第2話 父を交えて
ケンが戻って来た瞬間だ。
「いって!」
その頭にクロエはゲンコツを落としていた。
これでも加減はしているが、怒りに満ちたこの拳が、どこまで手を抜いてくれていたことか。ケンは痛そうに両手で頭をさすりながら、信じられないものを見る目でクロエのことを見上げていた。
「ね、姉ちゃん!?」
「あんたさ。うちにこれ、使ってたっしょ」
クロエは一枚の紙切れを突きつける。
その魔法陣を見た瞬間、ケンは表情を凍りつかせた。禁呪をかけてなどいないが、悪事の証拠が掴まれた状況だけでも、洗脳効果に期待するまでもなく、心理的な効果な十分のはずだった。
「姉ちゃん……それ……」
「あんたさ。さすがによくないんじゃない?」
「だって……俺……」
「だって何? ええから座れな。自分が何したか、きっちりわかってもらわんとな?」
「いやでも俺……その……」
「まず、座れな?」
「…………はい」
弱りきったようにして、ケンはその場に正座する。
先ほどまでは調子に乗り、人の尻まで叩いてきたケンが、すっかり萎縮しきっていた。
しかし、そんな怯えた様子に遠慮するクロエではない。
いや、遠慮してはいけないのだ。
親を疎ましく感じて、ただそういう年頃という理由だけで家出少年となってフラつくのとは、ケンのしてきたことは次元が違う。その歳にして立派な性犯罪者であり、そのまま大きくなってしまえば、一体どれだけの被害をもたらすか、想像もつかない危険因子だ。
クロエにしたようなことを、もっと多くの女の子を相手にやりかねない。
そんな可能性を孕んだ子供など、今のうちに矯正しないとまずい。
自分自身がその被害者である分だけ、クロエの使命感は強かった。
「んで、なんか言い訳あんの? 理由でもあんなら言ってみ?」
「えっと、その……」
「誰かに脅されて、仕方なくやってたんか? そういう悪いことをしろって、もっと悪い人に強要されてたんか?」
「その……えっと……」
「はっきりしい? どうなん? 自分自身の意思でやったん? イエスかノーでいけるだろって。何なら首振るだけでもええから」
「俺……その……」
「ほら、もっかい聞くから。誰かにやらされたんか?」
「俺は…………」
ケンは首を横に振る。
「あんた、自分で決めてやってたんな? で、こんな悪いもん、どこで手に入れた? あんたみたいな子に売るような店でもあったんか?」
クロエは自分の働いたことのある道具屋を思い出しつつ、紙を突きつけながらそう尋ねる。
「えっと、お父さんが……持ってて……」
「ご両親が?」
「色んなスクロールがあって、その中に描いてあって……」
「真似して描いた? 悪いことだと思わなかったんか? オイ」
「その…………」
「あんたさ。学園で女の子にセクハラしてただろ? そんで、こんなもんまで使って、今までうちに何やらせてきた? そういう人間だって見做されても、仕方がないとは思わないか?」
「あの……その……」
「立派な犯罪な。あんた、捕まっても文句言えんよ? それとも何か、バレないようにやりゃあいいって?」
「い、いや…………」
「バレなきゃ何してもいいなんて、そんなわけないな。だいたい、こういうやり方でしか女の子に近づけないなんてなったら、あんた大きくなってもずっと、悪い手段に頼りっきりになるからな? だって、他に方法知らないもんな」
「…………」
ケンはとうとう唇を引き結び、押し黙る。
そんなケンに向かって、クロエはなおも繰り返した。
「わかるよ? 男の子なら、そういう興味があるのは普通だし、そりゃしょうがない。けどな、普通はきちんと女の子と会話して、仲良くなって、恋人にでもなってだよ? それからやるっていうのが筋と違う?」
「…………」
「なあ、どうなん? 姉ちゃん、間違ったこと言ってるか?」
「いえ、間違って……ません…………」
「なら誰が間違ってる?」
「お、俺……」
「そーな。あんたが違う。んで、そしたら間違った考えなんか捨てて、きちっと筋の通った考え方に直さないといかんだろって。まず、こういう方法は二度と駄目な」
クロエは紙を折り畳み、自らのポケットに仕舞い込む。
これは重要な証拠品だ。
「で、このことは親に話すから」
「え……」
