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 その翌日、帰り道。
 いつものように三人揃って駅を目指し、その最中のことだった。
 三人並び歩いての、誰一人として気づいていないが、その中で一人だけ、犬山陽衣菜だけのスカートが持ち上がり、ショーツが丸見えとなっていた。
 まるで透明人間がべったりと後ろから着いてきて、スカート丈をつまみ上げながら歩いているように、丈は持ち上がっている。綺麗にまんべんなくというよりも、指でその箇所だけをつまんだ上がり方は、まさしく人の手で持ち上げて見えるのだった。
 その不可思議な光景は、ともすれば周囲の注目を集めかねないが、陽衣菜にとっては幸いなことに、この光景に気づく通行人はいなかった。
「ん?」
 何かを気にして振り向くと、その瞬間にスカートは元に戻った。
「どうした? 陽衣菜」
 尋ねてくる沙弥子に対して、陽衣菜は困惑を浮かべていた。
「いやぁ、何だろう。何でもない、と思う。気のせいかなー」
「なんだぁ? ま、なんでもいいけどよ」
 たったそれだけのやり取りで、一度は足の止まった三人は、そのまま再び歩き出す。
 そして、またしばらく歩いていると、明らかに指でつまみ上げているようにしか見えない形で、つままれた部分を中心として持ち上がり、丈の中からだんだんと陽衣菜の尻が見えてきていた。
 白いショーツに包まれて、歩行のために布が割れ目に食い込んでいる。ゴムの部分から尻肉のぷにっとはみ出た光景を、本人は知らず知らずのうちに公開していた。たまたま周囲には人が少なく、すれ違う人間が歩きスマホをしていたおかげで、誰にも目撃されずに済んではいるが、本当なら見せびらかしながら歩いている状態だった。
「んん?」
 陽衣菜は眉を顰め、また振り向く。
 後ろに誰かが立ってて、こそこそと着いて来ている気配があると思ったのだが、振り向いても誰もいない。そして、スカートもその瞬間にはらりと落ちて、だから陽衣菜は自分のショーツが丸見えだったことにも気づかない。
「さっきから、どうしたのかしら?」
 美鶴が尋ねてくる。
「いや、なーんか。変な気配? でも気のせいみたいなんだよね」
「誰か警戒している人でもいるの?」
「いやぁ、別に」
「そう。なら、気にしすぎよ」
 美鶴がばっさりとそう切り捨てるので、陽衣菜はそういうものかと納得して、三人揃って再び歩き始めるわけなのだが、またしばらく歩いたところで、今度は尻にぺたりと、誰かの手が置かれたような感覚がして、今度という今度は今までにない勢いで激しく振り向く。
 ところが、やはり誰もいないのだ。
「本当におかしいわよ」
「そう、だよね……」
 陽衣菜は確かに感じた。
 今のは人の手の平だった――はずなのだが、後ろに誰もいないどころか、周囲に人がいなかった。通行人そのものはいたとしても、陽衣菜は即座に振り向いていたわけで、十メートル以上は離れた上、こちらを見向きもしない通行人など、容疑者の候補にすら入らない。
 なら、やはり気のせいなのか。
 これだけはっきりとした感触があって、それでも気のせいなのか。
「うーん……」
 何か、納得がいかない。
 絶対に誰かに触られた――はずなのだが、その容疑者となる人物がいない以上、どんなに納得がいかなくても、気のせいしかないのだろうか。
「ううむ」
 と、唸って考えるが、もしや透明人間か。
(いやいや、ありえない)
 陽衣菜が今の体験から連想したのは、美鶴から聞いた言い伝えの、セクハラまがいのことをして封じられてしまった男である。
 いくら昔だからといって、セクハラ止まりでそこまでされるものだろうか。
 それはともかく、悪い神様から力を受け取り、そして悪用している人物がこの現代で活動しているという想像を働かせ、その力でもって透明人間にでもなっているのではないかと、陽衣菜は考えたわけだった。
 だが、それはありえない。
 いくらオカルトや民俗学の方面に興味が湧いているからといって、呪いに幽霊、UFOに超能力といった話を信じているわけではない。実在したら面白いと思っているだけで、呪いや悪魔といったものは、大抵は『説明』のために生まれるものだ。
 美鶴から教わった話だが、疫病や自然災害を始めとして、科学の未発達だった昔には説明できなかった事柄を、それでも何とか説明しようと、神の災いだとか、悪魔の仕業といった風に考え出した。
 現象に対して、これは○○という妖怪の仕業だと、偶像を当て嵌める。
 陽衣菜がたった今行った想像も、まさしくそれと変わらない。自分の体験を説明できる理屈や根拠が見つからないから、力を悪用する何者かに違いないと、まさしく当て嵌めようとした。
 結局、そんな説明しかできないなら、気のせいとして片付けるしかないはずだ。
 陽衣菜はそう結論付けるのだが、その時だった。

