気づいたらここにいた。
「え!?」
まず真っ先に、新條美鶴は困惑していた――といっても、その表情の変化は、傍からすれば実に乏しく、そう焦っては見えないだろう。
事実、美鶴はこの状況にしては冷静だ。
もっと大袈裟に慌てふためき、パニックを起こしても良さそうな状況下で、少しばかりしか焦ってはいない。その少しの焦りすら、すぐに自制心の中に閉じ込めて、己の精神を少しでも状況分析へ傾けていた。
「――どこ?」
美鶴は周囲を見渡した。
設置されているロッカーやテーブルに、風景写真を額縁に飾った壁から、シャンデリア風の照明を吊した天井の、どれもこれもに一切の見覚えがない。いつから自分はここにいて、どれくらい立っていたのかが、まるでわからないわけだった。
明晰夢というのも違う。
むしろ、今の今まで夢でも見ていて、突如として意識が現実に返ったように、美鶴は気づけばここいた。いつ、どうやって、自分はこの部屋の中にやって来たのか。ここは一体どこなのか。何一つとしてわからなかった。
夢遊病にでもなって彷徨い歩き、到達した先で目を覚ませば、ちょうどこういう感覚に陥るだろうか。
だが生憎、夢遊病にかかったことはない。
だいたい、このわからない状況で、しかも格好すらおかしいのだ。
一体どうして、全裸なのか。
一糸纏わぬ姿でもって、こんなところにぼーっと立っていたわけらしい。服を脱いだ覚えもないのに、丸裸でいる事実に困惑して、美鶴はすぐさま自分の荷物や服を探すが、テーブルに置かれたカゴに服はなく、ロッカーのどれを開けても、荷物一つすら置いていない。
本当にわけがわからない。
ただ、美鶴の脳裏には既に一つの仮説が浮かんでいた。その仮説の通りであれば、気づいた途端に見知らぬ場所に立っていて、しかも服を脱がされていることの説明がついてしまう。
是非とも外れていて欲しい説なのだが、知らないうちに夢遊病にかかり、ご丁寧に服まで脱いで迷い込んだのでもない限り、残念ながら当たっていることだろう。
「まずは思い出すことね」
美鶴は顎に指を当て、ゆっくりと目を瞑り、冷静に思考した。
説が当たっているにせよ、いないにせよ、その思考作業は欠かせない。
「まず、学校へ行った記憶はある。陽衣菜、沙弥子……友達に会って、会話をした記憶もあれば、話した内容もある程度は思い出せる。その後、今日は部活のない日だったので、放課後すぐに学校を出ていたはず」
朝起きてから、学校で過ごした記憶を順々に辿っていき、三人一緒に通学路を歩いたところまでを思い出す。さらには駅で電車に乗り、それぞれ家の方向が違うので、陽衣菜や沙弥子とは途中で別れ、一人電車に揺られてつり革を掴んでいた。
そして電車を降り、駅から出たという記憶まではある。
記憶が欠落しているのは、駅を出てから家までの部分であった。
「なるほど――」
となると、やはり説は当たりか。
この状況は誘拐事件に巻き込まれてのものとしか思えない。
下校した記憶はあっても、家まで辿り着いた記憶がない。
ならば道のりの途中で何かに遭い、手口は不明だが誘拐され、服を脱がされた上でここにいる。つまり、それを実行した犯人が存在しているわけで、そう思うと夢遊病の方がマシなのだが、下校最中に急にフラフラと歩いて行って、知らない場所で目を覚ますのと、誘拐された結果として見知らぬ場所にいるのでは、残念ながら誘拐説の方が現実的だ。
「最悪極まりないわね」
どこのどういう人物か、人数はどれくらいか。
道端の女子高生を攫うには、車は必須と思うのだが、駅から家への道のりを進んだ記憶はあっても、具体的のどこで誘拐され、どうやって捕まったのか、肝心の情報が出て来ない。
道のどの当たりで捕まったのか、そこからして思い出せない。
道を歩いたという事実自体は記憶にあっても、一体何メートル歩いたのか。どの地点から記憶が欠落しているのか。それを具体的に思い出し、地図に印でも付けられればよかったが、これ以上は記憶がはっきりしない。
他の記憶はある程度まではっきりしているが、家にかけての徒歩の道のりに限って、モヤがかかって朧気だった。
その道を歩いた、という漠然とした事実だけの記憶があって、どの辺りまで進んだのかを思い出せなかった。
「強いショックを受けると、前後の記憶がなくなるというやつかしら」
そう考えれば、やはり辻褄が合う。
誰かに襲われたのなら、たとえ記憶は曖昧でも、襲われたことの記憶自体は残っていてもいいはずだ。ところが誘拐犯の人数や手口など、犯人に関わる情報が出てこないのも、前後の記憶をショックで喪失したことで説明がつく。
となると、あるべき戦慄が胸を漂う。
