「うちのクラスから、一人隔離されたって」
恋人の口から不意に出て来た言葉に、高橋雄一はまず持って顔を顰める。
「マジかよ」
「昨日ね。聞いたの」
アプリを使ったやり取りで、友達から得た情報らしい。
それを世間話に過ぎないように口にしているが、雄一は内心で冷や冷やしている。例のウイルスに対する治療法は確立しており、早期発見の場合は後遺症を残すこともなく完治できるとは聞いているが、隔離を受ければしばらく学校には行けないし、愛しい恋人の顔も見ることはできなくなる。
雄一の前にいるのは、赤夏聡美という同じ中学出身の女の子だ。
中学在学中に好きになり、卒業間近に告白した後、OKを貰って付き合い始めた。その頃にはお互いに志望校は決めており、ともすれば別々の高校に通っていた可能性もあるのだが、幸いにも同じ学校を志望した上、一緒に合格することができたのだ。
だったら、彼氏彼女として登下校を共にしたい。
電車通学の電車に一緒に乗り、毎日のように喋ったり、こっそりと手を繋いでみたいするのが日常の楽しみである。
それから、もっと先のことも……。
もうキスはしたことがあるものの、男としてはもっと先を望むに決まっている。ゆくゆくは家に呼ぶなり、あるいは聡美の部屋の方へ行くなりして、二人きりの濃密な時間を過ごしたいものだが、聡美は根が真面目だ。
きっと、日頃しゃきっとしていなければ、そういうことは許してくれない。
まず見た目からしてそうである。
前髪を切り揃えた三つ編み眼鏡のルックスは、古典的な文学少女のイメージそのままだ。本を開いた姿は絵になるが、実際に読書を趣味としているらしく、雄一が初めて聡美に声をかけたのも、教室で呼んでいる児童文学のタイトルがたまたま目についたからである。
自分も同じ本が好きだったので、それをきっかけに可愛い女子と喋ってみたい。
目論見通り、話を弾ませることに成功して、しまいには本の貸し借りまでするようになったのだ。最初は可愛いから声をかけただけだったが、人となりを知るうちに、しだいに本当に好きになってきて、今では交際真っ只中というわけだ。
*
赤夏聡美は知的である。
「武家に生まれたら死ぬまで武士、商人の子も死ぬまで商人。って思っている人は多いかもしれないけど、江戸自体には身分の売り買いが行われていたの」
歴史の授業を受けた際、何のきっかけだったか身分の話になり、その時に聡美が語ったのは、日頃の勉強や読書量から得た知識だった。
学校での勉強をきちんとしていることもさることながら、聡美はかなり博識だった。
「遺体の死亡推定時刻を調べるにはいくつかの方法があるけど、その一つして虫による判定があるの。ハエが来たり、ウジ虫が湧いたりするでしょう? その虫を手がかりにするっていう方法ね」
学校教科だけでは得られない、様々な本からの知識が聡美の頭には詰まっている。
ギリシャ神話や北欧神話、メジャーな神話は知り尽くし、聖書まで読んでいる。歴史関係の書籍で、古代人が実際に取ったとされる戦法を知っている。様々な動植物についての雑学がある。漫画や小説を書くという面々が、何か良い資料はないかとオススメの本を聞きにくることまであるほどだ。
その博識ぶりはいつしかクラスで尊敬されるようになり、歩く図書館とまで言い出す先生までいた始末だ。
その上、聡美はそこそこに運動神経が良いときている。
さすがに運動部ほどではないにせよ、インドア派とは思えないほどに足が速い。ドッヂボールで豪腕女子の豪速を受け止めたり、バスケットボールでそれなりのボール捌きを披露する。
「幼稚園と、あと小学校の頃までは色々と習っていたから」
というのが運動神経の秘密らしい。
「その時は体を動かすのが好きだったから、テニスにもサッカーにも興味を持ったし、今でもジョギングくらいはしているかな。ほら、ずーっと座ってるって、エコノミー症候群の危険があるから、適度な運動とストレッチは大切だし」
そんな風に語る聡美に対して、これは読書のプロだと感じたものだ。
「今は姿勢を維持したり、頭をすっきりさせた状態で読むためにしか運動はしてないかな」
本人はなんてことないように言っていたが、つまり本を読むためだけに肉体のコンディションを調整しているのだ。だから、日がな一日引きこもって過ごす人間に比べ、筋トレとジョギングを欠かすことのない聡美の方が体力は優れているし、頭をすっきりさせると勉強に集中しやすいとも言っている。
運動神経は多少優れる程度で済んでいるから、絵に描いたような万能超人とまではいかないが、その領域に片足くらいは突っ込んでいないだろうか。
