佐倉美紀は自分で決めた病院で検査を受け、お尻の診断も済ませるつもりでいた。確かに醜悪な校医から検査を受けなくてはいけない生徒からすれば、美紀の行いはずるいものなのだろう。そんな事も忘れて美紀は当然のように大人の特権を利用していたが、神埼亜由美を叱った手前、今回ばかりは特権を捨てざるを得なかった。
亜由美の前で、美紀自身も校医の前で検査を受けることを宣言してしまったのだ。
もっとも、手続きがある関係でその日のうちにというわけではない。亜由美を叱ったその日の全生徒の検査が終了し、数日を挟んだ後に美紀は『あの校医』のいる病院前で待ち合わせ、亜由美が現れるのを待っていた。
「先生? 私の目の前で検査を受けてもらいますからね」
あれから約束を守る話をつけるおり、亜由美の見る前で……という条件を飲む羽目になっている。でなければどんなインチキがあったものかわからない。約束を守ってくれている姿を見せてくれれば、今後は自分に対してもっと柔らかい態度を取ると誓ってくれた。
あの生意気な亜由美が本当に誓いを守るかなど怪しいが……。
教師として、彼女を指導するにはまず自分から行動で示さなくては――と、美紀はそう自分を納得させていた。
待ち合わせの美紀は腕時計を見ながら通行人の行き来を眺め、道路の遥か向こうを見やる。こちらに向かって歩いて来る通行人の中に少女を見つけ、やがてその子が神埼亜由美であると認識する。
「亜由美さ――」
挨拶に声を出しかけるが、亜由美の周囲にいるぞろぞろとした通行人の顔に気づき、美紀はぎょっとして息を呑んだ。
(淳君? 高志くんに浩二君まで!)
亜由美は仲間を連れてきていた。三人のクラスメイトの男子を引き連れ、家来を従えた女王が悠々と闊歩するかのように、不敵な笑みを浮かべながら美紀の元へとやって来る。
「おはようございます。佐倉先生」
亜由美の澄みわたった綺麗な挨拶。
「おはようッス!」
「おはようございまーす!」
「先生! お尻見せてくれるって本当ですか!?」
男子達は楽しいイベントを前にはしゃぐような気持ちで、亜由美の後ろから身を乗り出すようにして迫ってくる。
「ちょ、ちょっと? お尻を見せるなんて、そんなわけないでしょう? 亜由美さん? これは一体どういうことなの?」
動揺した美紀は緊張に上ずったような頓狂な声で喋ってしまう。
「佐倉先生が生徒のために約束を守って下さる、教育魂に溢れた姿を是非とも他のクラスの子達にも見せてあげたいと思いまして、予定が空いているという彼らを呼んだまでですよ?」
「待ちなさい! 亜由美さん? 私はあなた一人のつもりで約束したのよ? それを男の子を連れてくるなんて、聞いていないわよ」
美紀は懸命に講義する。
「けど、神埼さんには見せる予定だったんスよね?」
淳が軽い調子でニヤっと笑む。
「俺ら、先生のファンなんです」
「先生のお尻見たら今以上に成績上げますから、お願いしますよ」
高志に浩二も、チャラついた若者が絡むような調子でニヤけてくる。
「ありえません! 一体何を考えてるんですか!」
担任が生徒に陰部を見せつけるなど、それこそ教師としてありえない。
「佐倉先生? 先生も勉強が必要ではありませんか? 普段から生徒がどんなに恥ずかしい思いをしているのか。十代の方が羞恥心も強いでしょう? せっかく同じ女性なんですから、先生も生徒の気持ちを体験しましょうよ」
「私だって毎年恥ずかしいんですよ? 歳は関係ありません!」
美紀はあくまで拒否の姿勢を見せるが、男子達も押しの手を緩めない。
「俺ら、一応医者目指してるッスよ?」
「そうですよ。俺達、勉強が必要なんです」
淳と高志が口実を付けてくる。
「大学病院じゃあ、診察の様子を医学生が見学していくのは普通のことですよ? それにだいたい、医者が女の体に欲情してちゃあ、まともな診察になりませんよね? 俺ら、経験を積みたいんです」
浩二も長々とそう語った。
「夢を持つのはいいけど、あなた達はまだ医学生じゃなくて高校生でしょう? 見学だってまだ早いはずです」
突っぱねると、亜由美が割り入る。
「佐倉先生? 確かに最もな意見ではあるけれど、まだ早いからこそ――だと思います。他でもない担任の佐倉美紀のお尻を見ておきながら、それで医科大学の受験に失敗しました。なんてことは許されなくなります。やる気がアップするはずってことです」
「……亜由美さん。そんな理屈で男の子に見せるなんて、それこそありえません」
「チャラついた彼らにやる気を出させるためです。こんな彼らですけど、決して悪い成績ではいのはご存知ですよね?」
確かに男子三人の成績は学年でも最上位だ。表面こそチャラついている上に髪まで茶色く染めており、街で女性をナンパでもするようなチャラ男の雰囲気を醸し出しているものの、中間や期末テストで常に頂点を争っているのは彼ら三人である。一見ふざけて見えるが、隠れた努力をしている根っこの真面目な生徒に違いない。と、美紀は彼らをそう評価していた。
だというのに、今この状況を前に美紀の中では彼ら三人の株価は大暴落だ。
「……男子に見せるわけにはいかないわ」
美紀は粘り強く拒んでみせる。
すると淳が突然豹変し、まるで大きな危機感に切羽詰まりでもしたかのように、美紀の両肩を掴んで迫るように言ってくる。
