序奏 魔女の拾い物

 姿見に映る姿は見違えていた。
 ここに立っている女は、もう暗い裏通りを塒に物乞いして、残飯を漁って餓えを凌いだ貧相な娘などではない。
 良い服を与えられ、良い化粧で顔を飾り、髪をよく手入れして出来上がった美貌の姿は、まだ落ちぶれていなかった頃の、かつての自分と比べてさえも別人だ。
 母は貴族の侍女だった。
 しかし主に屋敷を追い出され、その娘も共に父親の元を離れていった。母が唯一の肉親となり、そんな母が病に倒れて孤児となり、つい先日までカビの生えたパンを食べていた。汚い物乞いと見下され、貴族達に唾を吐きかけられもした。
 それが今やどうだろう。
 この姿で彼らの前に立ってみせれば、自分が足蹴にした小娘とだとは気づかずに、滑稽にも手の平を返すのではないか。
 しかし、唾を吐いてきたその人が目の色を変え、美女にアプローチをかけて来たとして、きっとそれは醜く見える。貴族の浅ましい一面を想像して、愉快に思うよりも、むしろ吐き気を感じていた。
「だけど、まあいいわ」
 少しの間、目を瞑る。
 瞼の裏に広がる闇を見つめて、しばらく心を落ち着ける。
 改めて目を開き、鏡の自分と向き合うと、彼女は真剣な眼差しで言葉を紡ぐ。
「いい? ドロテア=アールノルト」
 自分自身へと語りかける。
 その熱を宿した眼差しと表情は、どこか芝居がかっていた。
「貴方は童話のお姫様。かつては灰を被っていたけれど、お伽噺の魔女に魔法の服と化粧を与えられ、高みへと羽ばたく機会を得たわ」
 ドロテアは目を瞑り、瞼の裏に一人の女性を思い浮かべる。
 そして、ドロテアは手を差し伸べた。
 誰がいるわけでもない床へと向けて伸びた手は、まるで道端に縮こまる貧相な娘に向けられている。
 そう、今のドロテアは別の誰かで、差し伸べた手は過去の自分へ向けたもの。
「お嬢さん? 貴方の歌声を聞いたわ? 街の噴水でこっそりと水浴びをしていた貴方は、水と共に歌ってはしゃいでいた。そんな貴方が私には精霊に見えたわ? 陽光が水に散りばめられ、噴水から広がる飛沫がキラキラと輝いて、光の中で歌い踊る貴方は水の精!」
 物乞いだった少女は、その力強い言葉を覚えている。
 突然に現れた女性であった。
 道端に縮こまった少女を急に見初めて、彼女は物乞いの少女の事を水の精だと言い切るが、ならば少女から見た女性は、お伽噺の中で主人公を助ける魔女だった。
「マヌエラ=カザグランダを知っているかしら? あの方に貴方を見せれば、きっと彼女は貴方を見出すわ? そして貴方はミッテルフランク歌劇団の歌姫となり、その歌声で帝都を魅了していくのよ?」
 まさか、こんな汚い私が?
 肌は汚れで浅黒く、服には吐きかけられた唾が染み込み、先程食べたパンはカビの味がした。見窄らしい私が歌姫だなんて夢物語だわ!
「信じられないという顔ね? だけど私にはわかるのよ。貴方という宝石が、どれほど石塊をくっつけていようとも!」
 そんな!
 私が宝石だなんて!
 ありえない!
「私には貴方を磨けるわ! 貴方の正体は美しい歌の精、輝く宝石! 私の元で、貴方の正体を貴方自身に教えてあげる!」
 違うわ!
 私は水の精でも宝石でも……。
「私の手を取りなさい! そうすれば、貴方は自分の美しさに気づけるわ!」
 私はただの物乞い!
 人に唾をかけられる汚い人間!
「ここは貴方がいるような場所じゃない! 温かいベッドで眠りなさい? 美味しい料理を食べなさい? 貴方の食べるパンを私は見たわ! 貴方が囓るべきはカビのパンではないの! 出来たてのパンを食べましょう? バターを塗って、熱い焼きたてを食べましょう?」
 温かいベッドに、美味しいパン!
 ああ、お腹が鳴ってしまう!
 やっぱり私ははしたないわ!
「さあ、その手を私に!」
 はしたない、浅ましい!
 私はパンとベッドが欲しくて手を取るのよ!?
「ほら、これで貴方の運命が変わったわ? 残飯と鼠の裏通りで一生を終える事はもうないのよ! だけど、貴方は私と契約しなくてはならない!」
 契約?
 貴方はひょっとして悪い魔女?
 それとも悪魔?
「貴方はこれから見違える。そんな貴方を可愛がらせて? さもなくば運命は元通り、やっぱりカビの生えたパンを食べ続けて、いつか病気になって死んでしまうの!」
 お腹が空いた……。
 私は美味しいパンが欲しい!