この建物の中には、美鶴を誘拐した犯人がいるわけで、ドアも外から鍵をかけられていることだろう。試しにドアノブを握ってみるが、やはりドアは開かない。もう一方のドアもあるが、そちらもどうせ開かないだろう。
「脱走したいところだけど、現実的にそんなチャンスはあるものかしら」
あってもらわなくては困る。
女子高生を誘拐する理由など、そういうことに決まっている。人身売買のような組織犯罪が存在して、それに巻き込まれたとは思いたくない。せめて個人の犯行であって欲しいところだが、いずれにせよ、まともな運命は辿るまい。
「というより、既に犯されていないといいのだけど」
剥き出しのアソコに意識をやる。
が、痛みはない。
処女の自分が犯されれば、大なり小なり痛みが生じて、おそらくはズキズキとした感覚が残るはずだが、それがないということは、今のところそういうことは起きていない――と、思いたい。
「さて、方針を考えるべきではあるけど、その前に……」
美鶴はテーブルの前に足を運んで、置かれたカゴの中身を見る。
先ほど、衣服や荷物を求めて部屋中を探索した際、このカゴの中身には真っ先に気づいていた。そして、誰がこんなものを着るものかと、心の中で一蹴したものだったが、他に下着の一枚すらない以上、全裸よりはマシと思うしかない。
「マイクロビキニ、ってやつよね」
指でつまんで持ち上げる。
まずはブラジャーの方を見てみるが、この限りなく小さな三角形では、乳首だけを綺麗に隠して、その周囲は丸出しとなるだろう。ショーツの方も、前側の布は量が少なく、後ろに至ってはT字状に紐を繋げただけときている。
「いっそ、裸でもいいかしら」
と、微妙に思う。
こうまで露出度が高く、しかも変態チックな水着となれば、かえって裸よりも恥ずかしい気もしてくる。とはいえ、乳首とワレメは一応隠れるので、やはりないよりはマシであるような、どちらともつかない衣類だ。
だから他に服などないにも関わらず、美鶴はしばし迷っていた。
いっそ裸のままでいいという選択肢が脳裏をチラつくほどまでに、マイクロビキニに対して引き攣っていた。
ある種のコントロールのようにも思う。
服も荷物も奪っておけば、そこにある衣類に手を伸ばすしかなくなるのだ。選択肢を奪った上で、それ以外に道がないようにしてやるだけで誘導が出来てしまう。
誘拐犯は美鶴にこれを着せたがっているわけだろう。
その意図に従うのは癪なので、全裸のままでいるという選択肢は、美鶴の中でもう少しだけ大きくなる。
全裸か、マイクロビキニか。
こんなふざけた二択から選ぶ羽目になろうとは、まったく思いもしなかった。
「まあいいわ」
本当に癪で仕方のない話だが、美鶴はマイクロビキニを身に着ける。白い小さな布が乳首を覆い、ショーツを穿けば肉貝だけをぴったり隠し、全裸との違いの少ない、申し訳程度に恥部を守っただけ姿となる。
レイプに抵抗する際は、相手を手こずらせる要素のある方が、多少は抗いきれる可能性があるだろう。
もっとも、こうした犯罪を起こす手合いなら、きっと凶器の一つや二つは持っており、それに複数犯かもしれないのだ。実際には抵抗しない方が身のためで、大人しくやられた方が逆に安全かもしれない、最悪の予感に背筋を凍りついていた。
*
艶のかかった黒髪ロングは、さながら磨き抜かれた黒曜石のように輝いて、気の強そうなツリ目は顔立ちを凜々しく見せる。美貌の中に少々の格好良さを兼ね備えたのが、新條美鶴という少女のルックスだ。
そんなツリ目の彼女は今、身に着けてみたマイクロビキニの自分を見下ろし、見るからに顔を顰めていた。
やはり、乳房はほとんど丸見えで、茶碗を少し上回るか否かの、半球ドームのような美乳の形状も丸わかりだ。
あまりにも小さな三角形は、乳輪を辛うじて覆い隠しているものの、布面積は本当にギリギリである。指の第二関節にも満たない直径は、美鶴の乳輪が大きなものであったなら、きっとはみ出ていたことだろう。
アソコもアソコで、一応のところ覆いきれてはいるものの、やはりギリギリもいいところだ。三角コーンのように細長い三角形は、アソコの表面積にぴったりと一致したように、どうにか肉貝や陰毛地帯に張りつくも、後ろ側は紐状のTバックで、だから尻は丸出しと変わらない。
「本当に裸よりマシなのかしら」
格好の変態性を思えば思うほど、それは疑問になってくる。
「まあいいわ。犯人からのメッセージ、拝見させてもらおうじゃない」
美鶴の視線は再びカゴの中へと移る。
着替える最中に気づいたのだ。