中学生の頃、そんな聡美に言われたことがある。
「勉強、ちゃんとやってるの?」
それはテストで微妙な点数を取った時のこと。
当然のように九〇点以下は取らない聡美に対し、雄一は自分の点数を見せにくく、少々気まずい思いを味わったことがある。
「やるべきことをやっておかないと、漫画もゲームも集中できないと思うんだけどな。先に色々と済ませちゃうのが普通の感覚じゃない?」
いいや、逆だ。
漫画の続きが気になって、つい勉強の手を止めて読んでしまう。ゲームの攻略のことが頭にあり、そちらが気になって集中できない。小説の続きを読みたい、SNSの通知が見たい。人間の集中力を削り落とす要因は実に様々だと思うのだが、どうやら聡美には、宿題や予習復習が終わっていないと遊びや娯楽に集中できない、という感覚が備わっているらしい。
もっとも、その時のテストの点数も、ある意味では仲を深めるきっかけとなった。
「あ、そうだ。なら私が勉強を見てあげようか?」
聡美がそう提案してきたことで、図書室や図書館で二人一緒に過ごすといった照れ臭い時間が生まれるようになり、おかげで雄一の成績も上がったのだ。
最初は集中できなかった。
すぐ近くにいる聡美のことが気になって、勉強が手につかなかったが、彼女の声や言葉で教えられた内容は、それでもすーっと頭に入ってきた。難しい顔で教科書を読んでみたり、参考書の解説に目を通してみるよりも、ずっと吸収が良かったのだ。
高校受験で問題なく合格できたのも、もっぱら聡美のおかげだろう。
自分ごときの本来の集中力だけで続けていれば、余裕をもって自信満々で合格を確信するなど、とても出来ることではなかったはずだ。
*
「隔離ねぇ。酷いような、仕方ないような」
「自分が隔離されるのは嫌だけど、治療はしてもらえるんだし、他にしょうがないんじゃね。反対意見を述べようにも、代案が出てこないっていうか」
「だよなー」
電車の中、雄一は天を仰いだ。
もう十五年以上も前、凶悪な感染ウイルスが世界中を震撼させ、人類全体をパニックに陥れるという事件があった。それが歴史的な出来事として教科書に載るのは言うまでもなく、その当時のウイルスは今でも変異を繰り返し、タイプ別となって流行を続けている。
長年の戦いから、対処法は確立している。
だが、どんなに対処法が発達しても、局所的な流行そのものは避けられない。
もはや地震や台風と同じ認識だ。
どんなにレスキュー能力が向上しても、災害そのものをなくすことはできない。人間にできるのは、起きてしまった出来事に対処することだけだ。ものがウイルスである以上、もちろんワクチン開発は行われるが、それも確実なものではない。
変異の繰り返しがあるので、ワクチンによる予防確率はそう高いものではない。変異予測のノウハウは蓄積しており、変化を先読みしたワクチンや治療薬の開発は絶えず行われているが、天気予報と同じで変異予測は外れる時は外れてしまう。
身体への影響を考えると、同時に打てるワクチンは一度に一種類であり、二種類目や三種類目を打つためには、数週間から数ヶ月の期間を空けなくてはならない。予測を外したワクチンでは感染確率を低めることができないのだ。
しかし、病院に行けば複数のパターンを予測した治療薬が常備されており、早期発見であればほとんどの確率で完治可能だ。
では、もしも発見が遅れ、重症化すればどうなるか。
症状が進むと体中に大量の斑点が浮かび上がり、表皮におびただしい数の裂傷が出来て出血が止まらない。臓器も腫れ上がり破裂するなど、かなりグロテスクな死に様になるという。
死後の遺体はウイルス爆弾となり、それまで体内で繁殖したウイルスが大気中に拡散する。
重症患者を確実に死に至らせる凶悪なウイルスとなれば、局所的な流行の時点で、市町村などの一部地域で流行った時点で鎮圧する必要がある。
そこで取られる方法が、検査の義務付けや隔離である。
流行地域と見做された地域に住んでいたり、一定期間内に出入りしたことのある人間は、検査を受けなければ軽度の罰則を受けることになる。感染が発覚すれば完治するまで隔離となり、隔離を破って許可なく町を徘徊すれば、それはテロ行為の一種と見做され、この場合の罰則は重度のものとなる。
法的に隔離して、完治するまで外に出さない。
当然のやり方かもしれないが、そのあいだは学校には行けないし、デートなど以ての外なので、自分がそうなるのは嫌だな、と思うわけである。
言うまでもなく、聡美が感染するのも嫌だ。
