第1話 魔術師の脅迫

 マンションに帰宅して、ものの数分後に響き渡るインターフォンに、アルクェイドはため息をつき、そのついでに警戒の眼差しを浮かべていた。
 休もうと思った直後にこれは、いい気がしない。
 それにこのタイミングのインターフォンで思い出すのは、見事と言わざるを得ない素晴らしい不意打ちだ。あの時は反撃する暇もなく、あっと驚いた時には既に体が十七に分割された後だった。
 その時の怒りは、もうとっくに消えている。
 最初は遠野志貴を殺す気でいた。あれほどの屈辱を受けたのは初めてで、復元のために八割以上もの力を消費するという大損害まで背負ったのだ。
 それに痛かった。
 あまりにも痛くて気が触れそうになり、しかし痛いから正気に戻る。その繰り返しを一晩かけて体験した記憶自体は、苦痛と屈辱の思い出として魂にまで刻まれている。
 そこでアルクェイドは殺人行為の責任を問い、吸血鬼退治を手伝わせることにしたのだが、そうして行動を共にするうち、志貴の存在が心から離れなくなっていた。
 少しでも長く共に在りたい。
 では志貴の方は、自分をどう思っているだろう。
 殺す気だったことを思えば、今となってはこんなことを悩んでいるなど、我ながら随分な変わりようだ。あの時の怒りについては、時間が経って頭が冷えた部分もあるが、それにしたって報復で血祭りにする予定はあったのだ。
 帰った直後に鳴るインターフォンは、その当時をまさしく思い出させる。
「あーあ、どうしよっかな」
 居留守を使うのも悪くはない。
 誰が何の用事かは知らないが、セールスや宗教勧誘なら、そのうち去って行くだろう。
 だが、二度目が鳴る。
 もう少し間隔を空け、三度目が鳴る。
 それも無視して数分経ち、さすがに行ったかと思いきや、四回目の音が鳴り響くのだ。
「まったく消えないわね」
 セールスや勧誘にしてはしぶとい。まるで居留守を確信していて、意地でも出て来てもらおうとしているようだ。
 しかも、五回目はノックであった。

 ドン、ドン、ドン、

 と、激しいノックでドア板を揺らしてくる。
 なるほど、居留守を許さない意思の持ち主らしい。
「もーう。さすがにムカついてきたわ」
 こうなったら一言くらい言ってやり、必要なら多少の力を使ってでも脅してやろう。恐怖で萎縮させるくらいの仕返しは、人間の倫理観からしても、そう大きく外れることはないだろう。
 アルクェイドは苛立ち混じりの足を進め、玄関の鍵を開け、ドアノブを握るのだった。
「それにしても、思い出しちゃうなぁ」
 こうしてドアを開けた瞬間、現れたのは殺人鬼だった。あの時の完璧な不意打ちと、同等の不意打ちをまた受けてはたまらないが、油断しなければいいだけだ。
 あの時は力を消費した直後であり、それにまさか自分を狙う殺人鬼がいるなど想像もせず、そんな中で受けた不意打ちだ。いくつかの要素が積み重なって、ようやく成り立った隙を突かれたのだ。
 だが今、当時と同じ展開を想定している。警戒してかかっている以上、二度目はない。
 アルクェイドはドアを開いた。
 しだいしだいに、ゆっくりと隙間を広げ、そこからだんだんと見える眼差しに戦慄した。

 ――ゾクッ、

 人間の基準で言うのなら、恐怖したことになるのだろう。
 だが、有象無象の吸血鬼すら敵ではない、真祖たる彼女が抱くものは恐怖ではない。遥かに格下の存在を真の意味で恐れはしない。
 彼女はただ、危機を察知するためのセンサーを、決して麻痺させていないだけだ。恐怖が恐怖ではなく、ただの純粋な警戒信号としてのみ全身を駆け巡り、アルクェイドは表情を一変させていた。

 隙間から、目がこちらを覗いていたのだ。

 人間社会に疎いアルクェイドでも、それが異常な行動であることには察しがつく。セールスや宅配なら、ドアが開くのをもっと普通に待ち構えているはずだ。
 しかし、そこにいる彼は、ドアにほんの少しでも隙間が生まれることを待ち望み、ただ数センチしかない空白から、こちらを覗き見ていたのだ。
 ドアの影を帯び、暗く染まった半顔の、歓喜を宿しながらに血走った眼差しがアルクェイドを見つめていた。
「あなた……。何?」
 異常さは行動だけではない。
 この男を、ただの不審者や犯罪者として評すべきではない。暴漢が女性の宅に押し入ろうとしただけなら、微量の力を使って恐怖を与え、呼吸のついでに追い返せばいい。
 だが、この男は違う。
 そんな優しい対応で済ませるべき相手ではない。

「はじめまして」

 上擦った声から、嬉々とした感情が伝わってくる。
 そして、男は指を入れてきた。
 未だ数センチしか開いていない隙間に手を差し込み、まるで四匹の芋虫が這い出てたように、端を掴んでいるのだった。
「ご察しの通り、僕は魔術師だ。ただアルクェイド・ブリュンスタッドの魅力に惹かれただけの、どこにでもいる何の変哲もない、名も知れていない、ね――」
 男のギラついた眼差しから、下へと視線を走らせれば、口角が微笑みに吊り上がっている。唇がU字になりかねないほど変形しきった表情のおぞましさ、不気味さを前にすれば、か弱い少女ならたちまち震え、恐怖で後ずさりを始めていることだろう。
「ふーん? 何をしに来たかは知らないけど……」
 アルクェイドは右手に力を溜め込んでいた。
 目的は不明でも、悪意や欲望だけは強く伝わる。思い通りになってやるつもりはなく、ひと思いに殺す気でいた。
 殺すに値するだけの侵害の意思の持ち主であると、彼女の本能は悟っていた。
 アルクェイドは肘を引く。
 そして、次の瞬間には指先による突きを繰り出せば、男の顔は弾けたトマトのように四散して、周囲を血飛沫に濡らすはずだった。砕けた頭蓋骨や髪の破片がべったりとこびりついたら、あとで掃除が面倒などと、アルクェイドは既に考え始めていた。
 しかし、その言葉を聞いた途端に腕は止まり、アルクェイドの右手からは、みるみるうちに力が抜けていくこととなる。