「さあ、いらっしゃい? 私の馬車が待っているわ?」

 物乞いの少女は一人の美しい女性に手を引かれ、綺麗な馬車で屋敷へと♪
 一日目はバターを塗った焼きたてのパンが与えられ、ふかふかのベッドで眠りについた♪
 二日目は美味しい料理が与えられ♪
 三日目には素敵な洋服を着せられた♪
 四日目は♪
 いよいよ迫る魔女の契約♪
 それは妖しい悪巧み♪
 狙っているのは美女の魂?
 いいえ、違う♪
 魔女が欲しがるのは、美しき肉体♪
 可憐な乳房♪
 あどけない秘所♪
 ものを知らなかった女の子は、オオカミじゃなくて魔女の唇で食べられちゃう♪

「契約は覚えているわね? ドロテア=アールノルト、貴方の体が私は欲しい。その唇を、胸を、それに秘密の場所まで、全て曝け出してもらえるかしら?」

 そんな……それが契約なの?
 だけど契約を守らなければ、私は物乞いに逆戻り!
 運命を変えるためなら仕方がないわ!
「素敵なドレスと下着を用意しておくわ? 湯浴みで体を綺麗にして、美しい姿で私を待っていて頂戴?」
 そう、その美しい姿の女の子がこの私――ドロテア=アールノルトなのよ。
 ほら、鏡を見てみなさい?
 こんなにも綺麗に仕立ててもらって、自分で自分に見蕩れてしまいそう。
 鏡の前で自惚れる人間って、みんなこういう気持ちだったのね?
 だけど、これは抱かれるため。
 私の運命を変える御伽の魔女は、引き換えに私の体を求めてきたわ。
「魔女の名前はフィオナ。あの人が私を欲しがったのは、あの人自身が言うように、私の正体が水の精であり、美しい宝石だったからなのね。綺麗に磨き上げて、そして抱こうというわけよ」
 ドロテアは振り向いて、世界に向けて両手を広げる。
 一人二役を演じた一人芝居は、まさにここが歌劇の舞台、音楽隊の演奏に合わせた物語の役なのだ。

 トントン、

 と、ドアを叩く音。
 だがそれを表現するのは、本物のノックの音とは似ても似つかない、しかし何の表現なのかは自然と伝わる打楽器だ。
「とうとう来たわ? この体は穢される。
 せめてもの救いは、ぶくぶくと醜く太った貴族ではなく、美しい女性が相手という事かしら?
 あの人には魔力があるわ。
 ああフィオナさん、私を抱くのが貴方なら――心のどこかで、そう思わせる力がある」
 貴族を詰め込む客席に向かって大仰に、身振り手振りを交えて見せるドロテアが、そして次の瞬間に披露するのは歌である。
 私は灰かぶり、御伽の魔女に拾われた。
 だけど代償として貞操を捧げるのだ。
 喜劇と悲劇が表裏一体。
 喜びの裏にある悲嘆。
 そんなコインがテーマの歌詞を口ずさみ、美しい歌声を演奏が彩れば、誰も彼もが魅了され、ドロテアこそが人々の魂を奪う魔女となる。
 ところで、観客はこの物語をどう思うか。
 ドロテアが孤児であり、拾われた物乞いが歌姫にまで成り上がった話は果たして実はか、はたまた全くの創作か。もしも実話なら、どこまで脚色されているのだろうか。
 フィオナという名の女性に抱かれ、同性同士でベッドの上、乳繰り合ったとうのは嘘か真か。
 多くの貴族がそれぞれの想像を巡らせる。
 さて、真実は?

