほど、心配するべきことは数多く出て来るだろうが、今はひとまず、呆気に取られた気持ちをどうにか搾り出した結果の言葉しか出て来ない。
「あー……。なんか、映画であったじゃん。タンスの向こう側が雪国になってて、魔女と戦うやつ」
透の言葉に、児童文学を原作とした海外映画の存在を思い出す。
「なるほどね。いや、ちっともなるほどじゃないんだけど」
そんな異世界転移のような現象が存在しては、どうやって家に帰ればいいのか、まるで検討がつかなくなる。
せめて、ここが日本のどこかの土地であって欲しい。
「圏外か」
スマートフォンを見てみるが、電波は繋がりそうにない。
「定番だね」
そんなことを言いながら、透も同じく画面を見ていた。
「言ってる場合じゃなくない?」
「そうだけど、なんかお決まりな気がして」
「っていうか、なんで服まで……」
今更だが、円香は自分や透の服装に気づく。
二人してノースリーブのシャツを着て、お揃いのスカートを穿いている。服装さえもが、スイッチ一つで切り替えでもしたかのように、いつの間に変化していて、そのせいか今頃になるまで気づかなかった。
「本当に……なんで……」
円香は徐々に表情を歪め始める。
何か、妙なことが起きている。
普通では説明がつかない、不可思議な現象にでも遭ったのでなければ、自分達がこんな場所にいる理由がわからない。そして、そうなると透の思い出した映画の内容も、だんだん笑えなくなってくる。
「なんか、気持ち悪いね」
お互いの服くらい、知っている。
知らないうちに服を替えられていたのもそうだが、透の着ている服も、円香の服も、どちらもそれぞれの所持品である。
ただ、スカートだけは違う。
二人してスカートに抵抗感を抱き、持っているのはロングだけだ。丈の長さが膝の下にまで及ぶものでなければ、とてもでないが落ち着かない。スカートだけは、どこから用意されたどのブランドのものなのか、さっぱりなのだった。
「嫌だね。なんか、モンスターとか……」
透は自分のシャツをつまんでみて、透と似たようなことを考えながら、もっと別の想像さえも膨らませているらしい。
「ちょっと、困るんだけど……クマとかイノシシだって倒せっこないのに……」
異世界にやって来て、モンスターと遭遇する。
絵空事の極みだが、わけもわからず、気づけば見知らぬ土地に立たされていた状況では笑えない。少なくとも、クマが出る可能性は現実的なものに思える。
「どうする? 樋口」
「いや、そりゃ色々と、どうにかしたいんだけど……」
ここから動くべきか、大人しくしているべきかの判断もつかない。下手に動いて迷子は嫌だが、それを言うなら既に自分の居場所がわからない。
この際、自分達がここにいる理由はどうでもいい。
せめて知りたいのは、ここが日本なのかどうか。
国内でさえあれば、どんなに時間がかかっても、どうにか家まで帰る余地がある。
「とりあえずさ、浅倉」
円香は岩壁へ向かって行く。
「壁沿い、歩いてみない?」
それが円香の判断だった。
森に入ったら、それこそ迷いやすい。そこにある洞窟を起点として、自分がどこからどこまで移動したのか。それをもっとも把握しやすいのは、延々と続く岩壁の壁沿いを歩くことだろう。
「そうだね」
「疲れたら適当に休んで、スマホが繋がったらアプリで居場所がわかるから、それまで歩こう」
「おー」
ふと、透の顔を見る。
泣きじゃくったばかりの顔は、まだ目の周りが赤らみ腫れてはいるが、見知らぬ土地へワープでもしてしまった体験は、さすがに衝撃が強いらしい。強姦未遂に遭った手前、まだまだ動揺が続いていてもおかしくないのに、未知の状況がかえってそれを吹き飛ばしたようだ。
もっとも、過去が書き換わったわけでも、記憶が消えたわけでもない。
いつぶり返し、トラウマで恐怖するかもわからない。
それは円香自身、何度も味わってきたことだ。
「おっと、移動する必要はないんですな。これが」
ぎょっとした。
「……っ!」
「っ!?」
二人して、ひどく目を丸めていた。
てっきり自分達しかいないと思っていたこの場所で、自分達以外の人間の声が聞こえてきたのは、たったそれだけで衝撃だ。
声の聞こえた方向へと、揃って勢いよく顔を向ける。
洞窟の中からだ。
そこから、誰か男の声が聞こえてきた。
光の届かない暗闇の奥から一歩ずつ、徐々にこちらへ近づく人影は、徐々に黒い輪郭を現していく。手前に来れば来るほど、陽光が少しでも及んだ領域に迫って来て、ついにはその姿を現していた。
先ほどの男であった。
透のバイト先で働く先輩だという彼は、円香にとって二度や三度しか見たことのない、大した面識のない相手だ。それも透の働く様子を覗くため、何度か店に入ってみての、客としての来訪である。
店員の顔などわざわざ記憶しておらず、向こうも数いる客の一人など覚えてはいないはず。
強姦未遂の現場に居合わせたことを除けば、初対面も同然の相手だが、どうも先ほどとは別人に思えてならない。
人が他人に化けたり、魔物が人間のフリをするなど、それこそ映画やファンタジーだ。
ありえないはずだとは思っても、先ほどの彼と今の彼とで、どうしても印象が違っていた。
いや、事件を起こす現場を見たのと、そうでない普通の顔を見るのとなら、別人のように思えてもおかしくはないか。大人しかった人間が凶悪事件を起こすとして、事件現場での顔と、いつもの大人しい顔を見比べることができたら、同じ人物とは思えない顔に見えてもいいはずだ。
「……誰?」
しかし、当の透がそんなことを言っている。
同じ現場で働く先輩後輩として、円香に比べて遥かに彼を知っているはずの透が、まるで初対面の男を見るような顔をしている。
「いやぁ、忘れちゃったかなぁ? でも、この顔じゃわかんないよねぇ?」
忘れる? この顔?