「当たり前だっての。うちが言うだけじゃなくて、親からもちゃんと説教してもらわんと。ま、うちも話したくないことを話すことになるけどさ。それはまあ、しょうがないってことで」
今まで子供に言うことを聞かされて、奴隷のように奉仕をしていました。
それも、性的な奉仕です。
まともな神経をしていれば、およそ人には話せない内容になってくるが、かといってケンをこのままにしておくわけにもいかなかった。
しかし、クロエは一つ、大事な想定を忘れていた。
世の中には人格的に問題のある親もいる。
そのことを警戒していれば、クロエが迎える今後の運命は、また違ったものになっていたかもしれなかった。
*
共働きである両親は不在が多く、冒険の絡む仕事でどこか遠くにいることが多いという。
しかし、父親を挟んで三人で話をする機会は得られたので、次の日のクロエはほとんど決着をつけるつもりで家を訪れ、厳かな面持ちの父親を前にする。父親と、その息子と、そしてクロエの三人で、テーブルを挟んで椅子につき、話し合いを開始していた。
最初から、妙だとは思っていた。
昨日はあんなに萎縮していたケンなのに、今は落ち着きを取り戻し、いかにも平然とした顔をしている。これから父親に悪事を話し、親の言葉で子供に説教をしてもらおうとしているのに、ケンにはその緊張感が見受けられない。
「なるほどな」
全てを話した。
証拠品である魔法陣の紙も見せた上、自分が一体どんな目に遭っていたのか。恥を忍んで何もかも打ち明けて、それなのにケンには焦りがない。
(どゆこと?)
自分のしでかしたことが、親に直接伝わっていく。
クロエがケンの立場なら、もっと緊張と不安にまみれ、気が気でないような様子になっている。それがケンには見受けられず、あまりにも落ち着き払っているのが不気味でならない。
「話はわかった。うちの子はまた、そら恐ろしいことをしでかしたようだ。このことは確かに大きな問題だが……」
だが、何だというのだろうか。
ケンよりむしろ、クロエの方が緊張していた。
(マジ、どゆこと?)
厳しい視線がクロエにこそ向けられていた。
……おかしい。
誰がどうみても、それは非難がましい視線であった。クロエに対してこそ、それが向けられていた。
いや、違う。
それだけではない。
非難がましさはあるのだが、もっと別の意味合いも含んでいるような気がしてならない。非難の理由もわからないが、そこに折り混ざった何かの正体もわからずに、クロエは困惑と不安を覚えていた。
「あの、信じてないですか?」
てっきり、そう思ってクロエは尋ねた。
自分の子供がそんな真似をしたなど、信じたい親はいない。嘘の告発でケンを責め立て、性犯罪者に仕立て上げようとする輩がいれば、その人物にこそ矛先は向くわけだ。
「冗談とかで、こんなこと言いませんよ」
緊張を帯びた面持ちでクロエは言う。
誤解でもされているなら、父親のクロエに対する視線は当然だ。怒り狂いでもするのだろうかと、いよいよ緊張を膨らませ、クロエは全身を強ばらせつつあった。
「いいや? 話は信じている」
その膨らむだけ膨らんだ緊張は、しかし他ならぬ父親自身の言葉によって和らいだ。
「だったら、なんで……」
それなら、非難の目つきを向けられる意味がわからない。
話を信じてくれているなら、人を悪者扱いして、嘘で陥れようとしているわけではなく、きちんと親の言葉で説教をして欲しい意図は伝わるはず。よしんば言葉が足りずとも、クロエが非難される謂われはない。
「ぶったそうだな」
彼は重々しい声でそう言った。
さもその罪の方が重要であるように重苦しい声だった。
「……まあ、軽く」
と、正直に答える。
確かに、自分の子供に暴力を振るわれて、面白がる親はいないだろうが、話が話である。拳骨と説教だけで済ませるなど、ケンの年齢でなければとてもでないがあり得ない。もう少し大きければ、より確かな処罰を求めたところだろう。
「痛かったそうだぞ?」
だというのに、この父親はもっぱらそちらを問題視していた。
「えっと、すんません……いえ、すみません。ですが、息子さんのしてきたことを、いつまでも我慢していろという方がおかしいはずですが……」
そう、それなのだ。
クロエが先ほどから抱いている違和感の正体は、どうして息子のケンよりも、ただ拳骨と説教をしただけのクロエこそが悪者のように見られているか、というのがまず一点である。誤解があるならわかるのだが、話を信じたその上で、というのがいかにもおかしい。
