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 高校一年生の桑野真美は、自分がいつも痴漢を受けているのに気づいていない。
 純白のショーツを穿き、この日も学校帰りに古書店に立ち寄って、真美は気に入った本を探して開いてみる。やるべき宿題があること、帰りが遅くなりすぎるわけにはいかないこと、長居のしすぎは店の迷惑ではないかということもあり、自分では立ち読みに耽りすぎないようにしたいと思っているが、一度でも本を開けば、その文章の世界に溺れてしまう。
 科学本を開けば、そこに書かれる知識の渦に飲み込まれる。哲学書でも、動物や昆虫の本でもそれは同じだ。何を読んでも抜け出せなくなっていて、ハっと気づくと、まるで時間をスキップしたかのように、いつの間にか時計が進んでいる。
 わかっていながら、どうしても長居が増える。
 きっと、今日も長時間の立ち読みをしてしまうが、そのことで店員が何かを言ってきたことはない。それどころか、何度も通っているうちに、軽い挨拶さえしてくるのだ。
 初めて「ああ、こんにちは」などと言われた時は驚いた。
 最初は何事かと思ったほどに驚いたが、冷静に考えてみれば、それほど深い意味を感じさせない、ただ常連の顔を見たからしただけの挨拶だ。特に親しくなろうする目論見はない。オジサンが女子高生と仲良くなりたがってくるような、気持ちの悪い挨拶ではない。常連だから挨拶をすることがあるという、純粋にそれだけの声かけだと、その時の挨拶を冷静に思い出せば理解ができた。
 だから、真美の方からも、顔さえ見れば挨拶はする。
 そして、挨拶をしたからといって、特に世間話をすることはなく、本当にただただ挨拶を交わし合っただけで、全てのやり取りは終了する。出て行く時に会釈をすることもあるのだが、あとは本をレジに持って行く時くらいしか、言葉を交わす機会はない。
 あくまでも、店員と客に過ぎない。
 通っているものだから、ああ、向こうもこちらの顔を覚えたな、というだけの、特にそれ以上の感情は持っていない。
 強いて言うなら、一時間以上は立ち読みをしていても、特に注意をして来ない。たまには買っているが、買わずに帰る立ち読みでも、きっと許してくれているのかもしれない有り難さと、本当は迷惑かもしれない申し訳なさを感じていなくもない。
 今日は小銭を持っているので、何かしら買おうかどうか迷っている。
 ここは古本屋であって図書館ではないのだから、気に入った本を読み返すなら、さすがに買うべきだとは思っている。古本であっても高いものは控えているが、小銭で買える値段であれば時折買う。
 今まで立ち読みしてきた本の中でも、面白かったタイトルを思い出しつつ、真美は本棚を眺めていく。科学本のコーナーに目を走らせ、小説のコーナーを見て周り、お小遣いの範囲で何を買い、何をやめておこうかと考え込む。
 こうして買うものに迷うのも、お金を使う楽しみのうちだ。
 お小遣いは割りに多く貰っているが、学校で使う文房具に、勉強の参考書や洋服に、下着や生理用品まで、全て自分で買わせようという考えで、真美の両親は初めから万単位を与えている。生真面目な真美は散財を控えるべくして、気に入った作者の新作でもない限り、できるだけ古本で読書趣味を満たしつつ、参考書も古本から選んでいる。
 そして、いくらかは必ず貯金だ。
 真美のそういう気質を知ってこそ、自分の母親はお小遣いで何万円もくれるのだとわかっている。たまにであれば贅沢にも喫茶店で散財する日もあるのだが、滅多にはない話だ。使う楽しみは大きいが、貯めることでの安心感を得ていないと、どうにも落ち着かないものである。
 だから、小銭で買える範囲の本しか、基本的には選ばない。
 人気の高い漫画などは、古本としては高めになっていたりする。元々の値段が高いのも、古本として価格が落ちてなお高い。五千円の本が半額で売られていても、無駄遣いを控えたい気持ちで手が伸びない。
「あっ……」
 ふと、真美はその本棚の前で足を止め、咄嗟にレジを確認した。