彼の言っていることがわからない。
さも過去に会ったことのあるような言い回しに、言い知れない不安と戦慄が吹き荒れるが、それでもまだピンと来ない。
しかし、その喋り方や表情を見ているうちに、とある一人の人物を連想した。
「でもね。まあ、すぐに思い出すと思うんだ」
違う、違う、違う。
そんなはずはない。
目の前にいる彼は二十歳前後の外見で、いくらなんでも年齢が合っていない。歳はおろか、体格も顔立ちも、何も一致しているものがない。無理にでも共通点を挙げるなら、どちらも性犯罪を犯した最低の人間ということだけだ。
「さぁて、それじゃあ本当の顔を見せてあげちゃおっかなぁ?」
彼の顔面がぶくぶくと膨れ上がった。まるで皮膚そのものが沸騰したお湯の表面であるかのように、泡立たんばかりに膨張する。膨らむあまりに骨格が原形を留めずに、肉を破裂させるのかと思った時、今度は逆に収縮していく。
みるみるうちに顔立ちが変わっていた。
文字通りの意味で泡立って、おぞましい変形を伴う造形の変化は、粘度のように顔立ちを捏ね変えるためのものだとわかった。
映像技術を駆使しての、スマホでの作品視聴や映画のスクリーンを介してなら驚かない。架空の世界では本物の恐竜が現代に蘇り、宇宙人が地球征服にやって来て、果ては怪獣同士が戦い始める。CGやメイクの進歩という意味でも、もはや驚愕すべきものではない。
だが、画面を介することなく、それが目の前にあったらどうだろう。
本物の怪物、本物の怪獣、そういったものを肉眼で、作り物の映像であると断ずる余地もなく、現実の出来事として前にしてしまったら、一体どれほどの衝撃になるだろうか。
「うそ……」
円香は呆気に取られていた。
「…………」
透も言葉はないが、視線がそこに釘付けとなり、汗を噴き出しながらまばたきも忘れていた。
やがて、そこには愛野が立っていた。
顔どころか手足や胴体までも泡立たせ、泡状に膨張させ、服の内側を激しく変形させていく果て、それらおぞましい変化が全て済まされた頃には、忘れもしない人物がそこに立ってニヤニヤと笑っていた。
ぞわぁぁ……!
もはや、その笑顔を見ただけで、体中に寒気が走る。
細胞という細胞の数々が悲鳴を上げ、全身で毛穴が広がっていく。頭のてっぺんから爪先まで、まんべんなく鳥肌が立った上、急に周囲の温度が下がったような涼しさで、思わず我が身を抱き締めていた。
「どういう……こと……?」
やっとの思いで、円香はたったそれだけの言葉を口にしていた。
「いやぁ! 君達が引退しちゃったのは知っていたけど、我々としては二人の魅力が忘れられなくってさぁ! また一緒に遊んでみたいって思って、まずは透ちゃんの方に接近したんだけど、ちょっとはしゃぎすぎちゃったかなぁ?」
ごめんごめんと、冗談めかした謝り方で、ヘラヘラと笑いながらポーズだけで悪びれている。後頭部を掻きながら、何の反省の色も見せずに、口先だけの驚くほど中身のない謝罪をしてくる。
「いや! すまんね!」
もっと別の意味で、信じられない気持ちが湧いていた。
見知らぬ土地に転移して、どうしていいかわからず途方に暮れかけていたことも、たった今目の当たりにしたおぞましい変身も、何もかもが一瞬にしてどうでもよくなっていた。
「ありえない…………」
円香は本当に、心の底から呆然としていた。
あの男の正体が、愛野?
もちろん、その衝撃もあるにはあるが、もっとそれ以上に信じられないのは、強姦未遂を働いた直後の態度がこれだというものだった。
あんなことをして、その謝り方がこれだというのか。
もはや、同じ人間を見ている気がしない。
いや……。
円香の脳裏に、今の今までの全ての出来事が駆け巡る。
この場所への転移、急に着ている衣服が変わったこと、恐ろしい変形によって顔立ちが変わったこと――。
それらを繋げた先にある結論は一つ。
目の前にいる人物は、本当に人間ではないのだ。
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