「陽衣菜ちゃん。いい尻してるね」

 全身に寒気が走った。
 すぐ真後ろに人がいて、耳の裏側に唇を近づけながら、ふーっと息を吹きかけながら囁いてきたように感じられた。確かに、今度こそ間違いなくあった感触と、はっきりと聞こえた男の声に、陽衣菜はまたしても勢いよく振り向いた。
「い、いない……!」
 やはり、誰もいない。
「おいおい、どーした?」
「さっきからおかしいようね」
 そんな陽衣菜の様子に疑問を持って、沙弥子と美鶴がそれぞれ呆れ気味に心配そうにしてきている。
「なんでも……ない……うん、なんでもないよ……」
 そうだ、そのはずだ。
 やはり、気のせい。
 振り向いても誰もいないのなら、気のせいで間違いないはずなのだ。

     *

 今日は陽衣菜の様子がおかしかった。
 一体、何があったというのか、結局はその疑問が解消されることはないままに、駅構内で別れた新條美鶴は、乗り換えの電車に乗って、一人つり革を掴んでいた。
(途中からは警戒心でいっぱいだったわね)
 陽衣菜は何度も後ろを振り向き、そのたびに気のせいだったと口にしていたが、一体何をそんなに気にして振り向いていたのか。
 最近誰かにつきまとわれて、そのせいで神経が過敏になっているのでは、という説を美鶴は考えたわけだったが、それを他ならぬ本人が否定している。だったら、陽衣菜自身が言うように、全て気のせいだと思うのだが、では一体何をそこまで気にしていたのか。
 後ろから、声でも聞こえたのか。視線でも感じたのか。
 陽衣菜は別れる直前まで、始終そわそわして警戒気味に、今にも後ろから何かが起きはしないかと気にしている様子であった。
(怖い映画でも見たのかしら)
 美鶴自身にはわからない感覚だが、人間とはホラー映画が怖かったあまりに暗闇に萎縮したり、物音に敏感になることあるものだという。誰かにつきまとわれているわけでも、何でもないというのなら、何かそういう理由なのだろう。
(私には縁のない話ね)
 美鶴はよく人からクールと言われる。
 他人から見た自分の姿は、どうにも想像できない部分がある。何を持ってクールだと言っているのか、口数が少ないからか、他人への関心が薄いからか。心当たりこそあるものの、良い意味でいっているのか、悪い意味で言っているのか、それもいまいちわからない。
 もっとも、別にどうでもいい。
 美鶴は元々、自分から積極的に声をかけ、他者に働きかけるタイプではない。寄ってくる者がいれば相手をするが、自分から人には寄りつかない。たまたま絡んできた相手とは友達になるものの、そういう相手が現れなければそれまでといった具合に考えていた。
 孤独は特に苦ではない。
 感情がないわけではないので、寂しさを欠片一切感じないかといえば、そこまで強く言い切ると嘘になる。しかし、それ以上に一人で過ごす時間を得られない方が辛いので、べったりとし過ぎない、ほどほどの距離感でいてくれる方が美鶴には助かるのだ。
 陽衣菜は懐いてきているが、休み時間中は他の友達グループと過ごしている。話すのは部活中が主であり、沙弥子も沙弥子で気が向いた時にフラっと現れ、学食のテーブルで勝手に隣に座ってくることが週に何度かあるくらいだ。
 そういった、深すぎない関係は居心地がいい。
 美鶴の理想の人間関係は、浅く狭くであった。