それとも、本当は信じていないのだろうか。
父親から感じる不安のせいで、人の罪を追及しているはずが、まるで自分こそが罪の重さを量られている立場に思えてくる。
しかし、それだけではない。
まだ何か、ありそうなのだ。
違和感の正体を、まだ掴みきれていない気がするのだ。
「ぶったのは間違いないと?」
「はい。間違いありません」
やはり、クロエは正直に答える。
(うちは間違ってないだろが)
ちょっとやそっとのイタズラではない。
立派な犯罪として扱うべき悪事である以上、それで怪我をさせたわけでもないのに、責められる謂われはない。
「そもそも、君の学校はバイト禁止だそうじゃないか」
ドキリと、心臓が弾む。
それは、そうなのだ。
校則を破っている点への指摘に、返す言葉など何もない。その言い訳をするとしたら、身の上について語ることで、理解してもらえるかどうかにかかっている。
「それと、私は冒険などで人と関わる関係上、なかよし部のことも偶然ながら聞いたことがある。あれは確か、よくわからない迷子が多い少年だったかな。変な子にあって聞いたんだ。テレ女の子と知り合いだと話していたので、そこからね」
(あいつは……)
顔には出さないが、内心呆れる。
「校則を破り、そのバイト先でうちの子を殴る。いくら事情が事情とはいえ、それはまずいことではないのかね」
違和感がより大きく膨らんだ。
いや、それ自体はそうなのだ。
クロエの背景さえ無視すれば、その言葉は誰からも正論にしか聞こえないものだろう。
「しかも、うちの子をたぶらかすとは」
「は!?」
クロエはさすがに声を上げた。
頓狂な声が上がると同時に、気づけば勢いよく立ち上がり、その勢いに任せて椅子を後ろに倒してしまっていた。
「君がエロいからだろう?」
そこに浮かぶ目の色が、少しばかり変わっていた。
「いや、は? 何を――」
「そんな体つきをしているから、うちの子がおかしな気を起こしたんだ。禁呪に手を出し、犯罪行為に手を染めて、そして君の体に手を出した。それは君がエロいせいだ。君の持つ魅力こそが罪なんだ」
「あの、それは本気で仰ってるんで?」
いくらなんでも理解できない。
自分の息子を責めるどころか、あまりにも無理のある論調で、クロエにこそ罪を被せようとしてきている。あくまで子供の味方であろうとする親の情から、たとえ無理があっても言い出していることなのか、それともおかしな考え方の持ち主か、クロエは図りかねていた。
だが、その時になってクロエは気づく。
人の胸や腰つきに視線を走らせ、品定めの視線を送ってくるのだ。
怖気が走るほどの、いやらしい目で、この男はクロエを見ていた。
非難がましい表情に紛れたせいで、今までわからずにいた彼の顔が、ようやくはっきりと見えてきていた。
この父親は、クロエのことを性的な目で見ている。
非難の眼差しという名の皮に隠れて、クロエからは今まで見えずにいたものが、ようやく内側から姿を現していた。皮を破って内側から現れたような眼差しに、クロエは不安や緊張の上で戦慄まで覚えていた。
「君は色々と、まずいんじゃないか?」
違和感の正体を完全に掴んでしまった。
目の前にいる男は、真っ当な大人ではない。
危険な男と対峙してしまった戦慄に、クロエの額には汗が噴き出た。
「だ、だから本気ですか? それとも、やっぱり信じてないんですか? うちが嘘でもついて、息子さんを陥れようとしているとでも?」
クロエの問いに対する父親の答えは、声があまりにも上擦っていた。
「ある意味では陥れているな。君がもっと貧相な体をして、もう少し魅力に欠けた顔をしていれば、ケンだって禁呪には手を出さなかった。魅力というものはだね、人を堕落させる罪なんだよ。君こそがケンを悪の道に引き入れた悪魔なんだ」
言葉そのものは、さももっともらしいことを述べているように、毅然とした風を装っているものの、いやらしい目線に加えて声にも興奮が入り交じり、下心があまりにも透けて見えている。
とにかく、よくわかった。
クロエの話は信じていながら、その上でなお、この父親は息子の全面的な味方をしている。犯罪だろうと何であろうと庇い立て、あくまでケンを守るつもりでいる。前後関係や道徳など全て無視して、彼の中ではクロエこそが悪者ということになっている。