これら水着を持ち上げると、その下に二つ折りの紙切れがあったので、もしやメッセージでも書かれているのではと、先ほどから思っていたのである。その二つ折りが半開きに、中身の文字が微妙に見えかけになっていたので、やはり何らかのメッセージであることを確信していた。
それを手に取り、目を通す。
『新條美鶴、あなたは今、マッサージ店を訪れています。
店を訪れたお客様である以上、用件を果たすまで帰ることはありません。
店主のマッサージを受けましょう』
読んでみての感想は、まずこうだ。
「わけがわからないわね」
さしずめ、そういう設定ということか。
ここに書かれている通り、本当にマッサージを受けろというなら、つまり犯人はそういう企画意図を持っていることになる。単にレイプ目的で攫ったり、犯罪組織が人身売買をやっていたり、どこかの国による日本人拉致ということでもなく、攫った女性を企画意図に従わせ、それを楽しもうというわけだ。
美鶴にも性的な好奇心はあり、だから恥ずかしながら、アダルト関連の検索をした覚えはある。そのおかげか、マッサージを題材にしたアダルト動画の存在は知っており、犯人はそれを現実に行おうとしているのだろう。
「デスゲームのつもりでもあるのかしら」
他にも美鶴は、それを連想していた。
複数人の男女が見知らぬ場所で目を覚まし、生きて帰りたければゲームに勝てと、主催者に強要される。そういった筋書きの作品を一度は見た覚えがある。こんなことをしてくる犯人なら、それも意識のうちにありそうだ。
だとしたら、この部屋には監視カメラがあるのだろうか。
見てわかりやすい設置はされていないが、犯人はどこからか美鶴の様子を鑑賞して、楽しんでいるかもしれない。
想像したら、腹も立ってきた。
「で、ならあっちは開くのかしら」
二つあるドアのうち、一つは試しにドアノブを握っている。当たり前のように鍵がかかっていたので、もう一方のドアもどうせ開くまいと、最初から触りすらしていなかったが、物は試しで握ってみれば、どうやらこちらは開くらしい。
ドアを開いた向こうの部屋へと、美鶴は足を踏み入れる。
「マッサージルームってわけね」
なるほど、後ろの部屋は更衣室か。
企画意図の犯行で、わざわざ施設まで用意して、本当にご苦労なことである。犯人は大金持ちか何かだろうか。
マッサージルームには、まず部屋の中心に施術台が置かれていた。就寝用のベッドと違い、人が横たわりさえできればいい、ベンチの座板よりは広い程度の面積で、真っ白なシーツが掛かっている。
その近くにはキャスター付きのワゴンがあり、アロマポットやオイル瓶にいくつかのタオルなど、施術に使うのだろう道具が置かれている。さらに周囲を見てみれば、大理石のタイルを敷いた床の作りに、絵画をかけた壁、観葉植物の配置といい、そこそこに雰囲気を出そうとした部屋である。
「植木鉢って、鈍器になるわよね」
使えそうなものを心が求めていた。一体どう犯人に対抗しようかと、かなり物騒な考えを脳裏には浮かべていた。
その時だった。
ぎぃぃぃ――
と、聞こえる軋んだような物音に、美鶴はさっと強張っていた。
誰か、来る。
美鶴がこの部屋に入って来たのとは、また別のドアがゆっくりと、蝶番の音を立てながら、だんだんと開いている。
緊張感が一気に高まった。
ドクンと心臓が弾み上がって、その表情には少しばかりの汗を浮かべる。
(来るわね――)
犯人との対峙である。
人を攫い、こんなところに監禁した上、服や荷物を奪った相手である。あのふざけた紙切れには、マッサージなどと書いてはいたが、人の裸体を見た途端に、ケダモノの本能を剥き出しに襲ってこないとも限らない。
その時、果たして抵抗できるだろうか。さしもの自分も恐怖に凍りつき、まともに身動きすら取れないことになるだろうか。
恐怖を制して動けたとして、下手に抵抗すれば逆上され、殺されはしないか。
目の前に現れようとしている犯人への、浮かぶ思いは身の安全や生死に関わる緊張感だ。生まれてこの方、こんな緊張感を味わう機会があろうとは、まったく人生とはわからないものである。
(とにかく、犯罪者なりに少しは紳士でいて欲しいところね)
たとえ抵抗できず、体を許す羽目になっても、殴られながら犯されるのは真っ平だ。同じヤられるなら、優しく丁寧な方が多少はマシだと、しかしやっぱり真っ平なので、ヤられる前に殺れはしないかと、美鶴は部屋を改めて見渡して、凶器に使えそうなものを目で求めていた。
しかし、現れた犯人を見た途端、何故かそんな気はなくなった。
あ、そうだ。
マッサージ……受けないと……。
急にくらっと頭が揺れ、不思議と思考がブレてしまう。
(おかしいわ。今、どうして――)
自分は今、一体何を考えたのかと疑問にしつつ、美鶴はその男と対峙した。
コメント投稿