「よっ、美鶴ちゃーん。今日も美人だね」

 その時、唐突に声が聞こえた。
「は?」
 隣から話しかけられたと思ったので、一体どこの誰だと疑問に思いながら横を向く。仲の良い男子は特にいない、だから話しかけられる謂われがないのに、さも砕けた仲であるように接しるのは何か理由でもあるのかと、そんな疑問すら抱いていた。
(……いない?)
 誰もいなかった。
 気のせいではない――と、思う。
 空耳、気のせいといったことで片付けるには、あまりにもはっきりと聞こえたのだが、現実に隣に立っている人物が誰もいない。周りにいるのは、座席をまばらに占拠している老若男女に、窓際をキープして、寄りかかってスマートフォンを弄っている人間だけで、美鶴のすぐ隣に立つ者というのが、そもそも存在していない。
 だったら、誰かがアニメかドラマでも視聴していて、その音声からたまたま名前を呼ばれたのかとも考えるが、どこからも音漏れはしていない。そもそも、イヤホン無しで音を垂れ流している誰かがいれば、もっと最初から気づいている。
「この前は久保沙弥子、さっきは犬山陽衣菜。んで、次は新條美鶴ちゃんの番ってわけ」
 いいや、やはり聞こえる。
 あまりにもはっきりとした声に、美鶴は左右や後ろを確認するが、やはり近くに人はいない。他人の中で一番距離が近いのは、数歩隣の位置に座っている女性だが、この声は少年のものなのだ。
(どういうこと?)
 薬物を使用した覚えはない。
 怪しげな儀式をやって、頭をおかしくした覚えもない。
「無理無理、見つからないって」
 一体、どうしてこんな少年の声が聞こえるのか。
 幽霊か透明人間に話しかけられていなければ、こんな状況はありえない。
(そんなものがいるとでも?)
 美鶴はいやゆる魔術や呪いといった黒い知識を持ち合わせ、そういった方面に関して詳しいが、効果を信じているわけではない。ただ、ひょんなことから興味を持って、知識欲を理由に調べているだけなのだ。
 科学が未発達の時代、『説明』のために偶像を当て嵌めたり、魔女狩りのようなことが起こったり、そういったものは歴史のようなものである。魔術を信じている人物が存在して、その人物によって何が行われていたか。といった記録を調べるのも、立派な歴史の勉強である。
 藁人形に釘を刺したら人が死ぬなど、むしろ欠片たりとも信じていない。
 そんな美鶴にとって、この状況は自分自身の病気を疑うものだ。麻薬には何の縁もなく、その入手方法の想像すらつかないのに、その自分が幻聴としか思えない声を聞いている状況は、理解できないものだった。
(本当にどういうわけ?)
 記憶の中から心当たりを探ってみるが、まったく思いつくものがない。
 ただ、先ほどまでの陽衣菜の様子を連想した。
(陽衣菜も同じ体験をしていた? だとしたら、尚更理解できないわ)
 少年の声からは、沙弥子の名前すら出て来ているが、ならば三人揃って似たような幻聴を聞いているとでもいうのだろうか。
「あるんだよねー? 不可思議な力って」
 その瞬間である。

