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 丸一年は経過していた。
 毎日毎日、負けるとわかっているポーカーをやらされて、『敗北の間』で笑いものにされ続けた。数ヶ月もすれば客足は落ち、もうエリサを目当てにする者は減っていたが、それでも固定の客層が付いているため、エリサを利用した商売自体は終わらない。
 処女などとっくに失っていた。
 展示品扱いやポーカーで、最初は見世物になるだけだったが、やがて支配人はその肉体に手をつけて、さらには売り物にまでし始めた。ギャンブルの景品として、エリサと共に夜を過ごす権利を客に与え、不特定多数との性交まで余儀なくされたのだ。
 行動が制限されているのは言うまでもない。
 魔封じの首輪で魔力は一切封印され、普段の食事にも妙な薬が混ざっている。施設内のところどころにも魔法があり、エリサの脱出を妨害したり、能力を減衰させる効果があらゆる場所に設定され、この一年間をかけても脱走を試みることさえできなかった。
 だが、心は折れていない。
 未だにチャンスはないが、諦めずに内部の構造を頭に叩き込み、支配人や従業員の生活リズムを暗記し続けている。いつ誰がどこにいて、どのタイミングでどこの警備が手薄になるのか、毎日のように計算していた。
 諦めない。
 必ず、いつの日か必ず……。
 思いを胸に生きてきて、そんなある日のことだった。

「素晴らしいです。九重エリサさん」

 支配人がエリサの部屋に現れた。
 広々としたカジノには、地下に居住施設が作られており、エリサにはそのうちの一室が宛がわれている。
 もっとも、いつも監視が付いており、ろくな所持品も持つことは出来ない。
 特に針金や金属片などは警戒され、ゴミにしか見えないものすら持たせてもらえず、エリサに与えられるものといったら、食事と客と恥辱くらいだ。運動制限までされているので、体が鈍らないように筋力を鍛える自由すら与えられず、トレーニングが見つかればすぐに尻を叩かれる。
 自由のない日々の中、支配人は唐突にエリサを称えてきたのだ。
「何が素晴らしいものだ。こんな生活、いつまでさせる気だ?」
「まさに、それですよ。エリサさん、あなたは諦めていませんね?」
「何の話だ」
 その通りではあるが、私は脱走の機会を窺っていますなど、わざわざ宣言する気はない。
「自由にしてやっても構いませんよ?」
「出してくれるのか。なら早く出せ」
「はははっ、まさかただ出すわけがありません。今までのポーカーでも脱出の権を賭けてはいましたが、あなたは一度も勝っていませんね?」
「……ふん」
 白々しい。
 ただ見破る余裕を与えてもらえないだけで、イカサマの存在自体はわかっている。
「ではあなたの得意分野ならどうでしょう。闘技場で戦闘を行い、見事勝利すれば出ていっても構いません」
「ほう? いいのか」
「ええ、いいですとも。それにこの一年、ろくに運動もしていないでしょう。鈍った体を好きなだけ動かして下さい」
 支配人の口元に笑みが浮かんだ。
 ……どうせ。
 真っ当な勝負になるとは思えない。
「受けて立とう」
 その勝負とやらにも、エリサに対する仕掛けが用意されるのだろうが、もしも本当に約束を守る気があって、出してもらえるとしたら儲けものだ。正直、そこに期待はしていないが、闘技場と言うからには、ここにはまだエリサの知らない区画があるはずだ。
 広い地下区画の把握度を上げて、損をすることはない。

     *

 カジノの地下区画にある闘技場には、何種類かの闘士がいる。
 まず、ギャンブルで破滅して、身を売るしかなくなった者が地下へと落ちる。この手の闘士は元は単なる一般人であることも多く、喧嘩など素人である。強いことは極稀で、もっぱら一方的な虐殺で場を盛り上げるためにしか使われない。
 他には捕まった犯罪者が送られてくる。
 犯罪者の場合、こちらも元一般人であることは多いが、恐喝や暴力で捕まったり、盗賊狩りで囚われて来た者が大半のため、戦いを知っている割合は増えてくる。
 そして、大金を稼ぐため、自ら志願して出場する者だ。
 もはや戦いの素人が出て来る余地はなく、騎士や冒険者などが金を欲しがり、危険を冒してでも稼ごうとしてくるのだ。ただの一般人やチンピラなど相手にならず、格下など一方的に嬲り倒す。
 もっとも、殺しは御法度らしい。
 死亡者の出るケースは極稀で、基本的にはただの怪我人しか出ないと言う。その言葉を信じるなら、治療魔法でたちどころに復帰可能だとは思うのだが、出場者に一体どこまで保障があるかはわかったものではない。
 どうせ、金がなければ治してもらえず、適当に放り出されでもするのだろう。
 経営側の良心をまったく信じていないエリサとしては、殺しは御法度というルールでさえも腹の底では疑っている。

