目次 次の話




「大丈夫よ」
 泣きながら謝る後輩の肩を叩いて、志波姫唯華は優しく笑う。
「私にとってフレ女の皆は家族と一緒。必ず守ってあげるから」
 先輩の励ましに、後輩はたまらず胸に飛び込んでいた。
 そんな後輩を抱き返し、唯華は慈しむように頭を撫でる。親が子を可愛がってやまないような、聖母のような慈悲の心で、彼女を包み込んでいた。
 聞けば万引きをしたという。
 自分でも、どうしてそんなことをしたのかわからない。魔が差したとしか言いようがなく、ふっと湧いて出て来た衝動に駆られて物を盗り、店を出ようとしたところで店員に手首を掴まれたと語っていた。
 偶然にも居合わせた副顧問のおかげで、どうにか取り成してもらえたが、問題は決してそれだけでは終わらない。
 きっと退部や停学処分といった処遇が待っている。
 判決を恐れて震えていた後輩の様子を察し、密かに呼び出しを行ったのが、先輩の志波姫唯華というわけだった。
 何かあるなら相談に乗る。聞かせて欲しい。
 そう告げた唯華に対して、後輩は一連の出来事を打ち明けた。
 そして、唯華は行動に出た。
 後輩がいかに反省して、心を改めようとしているか。
 そのことを訴えかけ、どうにか退部は無しにしてもらおうと考えたが、しかし唯華の前に待ち受けるのは、もっとそれ以上の問題だった。

 副顧問は後輩が万引きを行う瞬間を撮影していた。

 脅迫材料を見せつけられ、それが脅しに使われた時……。
 唯華は最悪の要求を想定して、警戒しきった顔で身構えるのだった。

     *

 今日の唯華は呼び出しを受けている。
 部活を終え、ユニフォームが汗を吸い込んだままの身で、唯華は練習場を離れて呼び出し先へ向かって行く。
 もちろん、あの件についてだ。
 唯華が頭を下げた際、副顧問はこれみよがしにスマートフォンを取り出して、後輩が万引きを行う決定的な瞬間を見せつけてきた。
「ひとまずは保留にして、後日じっくりと話し合おう」
 ねっとりとした視線を唯華に向け、肢体を品定めしてきた時の、肌中が泡立つ怖気は忘れられない。
 その上で唯華だけを呼び出して、個室の中で二人きりになろうとする。
(警戒した方がよさそう)
 唯華の脳裏には様々な可能性が並んでいた。
 そのうちの一つは、単に後輩の処遇について話し合うケースだ。唯華から見た反省の具合を聞き出し、それを材料に最終的な判断を下す。デリケートな話なので、万引きについて知らない他の部員や生徒は話し合いに加えない。
 この第一の可能性なら、相手は教師としての務めを果たそうとしているだけであり、唯華の抱く警戒心は杞憂に終わることになる。
 第二の可能性として浮かんだのは、既に処遇は決まっていて、本人に伝えるよりもまず先に、主将の唯華に退部や停学などの判決を伝え、クッションを挟もうとするものだ。生徒の気持ちを考えて、周りの人間にケアを求めるパターンもありえる話だ。
 第三の可能性、今回は厳重注意で済ませるが、主将である君はくれぐれも部員の様子を見ておくようにと、むしろ唯華に対して説教が始まるパターン――これもありえる。
 いずれも、相手が真っ当な教師であることが前提で、ここまでのケースでは脅迫材料を使った脅しの可能性は想定していない。
(パターン一、パターン二、パターン三。普通はこのどれかに収まるはず。そうあって欲しいところだけど……)
 ここからの可能性が問題だ。