 後ろから抱きつかれた。

 背中に胸が密着して、尻には股間が押し当てられる。その人に抱きつかれていなければありえない感触を、美鶴ははっきりと感じていた。
 もちろん驚いたが、冷静な性格から、過剰な驚愕には至らない。
 せいぜい物音にびっくりした程度の、不審者に抱きつかれた少女の反応としては薄い部類のものだったが、驚きが小さい代わりのように、美鶴は戦慄や嫌悪感で肌中を泡立たせた。
(ありえない…………)
 そのタイミングでちょうどよく、電車がトンネルの中を通過する。
 窓ガラスの景色が黒くなり、鏡のように反射しやすくなった時、美鶴の背後にも隣にも、やはり人は立っていなかった。もし誰かが本当に密着してきているのなら、頭くらいは見えていなければおかしいのだ。
(やっぱり、気のせいなの? ここまではっきりした感触があっても、夢か幻に過ぎないっていうわけ?)
 どこかで薬物でも吸っただろうか。
 たとえ身に覚えがなくとも、ここまでくると本気で心配になっていた。
「あのご神木だよ。あの周辺でさ、たまたま手に入れたんだ。俺は確かにここにいるし、幻覚なんかじゃないんだぜ?」
(冗談じゃないわ。こんなの立派な症状じゃない)
 精神を患って、妄想の中で作り上げた設定を現実と思い込む。
 それが症状でなかったら何であろうか。
「あ? ひょっとして、薬物とか妄想とか考えてる? 前にいたんだよな。身に覚えなんかなくても、自分は本当は麻薬をやってるんじゃないかって、本気で心配になってた子。そうじゃなくってさ、魔法とか超能力みたいな力が実在するだけの話なんだよ」
「そうね。私の知らない情報が言えたら信じるわ」
「えっと? どういうこと? あ、待てよ? わかったわかった? 美鶴ちゃんって、すっげー頭いいじゃん! 自分の知ってる情報を言い当てても、それは自分自身の妄想かもしれないっていうんだろ? 知るはずのないことを言い当てて、後で答え合わせをすれば、俺の言ってることは全部本当のことだって確認できるわけだ」
「お喋りね。離れてくれる? 気持ち悪いわ」
 美鶴は半ば苛立っていた。
 幻覚にせよ、魔法や超能力にせよ、怖気が走ってたまらない。
「いやでーす」
「本当に気持ち悪い……」
 姿が見えない以上、こんな風に声を出すのは、一人で喋っているように見えて不気味かもしれないと思いつつ、そこでマイク付きイヤホンの存在を思い出す。わかりやすく耳に携帯電話を当てているわけではなく、さも会話相手が存在するように、一人で喋って見えはするが、それは立派な通話なのだ。
 ちょうど、美鶴の耳は黒髪の内側に隠れている。
 一人で喋ってみたところで、せいぜい通話と思われて終わりだろう。
 よしんば奇人変人に思われたとして、特に関わりのない道端の他人からなど、どう思われていようと気にする必要がない。
「あーそうそう。でもさ、知らない情報っていっても手間がかかるじゃん? こういう方が手っ取り早いな。ま、よく考えたら信じてもらう必要とかあんまないけど、どうどう? よーく撮れてるっしょ」
 その時、美鶴はスマートフォンの画面を見せつけられていた。
 透明人間が後ろから抱きつきながら、前に腕を回して顔に近づけてきているのだろう。その持っているスマートフォンが突如として、パっと切り替わったように出現した。景色を切り替えたかのように、美鶴の眼前にはスマートフォンが浮遊していた。

 そこにはショーツが映っていた。

 後ろからスカートを捲り上げ、中身を写した写真なのだが、やや遠巻きに撮っているせいか、周囲の景色がいくらか映り込んでいる。股の内側は言うまでもなく、腰の両側に見えるものまで入り込み、だからこの尻の少女は三人並び歩く中心にいることが窺える。
 スクールバッグの映り込みで、沙弥子の鎖が僅かながらに確認できる。
「これって……!」
 いよいよ戦慄は激しいものとなっていた。
 汗が噴き出て、心臓は激しく高鳴る。
「わかった?」
 よくわかった。
 これは間違いなく、下校中の先ほどの写真である。
 陽衣菜は何度も後ろを振り向いたり、何かの気配を気にしている様子であったが、この透明人間がつきまとっていたせいなのだ。
 そして、今は美鶴に標的を変えている。
「あなたは野放しになっているべき存在じゃないわ。捕まるべきね」
 みるみるうちに拒否感が湧いてくる。
 今の今まで、これは自分の妄想であり、幻に過ぎないはずだという思い込みがあった。自分自身が生み出す錯覚なのだから、気持ち悪い性犯罪者の密着も、実際のものではない。気色悪い相手など、だから存在しないと思っていた。
 だが、いよいよ少年の言葉を信じるとなった時、ふつふつと湧いてくるのは恥辱感や嫌悪感など、こんな目に遭うなどたまったものではない気持ちばかりであった。



 
 
 

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