      †

 開いたドアの向こうから、美しい銀髪の魔女が姿を現す。ほんの四日も前に物乞いの少女を拾い、見違えた美女へと磨いた魔女は、しかし童話に登場する老婆のイメージからかけ離れ、むしろお姫様のように美しい。

「待たせたわね? ドロテア=アールノルト」

 腕がしなやかに持ち上がり、するりと指が絡んで来る。顎を少し持ち上げて、自分へと向かせる銀髪の魔女は、まるでキスでもするように、一瞬で顔を近づけドロテアの瞳を覗き込む。
「美味しそうな宝石にして水の精」
 フィオナの声は甘美な果実から絞った果汁のように、耳を甘く染めてくる。
「いよいよ、言う事を聞く時なのね」
「そうよ? 私は貴方が欲しかったの」
「だけど私は初めてなの。貴方の望むようにピクピクと震えたり、小鳥のように鳴く事ができるかわからないわ」
「少し生意気になったじゃない? それにちょっと刺々しい。私が貴族だからなのかしら? 貴族であった貴方の父は、貴方とその母を追い出した。そして母を失い孤児となり、他の貴族が貴方を道端で蹴り飛ばした」
 心の中では、そんな貴族の一人に過ぎない風に感じているのではないかと、妖艶な眼差しで魂を覗き見ながら指摘してくる。
「貴方を待つ未来では、貴族がどう見えるのかしら? 貴方の美しさに一目惚れして、かつて物乞いだった事も知らず、貧しい少女を蹴り飛ばした事も忘れて、美しいドロテア=アールノルトに靴を贈るの。精悍な顔つきで、だけど立派な仮面の下では鼻の下をよーく伸ばして」
「今は貴方が鼻の下を伸ばしているのでしょう?」
 ドロテアの声音は硬い。
 女同士にせよ、異性相手にせよ、ドロテアにはそうした経験がない。見窄らしい物乞いに興味を持つ男などいないのか、思えば金をやるから抱かせろという男が現れた事もなかった。
 だが、今は目の前にフィオナがいる。
 救ってやるから抱かせろという、フィオナが。
「ええ、否定はしないわ?」
 魔女が物乞いに与えたものは馬車への切符だ。差し伸べられた手をすぐにその場で掴む決意は、何故だかドロテアには出来なかった。自分の住む世界が一変する大事件が起こりかねないのは、たとえ成り上がりへの転機であっても、どこか怖さを感じたのだ。
 だが次の日、ドロテアは御者に封を見せた。
 それなりの見返りを求められるだろうと、そう予感はしていながら、今の生活から脱出するため、屋敷への招待を受ける事にした。フィオナの招待状について知る御者は、赤い蝋封さえ見れば事情を理解して、汚い物乞いを構わず車の中へと入れた。
 一日目は焼きたてのパンにバターが塗られ、二日目はもっと美味しい料理をご馳走され、三日目には綺麗な洋服が与えられ、ドロテアは生唾を呑んでそれらを享受した。
 成功すれば、こうした生活を続けられる。
 甘い囁きと共に、肉体という対価を求められ、フィオナの手に抱かれる事となるのが、この四日目だ。
「緊張しているわね? 震えがわかるわ」
 二の腕が掴まれると、腕からフィオナの手の平へと、ドロテアの震えが全て伝わる。顔の硬さを目で見抜かれ、体の硬さを肌によっても感じ取られて、いかに緊張しているかが魂の内側にかけてまで見透かされる。
「可愛いわ? そんなあなたを弄ぶのが楽しいのよ」
 指先を絡められ、顎をくいっと持ち上げられた。
 フィオナの唇が迫ってくる。
 ドロテアは目を瞑った。
 この一連のストーリーは、やがてフィオナを悪い老婆に置き換えたり、時にはカボチャの馬車が用意され、様々なバリエーションを持つ歌劇となる。
 物乞いの成功譚。
 第一回目を演じるのは、後に歌姫となるドロテアと、彼女を誘ったフィオナ本人達だ。