「魂の接続」

 魔術によって行う技法を耳にして、アルクェイドが悟ったものは、人質を取られている事実だ。
 力ある者こそが優位に立ち、どんな理不尽も押し通す。
 本来のパワーバランスは、アルクェイドにこそ大きく傾いているはずだったが、そんな弱点を突かれてはたまらなかった。
 彼はつまり、こう言っている。
 自分を殺せば、志貴も死ぬと。
「僕の魔術の面白いところは、ただ魂を接続して、命の紐を繋ぐことだけじゃないんだ」
 ドアが開かれていく。
 片目と唇の端だけが見えていた隙間から、徐々に双眸があらわとなる。
「僕に危害を加えれば、繋がる先にもダメージが繁栄する。だけじゃなくてね? 術者自身がトリガーを引くことで、術者は死なず、繋がる相手の心臓だけを一方的に潰せるんだ」
 肩幅にまでドアが開けば、その青白い長髪の男は玄関に踏み入っていた。後ろ手にドアを閉ざし、カチャリと鍵のかかる音さえ鳴っていた。
「何が目的よ」
 アルクェイドの眼差しには殺意が宿る。細められた視線の鋭さは、始末するべき獲物に対して、さらに憎しみさえ抱いてのものだった。
「目的? それは無駄な質問だよ。見知らぬ男性が女性の宅に押し入り、果たそうとしている目的なんて、人間のニュースを少しばかり見ていれば、簡単に想像がつくはずだよね」
「へえ、そんなことのために高等魔術を使ったってわけ」
「そんなこと、というのは欲望に格付けをする価値観が故のものだよ。この欲望は立派、この欲望は品がない。僕はそんな欲望の格なんてどうでもいい。やりたいことがあったらやる。それが世間的には許されないことであってもね」
 男の手が伸びてくる。
 それを躱せば、彼が一体何をしでかすかの想像がつき、だからアルクェイドは動けなかった。くねり動く指先の、芋虫がのたうち回るような五指は、白い服を山なりとした膨らみに絡み、揉み潰した。
「…………」
 アルクェイドは目つきを細め、視線だけを鋭くする。
 男の行使する魔術がアルクェイドを対象としたものなら、どうとでもなったはずである。呪いであろうと、攻撃だろうと、生半可なものはこの身に効かず、男の魔術師としての格そのものは、そう厄介なものではない。
 不完全な今の自分とて、片手で捻ることのできる相手だ。
 だが、遠野志貴は違う。
 あの目を除けば、肉体の屈強さも、身体能力も、普通の人間と変わらない。
 志貴自身には、彼の魔術をはね除ける力はない。
 あるいは志貴が今ここにいて、この男が目の前にいなければ、魂の繋がりのみを断ちきる術をゆっくり探し、さっさと解いてしまえばいい。
 この男がここにいる今、この男に対して繋がりの切断を試みても、彼はその前に志貴に危害を加える。それどころか、この場で無理に断ち切れば、その切断時にデータの送信のように呪いが送られ、ドス黒い力が志貴の肉体を蝕むことになる。
 アルクェイドはそこまで状況を看破して、だからこそ何も出来ずに立ち尽くし、揉まれるままに乳房の変形を許している。
 志貴を見捨てるのなら、この男をどうにかするなど簡単だ。
 だが、出来ない。
 志貴を切り捨てる考えを浮かべた時、すぐさま志貴の顔が頭に浮かび、共に過ごした時間が情景として脳裏を駆け抜け、浮かんだ考えはすぐさま沈んだ。
 志貴を殺させることも、呪いに蝕ませることも出来ない。
「ああ、快感だぁ……」
 恍惚とした顔で、男はもう一方の手を伸ばしてきた。
 どちらの胸も揉みしだかれ、いいようにされていることの屈辱に、アルクェイドは目つきを鋭くした。
「あなた、長生きしないわ」
「もちろん、魂の接続は永遠には維持できない。然るべき末路を迎えることになったら、きっと想像を絶する苦痛が僕を襲うんだろうなぁ」
 それさえも楽しみであるようにヨダレを垂らし、欲望に満ちた大きく見開いた眼差しで、いっそ滑稽なほどに鼻の下を伸ばしきっている。
「承知の上ってわけ」
「死ぬか、逃げ切るか、接続をやり直すか、三択だよね。ああ、だけど逃げ切っても、やり直しても、君の憎しみは長らく僕へ向けられ続けるんだねぇ」
 たとえ憎しみであっても、情さえ向けられていれば嬉しいのか。
「気持ち悪いわね。あなた」
 たった今初めて顔を見た男が、以前から自分に惚れていたようなことを口走る。それに虫唾が走らないなどあり得ない。
 背筋には薄ら寒さを、揉まれる胸には鳥肌を、それぞれ広げていくのだった。