だが、そこには怪しい動機がある。
ただ息子を庇いたい一心というよりも、やましい何かを帯びた目論見から、きっとそんなことを言い出している。この男は警戒をするべきだと、全身から信号が放たれていた。神経という神経の数々が、警告信号に埋め尽くされる勢いだった。
「あの、それはあんまりじゃ」
さしものクロエも、人様の父親に対して非難の眼差しを浮かべていた。
「なんだね? その目は」
「……いえ、お話が通じないなと思いまして」
「だろうな。話にならない」
それはこちらの台詞だ。
せっかく親を挟んでまで話を打ち明け、話しにくいことを話した上で、ケンの矯正を求めようと思ったのに、こうも話にならなくては、悪いがろくな大人にならないだろう。悪いことをしても咎められず、それどころか甘やかされるのでは、ケンが将来どうなっているか、あまり想像はしたくない。
いや、それどころの問題じゃない。
もしもこの父親がクロエの警戒している通りの、より最低な人物だった場合、ケンはその背中を見て育つことになる。
「さて、クロエさん。ここからが本題なんだが、君は校則違反のバイトを行い、その上で年下の子供を性的にたぶらかした。君の言い分がどうであれ、世間がそう見做す可能性はそれなりに高いんじゃないか?」
説教めいた口調を演じようとしていながら、上擦った興奮気味の、荒っぽい息遣いの折り混ざった声からは、いやらしい目的が滲み出ている。
「…………」
クロエの口から、それでも返す言葉が出て来ない。
学教では不良のように思われているのだ。
自分の評判が良いとは思っていない。
この男が真っ当な大人を演じて、真っ当な訴えをしてみせれば、そちらの主張が受け入れられるのではないかという不安がよぎり、だからクロエは口を噤んでしまっていた。
「すると、どうだ? 退学問題はもちろんのこと、君の所属している部活にも迷惑がかかりそうだ。いや、付き合っている友達全ての名誉にも関わりかねない。君がそういう人間だったと見做されることで、そういう人間と付き合う奴、という風に見られてしまう。その、本来の人格には一切関係なく、な」
「……脅してます?」
「さて、どうだろうな。脅しはともかく、もう今まで通りの家庭教師は頼めない」
「そうですか」
いいや、それは正直いい。
今までの状況で、家庭教師を続けたいとは思っていなかった。このバイトが終わるのは、クロエとしては一向に構わない。むしろ歓迎したいくらいだが、彼の次の一言が問題だった。
「代わりに、別のバイト先を紹介しよう」
「はい?」
「どうせ、金に困っているんだろう? うちで働くのをやめても、またどこか別の場所でバイトをするわけだ。違うかね」
「……それは、違いませんが」
「なに、紹介するだけだ。気に入らなければ、他に自分で探せばいいが、私のせっかくの紹介をあまり断るべきではないと思うね? 状況からして」
またしても、胸に対する集中的な視線が注がれる。
その怖気にぞくっと身体が震えるが、今の立場では残念ながら、確かに下手には断れない。
無理をしてでも通わせてもらっている学校なのに、それを退学などありえない。家に苦労をかけているので、バイトもバイトで続けたい。しかし、ケンよりもずっと知恵の効く大人に、しかもより大きな弱みを握られてしまっていた。
いや、本当は弱みなどない。
ただ、大人という立場を活かせる男と、学校で不良と見られているクロエである。話を都合良く変換されれば、それはそのまま、ケンに握られたものよりずっと大きな弱みになる。本当は何もやましいことなどないのに、それでも弱みのある立場に、クロエは立たされてしまっていた。
(最悪すぎるって。なんでこうなんの)
性的な被害に遭ったのはクロエの方だ。
だが、なまじケンの年齢が幼いだけ、こんな歳の子がそんな真似をするはずがないという先入観もあるだろう。対して不良のクロエとなれば、さもクロエがケンをたぶらかしたように広められると、それは説得力を増しやすい。
クロエは泣く泣くながら、父親の紹介するそのバイトに顔を出すことになる。
今度は洗脳などされていない。
駆け引きで任されて、思い通りに操られる形によって、クロエは新しい職場へ向かうことになるのであった。