 黙っておいてやる代わりに、唯華に対して『見返り』を求めてくる可能性――。

 これが一番困る。
 考えたくはないが、教師が生徒に手を出したニュースをこの人生でいくつか見聞きしている。この確率をゼロとするわけにはいかない。
 もちろん、明確な脅迫がされた場合、録音でもして然るべき証拠を作り出せば、向こうも言い逃れはできなくなる。
 だが、告発に踏み切るためには、自分がどういう脅迫を受けたのか、それを明らかにする必要がある。当然、後輩の万引きについても言及しなくてはいけなくなり、下手に話題が広まればニュースにもなるだろう。
 いや、ニュースまでいかずども、ネットの小さな記事くらいにはなるだろうか。
 フレゼリシア女子短大附属高校の不祥事という格好のネタは、きっと食いつきたがる記者の一人や二人はいるはずだ。
 できれば穏便に済ませたい。
(相手がどういうつもりでいるか、見極めないと)
 観察眼で相手の目つきや声色を伺い、危険な香りを感じたら、どうにか躱してみせる必要がある。願わくば、そもそも全てが杞憂であり、パターン一から三のどれかで済んで欲しいと、唯華は心から祈っていた。
 副顧問が待ち受ける戸をノックして、返事に応じて入室する。
「やあ、待っていたよ。志波姫さん」
 ベンチ型のソファに座り、いかにも品定めしている目つきを見た瞬間、やはりそういう展開と向き合うのだと、唯華は覚悟を決めて正面に腰を下ろした。
 今までこんな形での対峙はしたことがない。
 勝敗のかかったトーナメントに対する度胸はあっても、きっと脅迫をしてくるであろう大人の男性を相手にするなど、そんな経験があろうはずはない。
「お呼び出しの件は、もちろんアレですよね」
「もちろんだよ。万引きといっても、立派な窃盗罪だからね」
「わかっています。犯罪は犯罪ですが、だからこそ自分のやってしまったことに動揺して、あの子は今でも反省しています」
「処分も怖がってもいる」
「ええ、かと思います」
「君の心からの訴えで、あの子がどれほど深く反省したかは伝わってきた。まあ、元からお店の方には頭を下げて許してもらっているわけだし、このまま何もなかったことにして、穏便に終わらせるのが一番という気はするね」
「下手に話題が広まれば、嗅ぎつけた記者がネタをつつきにやってくる。なんてこともあるでしょうし」
 唯華としては、この話題をあまり掘り下げすぎるべきではないと、言外ながらに釘を刺し、くれぐれも下手な行動は取らないように牽制をかけたつもりである。この牽制に理想通りの効果が出れば、唯華が抱く警戒心も杞憂に終わる。
「確かに、それは誰も望まないね。僕も、君も、他の教員のみんなもね」
「急に重い処罰を与えても、あの子は一体何をしたんだろうって、クラスで噂が広まることも考えられます。ここは反省文でも書かせて、本来なら退部や退学もありえたことを強く言って聞かせるに留めるというのはどうでしょう」
 一歩踏み込み、唯華の方から処遇について提案した。
(こういう話し合いの組み立ては、感覚が違って当然か……)
 スポーツにおける駆け引きは、いかに相手の苦手なコースに打ち込んで、得意なことはやらせないかだ。ラケットを握った立ち回りと、言葉を使ったやり取りでは、そもそものフィールドからして異なっている。
 だが、目的ははっきりしている。
 脅迫ネタを使った脅しで、あらぬことを目論んでいるように見えるため、それを牽制して何事もなくやり過ごす。
 目的さえ決まっていれば、バドミントンでも考えながらのプレーが得意な唯華である。どんな言葉を使って牽制し、どのように躱しきればいいの頭は回る。
(いざとなったら、録音もしているけど)
 と、唯華は持ち込んだバッグを意識する。
 起動中のスマートフォンを忍ばせて、録音状態にしてあるのだ。話題が広まることは避けたいながらも、もしも明確な脅迫があった場合、証拠を握ること自体に損はない。
 だが、相手が何も匂わせていないのに、強すぎるカードを切るわけにはいかない。録音など失礼じゃないか、君は教師を疑うのか。そんな逆上をさせるきっかけにもなり得るだろう。録音の事実はギリギリまで伏せておき、必要になるまで明かさずにおくつもりだ。
 そもそも、こうした警戒自体、妄想、考えすぎ、自意識過剰で済んでくれれば、それに越したことはない。
「志波姫さん。君の言う通りの処分で済ませるのも、もちろん良いと思っている」
「では……」
「しかし、だ。一方で犯罪は犯罪、然るべき処分は行うべきではないか? という迷いはどうしても消えなくてね。やはり退部にすべきでは、という気持ちが完全に消えたわけではないんだよ」」
 副顧問はおもむろにスマートフォンを取り出して、店で撮影したという万引きの映像を改めて突きつけてきた。
 確かに商品を手に取って、バッグにしまいこんでいる。
 窃盗罪の立派な証拠だ。
「ですが、将来に傷がつく可能性もありますよね」
「だから迷っている。犯罪は犯罪、とはいえ未来ある子供でもある」
「それこそ、私の提案が落としどころになると思うのですが」
「それを迷っているんだ。志波姫さんの考えた通りにしてみるか、それともやはり警察へ持って行き、きちんと罪と向き合ってもらうか」
 強行しようとする気配を感じて、唯華は慌てた。
「待って下さい! ですから、彼女は本当に反省していて……」
「主将から見たあの子の様子はよくわかった。だが、それでも迷いが消えなくてね」
 額に手を当て、悩ましくてたまらないとばかりの仕草を披露する。
 この瞬間、唯華は理解した。
 最終的な決定権は、あくまでも向こうにある。唯華の提案した通りになるかどうかも、副顧問の胸三寸だ。唯華の立場は、どうか許してやって下さいと、お願いするものに過ぎないのだ。
 付け入る隙が出やすいのは、圧倒的に唯華の方だ。
(私が反省を迫る側だったら、私はほら……女同士だから……)
 唯華は副顧問の顔を見る。
 自分がそちらの立場に立って、部員の仲間を虐めることができたなら、それはそれで楽しそうなどという妄想が、こんな状況なのに浮かんでしまう。
(こんな状況だから、かな)
 自分の抱える焦燥を誤魔化すべく、妄想に逃げそうだった。
 おそらく、狙われている。
 根拠はない。
 目つきが、表情が、そんな風に思えるというだけの理由だ。だからこそ、単なる考えすぎであり、本当は狙われてなどいないのだと、そう思いたくてたまらない気持ちもある。
(もしかして――)
 ふと唯華は思う。
(これを乗り切ったら、あの子にセクハラする権利が私にはあるんじゃ……)
 いやいや、そんなことを考えるような状況じゃない。
 自分が性被害に遭う可能性があるというのに、どうして面白おかしいことが頭に浮かんできてしまうのか。
(とにかく、切り抜けないことには始まらないさ)
 唯華は頭を回転させ、どんな言葉を並べるべきか、これまでの小学や中学、そして高校で身につけた語彙の限りを捻り出し、その総動員を試みていた。



 
 
 

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