僕はいい加減に苛々していた。
「すみません! また菌が……」
 スーパーで打撃を受けた帰り、ベンチで一緒にどんべぇを食べていた時のことだ。ほんの少し手が触れただけで、白粉花はそう言い出しハンカチを取り出し、僕の手を拭き始めた。
 この日、僕はただ半額弁当を買いたいだけだったのだが、どういうわけだか幾人もの客が売り場へ群がり、乱闘を巻き起こした。戦いの余波で茶髪の拳をもろに浴び、氷結の魔女――と呼ばれているらしい生徒に蹴り飛ばされる羽目になった。何故弁当を狙うだけでこんな怪我のリスクを負わなければならないのか理解できなかったが、とりあえず、今はそんな疑問はどうでもいい。僕は別に、弁当コーナーにあった美味しそうな一品を取れなかったから機嫌が悪いわけでは、決してない。決してないのだ。
 はっきり言ったところ、僕は菌だの何だのと言って接触した手を拭こうとしてくる、そんな白粉に対して機嫌を悪くしていた。
 初めて会った時から、ずっとこんな調子じゃないか。最初は逆潔癖症だなーとか、小学校にそういえば誰それに菌があるなんていう苛めがあったなーとか、そんなしみじみとした感想と抱いた程度で、別にイラつくなんてことはなかったのに……。
 最近になってから、どうにも胸の内がむかむかして仕方がない。ずっとこの胸のむかつきの正体は何だろうと考え続けてきたけど、今日になってとんでもない結論に辿り着いてしまった気がする。だが、自分の抱く心の正体に気づいてしまった以上、男としては積極的に行くしかあるまい。
「あの、すみません。私、何か気に障るようなことしましたか?」
 僕はひょっとして怖い顔でもしていたからだろうか。白粉は心配そうな、不安そうな表情をして聞いてくる。
「別に? 何も気に障ってはいないよ。ただ、言いたい事がある」
「はい。えーと、何でしょうか?」
 この瞬間、僕は白粉の手を握った。強く、しっかりと、決して離さないように。
「あ、あのっ! ささっ、佐藤さんっ、そんなにしたらまた菌が――」
「白粉花!」
 真剣な想いを込めて、名前を呼んだ。すると白粉は慌しくしていた口を止め、緊張しながら僕を見つめ返してくる。
 僕は言った。
「白粉、お前に菌なんてない」
「えっ、でも……」
 顔を背けて肩を縮め、自信なさげに萎縮してしまう姿を見て、僕は握った手にさらに力を込めた。
「菌なんてない! だってお前は、こんなに綺麗じゃないか!」
 後で思い出したら恥ずかしくなるとか、人に聞かれたら絶対に笑われるとか、色々とリスクを孕んだ台詞だったかもしれない。だけど、それでも一度言っておかずにはいられなかったのだ。白粉ほど可愛い女の子に、菌なんてあるわけがない。
「そんな、私なんて……。綺麗、なんかじゃ……」
 白粉は顔を真っ赤にしつつ、それでも後ろ向きに沈んでいく。僕は一瞬、そんな白粉をどうすればいいのかわからなくなるが、ここで男が引いてはいけないんだ。白粉にどんな過去があるのか、以前イジメでも受けていたのかは知らないが、そのために気持ちを沈めてしまうのであれば、僕がその分引き上げてやる。
「お前がどう思ってようと、少なくとも僕にとっては綺麗だ。だから菌なんていないし、だいたいそんなこと言ったら、人間の皮膚には誰だって何かしら付着してるんじゃないのか?」
「えーと、すみません。私、菌の種類までは……」
 種類などと、こいつは最後の一文だけ聞いて前半の台詞は聞いていなかったのか? いいだろう。だったら、何べんでも繰り返してやるまでだ。
「白粉花は充分綺麗な子だ。だから菌なんていない」
 僕は顔をぐいっと押し寄せ、力を込めて言葉を発した。
 そうしたら……。
「えっ……ぐっ……」
 声だけ聞いて、一瞬何かと思ったが。
 白粉は何と泣き出した。ぐすん、と肩を振るさせながら、片手で自分の涙を拭う。僕が握ったままだから、右手は使えないのだ。
「お、おい。もしかして、僕の方こそ変なこと言っちゃったか?」
「違うんです! その……嬉しくて」
「嬉しく――て?」
 僕はてっきり、自分の過ちで女の子を悲しませてしまったのではと不安になっていたから、これにはどんなに安心したことだろう。まったく、随分ひやひやさせられた。
「ほんと、すみません。そんな風に言ってもらえたの、初めてで……。だから嬉しいくて。なのに涙が……」
 僕は白粉の頬に手を当て、こぼれた涙を指で拭った。その力加減のせいで、白粉の首の角度が変わってしまい、僕達は視線を重ね合う形になる。
まずい、緊張する。胸の内側で心臓が早鐘のようになっているのがわかるどころか、鼓動の音までもが鼓膜に伝わってくる。こうも僕がドキドキしているのは、単純に女の子と目が合っているからか?
 いや、違う。白粉花と目が合っているからじゃないか。スーパーで初めて出会って、ハンカチで手をごしごし拭かれた時から、僕はずっとこの想いを抱き続けていたのだと思う。
 菌がどうだのに苛々したのも、そのせいなんだ。
 だから、伝えなければ。
 この胸の奥にある、もっと大事な気持ちを……。

「白粉、好きだ」

 僕は柔らかな体をそっと抱き寄せ、両腕で包み込む。白粉は抵抗なく、ただ黙って胸に顔を埋めてくる。
「はい、佐藤さん」
 背中を抱き返された時、僕にはしっかりと白粉の想いが伝わってきた。
 良かった、受け入れてもらえたんだ。
 僕の中にあった苛立ちは、すーっと消滅していった。

 ――翌朝、僕は白梅梅に殺された。僕は死んだ。



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