聡美に会えない時間ができて、聡美に会えずに悶々として過ごすのは、できれば遠慮願いたい。
しかし、災害と同じで来る時は来てしまう。
自分には一生関係のない出来事でありますようにと、定期的なワクチンを打ちながら、せいぜい祈りながら生きていくしかない。
「ま、隔離されるってことは、治って帰って来るってことでしょ? いつ誰が体調不良を隠していて、風邪を移されちゃうかなんてわかりもしないけど、治りたてってある意味では一番清潔じゃない?」
「面白いね。聡美の考え方」
「そう? でも当たり前だと思うの。実際、風邪では何も差別しないのに、あのウイルスだったら差別する風潮があったって聞くでしょ?」
「まあ、風邪より怖いしね」
「治せないものを移されたら、って考えるとね。ちょっと差別しちゃうかもしれないけど、治るんならいいじゃない。急に自分がかからいとも限らないんだし、普段から避けたり何なりするわけにもいかないでしょ」
「それもそうか」
感染したら、という考えは自然と抱いてしまうものだが、風邪では特別に差別しない。そして今回のウイルスも治療すればきちんと治る。だったら、過度に恐れても仕方ない。
「あ、そうだ。今度ね、お父さんに誕生日プレゼント買うんだ」
急に思い出したように言いながら、聡美は雄一のネクタイに手を伸ばす。
ブレザーを纏った胸に手を当てて、それから首元のネクタイに指をかけ、ほんの少しだけ引っ張る仕草に、雄一は胸をドキリとさせる。
「……聡美?」
胸に手の平が触れた瞬間、心臓の跳ね上がる鼓動が聡美にも伝わっていそうで、雄一はどぎまぎしながら照れくささに視線を逸らす。
「ネクタイ、でいいかなー。何か選んであげたいけど、ケーキまで作るのは面倒っていうか。何かプレゼントしたい程度には好きなんだけどね」
聡美は構わず真っ直ぐに目を向けて来ていた。
「ネクタイか。ハンカチとかは?」
「じゃあ、それも候補ね」
「財布。ああ、でも増えても困るかな」
「うーん。どうかな? 候補にはしておく――で、ついでに聞くけど、雄一なら何が欲しい?」
「え、俺? 急には思いつかないけど、なら俺もハンカチとか……」
高価なもの、手間のかかるものを用意しろとは、自分からは言いにくい。
ただ何か、それなりの物だったら嬉しい気はする。その、それなりが何かを聞かれても、急には思いつかないわけなのだが、例えば愛情を込めて作ったお菓子だろうか。どうにか浮かんできたものは、クッキーだのケーキだのといったものだったが、手間のかかるので口を噤んだ。
「お父さんにあげるものより、もうちょっといいものをあげよっかなー。なんて」
悪戯っぽい笑みを浮かべて、聡美は雄一の顔を見上げてくる。
そんな可愛い顔で迫られると、目のやり場に困ってしまう。ドキドキする上、照れ臭くて視線を合わせていられない。そういえば電車の中で、人目もあることを思い出し、ますます気恥ずかしくなってきた。
「あ、えーっと、あれだ。聡美がくれるものなら何だって……」
「それ禁止」
「えぇ……」
「本当に何でもいいなら、公園で石でも拾って来ようかな」
「じゃあ、お菓子。とか?」
結局、手作りの手間がかかりそうなリクエストを口にしてしまうが、聡美は嬉しそうに微笑みながら頷いた。
(何か、作ってもらえるんだ……)
急に誕生日が楽しみになってくる。
「私の誕生日にもリクエストがあるの。耳貸して」
聡美がそう言うので、雄一は軽く耳を近づけると、小さな声でひっそりと耳打ちしてくる。その言葉を告げた途端、聡美は真っ赤に染まり上がって、恥ずかしそうに俯きながら、チラチラと上目遣いを向けて来るのだ。
雄一も赤くなっていた。
(ま、マジか……)
衝撃さえ受けながら、頭も心臓も爆発しそうになっていた。
……雄一が欲しいから、部屋に来てもらうね。
それが何を意味するか、わからない雄一ではない。
しかも、二人の誕生日は近いのだ。
雄一の誕生日が終わったら、その数日後に聡美の誕生日が来るわけで、つまり来たるべき瞬間は迫ったと言ってもいい。
(そうだ。予習、しないと怒るよな。避妊とか、そういうの。聡美は絶対にしっかりしているから)
聡美の性格なら、まずもってしっかりとした意識を持っていることを伝えなければ、きっと落ち着いた気持ちで受け入れてはくれないだろう。ゴムや避妊の話ばかりでなく、宿題や予習復習すらしていなければ、する資格はないと言ってきそうだ。
(よし、しっかりやるぞ)
心の中に決意を固め、雄一はこっそりと手を伸ばす。