「お願いッス! 真剣なんです! こんなこと、先生じゃなきゃ頼めません!」
「そ、そんなに頼まれても……」
「俺らチャラついてるかもしれませんけど、こういう態度でも取ってないと真面目君みたいな姿晒すのって恥ずかしいじゃないッスか! ニヤけたりしたのは謝ります。けど、ああいう風に装いでもしなきゃ、医学のためなんて真面目臭い頼み後となんて出来ません!」
「じゅ、淳君……」
自分に向かって熱く迫ってくる淳を相手に、つい心動かされてしまいそうな自分がいた。これほどの熱意を持った生徒なら、やはり何か力になってやるべきだろう。とは思うが、そのためにお尻を見せることになるのを考えると、圧倒的にためらいの気持ちが上回る。
「俺からもお願いします!」
浩二が深く頭を下げる。
「俺からもです!」
高志も続けて頭を下げ、それらに合わせるかのように淳もまた頭を垂れる。自分に向かって三つの頭が下がってきては、ここまで熱意ある頼みとなると断りにくい。しかし、やはりお尻を見せることへの抵抗感の方が強かった。
「そんなに頼まれたって、私は……」
美紀は彼らから顔を背けた。
医者に見せるだけでも恥ずかしいものを亜由美に見せ、その上さらに三人もの男子にまで観察される。そう思うと受け入れられない気持ちが強く、悪い悪いと思いながらも美紀は断る姿勢を保っていた。
「佐倉先生。ここでもう一度確認しますけど、あなたは自分だけ選んだ病院で検査を受けるつもりだったんですよね?」
「そ、それは……」
美紀は亜由美を相手にさえ目を合わせられなくなった。
「大人ってズルいもんですね。大人の特権で生徒に隠れて特をした挙句、目の前にここまで熱い気持ちを持った生徒がいるのに、それに協力さえしない。佐倉先生って何なんですか? 子供が好きで教師になったわけじゃないんですか?」
亜由美は美紀の糾弾を開始する。
「子供が嫌いなわけありません。だから教師を目指すんです」
「その子供の未来のためにも、目の前の将来有望な人間のためにさえもケツ一つ出せない担任だなんて、あなたに私を叱る資格があったのかしら」
「な、何を言うの? 亜由美さん」
「だってそうですよね? 私に言う事を聞かせるための約束はしてくれたのに、子供の将来に関係のある協力はしないってことですよね?」
「違います! ただお尻なんて条件だから……」
「言い訳しないで下さい! 私が三人を連れてきたのは、三人とも確かに今はチャラついてますけど、みんな卒業したら染めた髪は元に戻すって決めてるそうですよ? 真面目君に見られたらダサく思われそうって思ってるから、表面上では振る舞いをしているだけなんです。別に勉強なんてしてない、みたいなことを普段から言っているくらいです」
「そうは言っても――」
美紀は言い訳のように言葉を並べようと口を開きかけていたのだが、しかし亜由美はそれを遮る。
「佐倉先生! これはチャンスでもあるんですよ? 三人の成績で既にどれだけの大学で合格圏に達していることか。自分のクラスの生徒を最高の大学へ送り出せるかもしれないのに、先生は今、自分のチャンスさえ捨てようとしているんですよ?」
「チャンスって、そんな……」
「最高の生徒を送り出せば学校で佐倉先生の株も上がります。私だって、この私が行くに相応しい場所へ進学します。決していやらしい気持ちからではないんですから、見学くらいさせてあげたっていいじゃないですか!」亜由美は熱弁を振るう。「先生が体を張れば、それを無駄にしないように今以上に勉強に励めるはずです。やる気に繋がるんです。決して無意味なことではないんですよ? 佐倉先生の教師としての有り方が試されているのがわかりませんか?」
亜由美までもが熱の篭った瞳を向け、美紀をますます困らせる。
いくらなんでも、やはり教師が生徒にお尻を見せるのは問題ではないのだろうか。
とは思うのだが、何故だか頭によぎってしまう。もしみんなが良い大学に合格し、生徒の喜びに舞い上がる姿を見守れるのだとしたら――そんなみんを卒業式で送り出し、晴れやかな気持ちで新しい一年を迎えられるのだとしたら、それはどんなに素晴らしいことだろうかと。
「先生! お願いします!」
「お願いします!」
「お願いします!」
三人の男子が再び深く頭を下げ、美紀の心を強く押す。
お尻、という問題もあるが……。
とはいえ、生徒の明るい未来を思って体を張って協力する自分、というのも悪くはないような気がしてくる。むしろ美しい。歳を取るにつれて現実に冷めてしまうといったことが人間にはありがちだが、夢を持って教師となった美紀の奥底にはそういう理想が眠っているのだ。
少しでも理想に近いものが手に入るのなら、悪くはない。
彼らの気持ちを汲んで、生意気な亜由美にも教師としての精神を見せつけてやれるのなら、多少の恥ずかしさを堪える価値はあるのではないだろうか。
「誰にも秘密ですよ? それに、もし医学のためっていうその気持ちが嘘だったら、内申にも響きますからね?」
美紀は生徒に背中を向けながら、子供に諭されて決まり悪いような気持ちになりつつも、たどたどしく決意を告げる。
「ありがとうございます! 先生!」
男子三人分の声は一つに重なり、三重になって鼓膜の奥を打ち鳴らした。