 ……いない。

 ドアを開いた時はオジサンがいたのだが、真美の存在を知っていながら、どういうわけかレジは空けてしまっている。トイレにでも行っているのか、わからないが、もしも真美が万引きをやる人間だったら、店番もせずに不用心ではないか。
 もちろん、今なら盗めるとわかったところで、普通の一般的な良識を持つ真美は、本当に窃盗を働く意志など持っていない。悪いことが出来そうだと、今ならチャンスだという思いつきが、単なる思いつきのままで終わるのが、まともな人間というものだろう。
 それよりも、真美はわざわざ、周りには誰もいないことを確認して、自分以外の他の客もいないことをキョロキョロと確かめてから、本棚のタイトルに手を伸ばす。指で触れかけ、やっぱりやめておこうかと手を引っ込める。
 傍からすれば、まるで万引きを躊躇って見えただろうか。それらく見える姿が監視カメラに残っていても、少し嫌な気もしてくる。
 だが、真美が躊躇しているのは、そんなことではない。
 万引きをしたいからオロオロするなど、そういうことではないのだ。

『痴漢に気づかぬ女子高生(著・有明文香)』――。

 官能小説が並ぶコーナーに入ってしまい、興味を持ってしまったのだ。
 真美だって、少しは性に対する好奇心を持っている。
 別に、決して、いやらしい子ではないと思う。
 そう、人並みだ。
 自慰行為をしたのも、この人生でも片手で数える回数だけだ。生まれて初めて試した時、多少の快楽は感じたが、頻繁にしてしまうような、エッチな女の子になるのはどうかと思い、控えるあまりに年に一度か二度といった回数しかしていない。
 ただ、妄想はする。
 好きな男の子を部屋に呼び、そういう雰囲気になって押し倒される。そのまま甘くドキドキとしたセックスが始まったり、二人きりの密室でムラムラとした男の子が、まるで助けを求めるかのような目で、触らせて欲しいと懇願してくる。
 それも、恋人と楽しい時間を過ごしたい妄想の延長というべきか、デートをしたり、キスをして抱き締め合ったり、手を繋いで歩くようなことを考える方が遥かに多い。その妄想の末に、たまにはベッドに行き着いて、セックスが始まる場合もあるだけだ。
 人並み程度の興味しか、自分は持っていないはず。
 と、真美自身は思っているが、こうして官能小説の本棚で足を止め、しかも手に取って立ち読みを始めようとしてしまったのは、さすがにどうなのだろう。家に帰って、部屋で一人でインターネットを使うのと、誰かに見られてしまうかもしれない場所で官能小説を読むのとは、話が大きく違っている。
 公共の場、というほどの人目はない。
 しかし、他のお客さんが入って来たり、レジにオジサンが戻ってくれば、少しは見られてしまう場所ではある。外なのだ。家ではない、外でエッチな小説を開いて読み始めるのは、さすがにはしたないのではないか。
 裸で外を出歩かないのが常識であるように、こういういやらしいものに触れるのは、自分一人だけの空間でするべきだ。
 そんな自制心が働くものの、どうにも読みたくなってしまう。
 痴漢に気づかぬ、というタイトルからして、つまり触られていることに気づいていない女の子が登場するのだろう。だとしたら、それはどうしてなのか。眠っているところを触られるのか、何かに集中していて気づかないのか。
 もし、集中していて気づかないのなら、それは真美が読書に集中してしまうことと、どことなく被るような気がするのだ。
(ど、どうしよう……気になる…………)
 そうだ、あらすじだけでも確かめよう。
 裏表紙か、カバーの内側に折り込んだ部分には、その小説のあらすじがあるものだ。あらすじだけでも確かめて、あとは家で確認しよう。インターネットでも、漫画や小説の冒頭は試し読み出来たりする。
 思い切って手に取って、するとその表紙には、本を立ち読みしている女の子のイラストが描かれているのだった。
(これって……!)
 つまり、立ち読みに集中して、痴漢をされても気づかない内容ではないか。
 それは……。
 そうとわかると、途端におかしな妄想が湧いてしまう。自分は集中力が高いから、時間が経っていても気づかない。気づかないから、もしも痴漢をされていても、きっと真美は何も知らずに本を閉じ、この店から帰っている。
 フィクション通りの出来事など起きないだろうが、もしも本当に触られたら、気づかない可能性は十分にある。
 裏表紙には、あらすじがあった。
 そして、その内容を見る限り、それは本当に真美が思った通りの作品で、ただ最終的には快楽にハマってセックスが大好きになり、自ら犯されたがるような結末をほのめかす。いくら何でも、そこはファンタジーが過ぎると思いつつ、けれど実際に本編が気になった。
 帰ってからにしよう。
 これ以上の中身は、部屋でインターネットを使って確かめればいい。
 そうして、今日のところは店を出た。
 



 
 
 

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