指を聡美の手の甲に触れさせると、聡美の方からも手を動かして握ってくる。手を繋ぎ合い、お互いに照れ臭そうにしながらの通学電車は、いつもよりも長いような短いような、どちらともいえない不思議な時間を過ごした気がした。
*
その日、赤夏聡美は紳士小物を扱う店を訪れていた。
彼氏に話した通り、父親の誕生日プレゼントを選ぶためなのだが、その最中に見かけた客に顔を顰めた。
(うわっ……)
タンクトップで二の腕を剥き出しにしている男であった。
一瞬、まだ長袖の時期なのに寒くはないのかと、ずれたことを思ってしまったが、鍛え込んだ立派な筋肉には刺青まで入っている。その上、強面のサングラスとなれば、もはや暴力団か何かを彷彿する。
(ちょっと関わりたくないな)
見た目が怖いだけで、実際には何も起きないだろう。
あちらも商品を選んでいるだけで、聡美はもちろん、他の客や店員に何か絡んでいる様子はない。早く買い物を済ませて帰ればいいと、聡美は商品棚のネクタイだけに意識を注ぐ。予算額に収まる中で、どれが一番いいだろうか。
その時だった。
それは突如として、何の前触れもなく起きる出来事だった。
物事には必ず順序が存在する。
しかし、何がどうして起きる出来事なのか、ただその場に居合わせただけの人間にはわからない。何の事情もわからずに、うろたえるばかりとなる。
「え? え?」
聡美は困惑していた。
白い防護スーツを身に纏った何人も人々が突入して、店内の客を一人一人チェックしていくこの事態は何なのか。
「男性五名、少女一名、あとは店員だ」
「了解」
この場に居合わせた人数の報告を行っていた。
見れば店は封鎖されていた。
この店はガラス張りになっていて、マネキンに着せた紳士服の見本を路上に披露するように作られている。そのガラスの向こう側で、同じく防護スーツを纏った面々が横一列に立ち並び、出入りを封じてしまったのだ。
「これって……!」
聡美はようやく理解した。
――感染者だ。
ここに感染者がいるという情報があり、だから機関が出動してきた。
この運の悪さに聡美はぞっとする。
怖いのは病気そのものとは少し違う。
ここにウイルスの保有者がいたせいで感染しても、それ自体は治療可能なものである。重症患者の末路は知っているし、ふとした拍子に死亡者のグロテスクな画像を見てしまった経験もある。極めて悲惨な死に様の画像は、恐怖を煽るには十分すぎるほどの効果を持つが、しかし治るのだから怖くはない。
自分が重症患者でないことさえわかっていれば、ひとまずそこはいい。
恐怖はそこではない。
政府がやむを得ずに行う対応措置の方が聡美には怖い。
初期症状であっても、感染さえしていれば最低でも数日、長ければ一週間以上の隔離を受け、そのあいだは学校に行けず家族にも会えない。それに対する不安が大いにある。どうか自分が感染者でありませんようにと祈りたくもなってくる。
だが、それもまだ怖くない。
感染しているか否かをまず調べ、隔離期間はその後に決定するものなのだ。
いつか爆発する爆弾と、数秒後に爆発する爆弾なら、一体どちらが怖いか。不安は不安でも、少し先に対する不安と、より間近な不安なら、目の前に対する思いの方が大きく膨らむ。
(い、嫌……)
不安のあまり、聡美は我が身を抱き締めた。
この防護スーツの面々は、一体どのような経緯で出動して、どういったわけでこの店に突入してきたのか。
今はそれさえどうでもいい。
聡美が最も不安に思うのは、どうあれ感染者と同じ空間にいたことで、検査が必須な状況に置かれたことである。
――検査方法が怖いのだ。
ウイルスの感染者は、初期症状としてまず身体に斑点が浮かび上がる。その斑点が数を増やし、広がって、体中のいたるところで腫れ上がっていく末に、破裂のように全身に裂傷が出来上がり、激しい痛みと止まることのない出血で亡くなることになる。
唾液や血液検査など、手軽にやりやすい方法では感染者を発見できない。
CTスキャンのような医療機材による検査も、ある程度進行して臓器に影響が現れている場合のみしか有効ではない。まるで身を潜めるようにして、自覚症状無しの段階におけるウイルスは、唾液と血液からは発見できない。
このため、もっぱら目視による表皮の視診という方法に頼らざるを得ないという。
性別など関係無い。
男も女も問うことなく、検査のために裸にされる。
聡美はその運命にこそ戦慄していた。
私、まだ……。
まだ一度も、雄一に裸を見せてないのに……。
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