 エリサの目の前に、拳自慢の闘士が立っていた。

 見ただけでわかる。
 彼は喧嘩の達人で、殺気立った人間の気配に敏感なのだろう。襲われるかもしれない、殴られるかもしれない予感をすぐに察して、やられるよりも先に自分の方から手を出す手合い。
 エリサはその血筋柄、物騒な世界を昔から見て来ているので、こうした喧嘩自慢の男も見慣れたものだった。
 人間同士の喧嘩ではまず負けないが、国に仕える騎士や腕のある冒険者とやり合うほどではない。確実に倒せる相手といったら、素人上がりのチンピラのみ。一般人相手なら複数人を同時に倒すが、日常的に訓練を受ける兵士あたりでは、一対一でも勝負は怪しい。
 そこらの村や街角でなら、そこそこの強者に数えられただろう。
 だが、エリサの前では敵ではない。
 素手で戦うルールとされ、エリサが身に着けているのはいつものチャイナドレスのみなのだが、そもそも武器など必要ない。

「うおおおおお!」
「エリサちゃーん!」
「今日はどんな恥をかくのかなー?」

 周囲を観客に囲まれている。
 この闘技場は数百人の客を四方の席に収容して、客達は箱型の戦闘スペースを上から見下ろす形となっている。魔法による映像も周囲に浮かぶが、前の席ほど生の戦闘の様子は見えやすく、映像よりもエリサの直接の姿に目を向ける。

『さあ! いよいよとなります!』

 どこからか、実況の声が響いた。
『闇の一族・九重エリサ! その腕で何人もの邪悪を屠った正義の力は、果たしてどれほどのものなのか!』
 そんな煽り文句に繋げて、実況はエリサの生い立ちを語り始める。
「……ちっ」
 エリサは舌打ちした。
 正体を晒すことなく生きてきたのが、こうも大勢に生い立ちまでバラされる。その屈辱感を堪え、ひたすら歯を噛み締めていた。
『対するはただのチンピラ! 町では強いと言われたものの、憲兵にはあっさり捕まり、こんなところまで送られてきてしまった! 女のトラブルで人生は転落! ここから出るには勝利に勝利を重ねなくてはいけないが、不幸にも彼と当たるのは強力な騎士や冒険者ばかりなのです!』
 男の方も馬鹿にしている。
「けっ」
 実況に対して舌打ちするのは、向こうも同じようだった。
(最初は様子見といったところか)
 せいぜい、エリサの強さを観客に確認させるため、わざと弱い相手を用意したといったところか。酒飲みのチンピラ同士の中で強いだけでは、騎士の世界、魔物のひしめく冒険の世界では強者のうちに入らない。
 問題は実力をきちんと発揮できるかどうかなのだが、支配人は言っていた。

 ――試合中は能力減衰を解除しておきましょう。

 そう言って、試合直前に術をかけてもらい、いつもエリサの身体を押さえる封印の力は消えているはずだった。
(本当に問題なく動けるのか?)
 この一年、ほとんど運動などさせてもらっていない。
 どちらにしろ、鈍ってはいるはずだ。
『では両者睨み合い、合図と共に試合開始となっていきます!』
 会場に緊張感が満ち溢れた。
 ピンと張り詰めた空気が漂って、おそらくは目の前のチンピラにも、似たような緊張が溢れている。このカジノも、客達も、エリサのを散々にコケにしてきているが、とはいえ闇の一族に違いはない。
 数多くの悪を屠ってきた殺しのプロと対峙して、それと戦えと言われた方は、きっと全身が引き攣るものなのだろう。

『試合開始ィィィィ!』

 合図に合わせ、まずは飛び退く。
 何もチンピラごときを警戒などしていない。今のエリサに必要なのは、自分がどこまで鈍っているのか。食事や魔封じの首輪など、能力を封じる措置は解けているのか。その確認をしたかった。
 体は動いた。
 足で地面を押し返し、思い通りの距離まで一瞬で飛び退いていた。さらに試しに飛び上がり、跳躍力を確認する。身長をゆうに超える高さまで舞い上がったことを確かめると、そのままくるりと宙返り、その上で着地してみて、一通りの確認は完了した。
(よし、問題ない)
 実力は発揮できる。
 そこから鈍った分を差し引いた計算で、エリサは自分の能力を把握していた。
(たかがチンピラ。これなら、敵ではない)
 今度は一気に駆けていく。
 相手の強さは既に読めており、細かな戦略や工夫した立ち回りも不要であるとわかっている。このまま正面から勢いよく詰めていき、まずは相手を焦らせた。エリサのスピードは常人離れしており、まばたきする間に一瞬で距離が縮んだことで、チンピラは動揺していた。
 たかが素人の喧嘩レベルとはいえ、修羅場自体はくぐっているはず。
 その程度の驚きからは直ちに持ち直し、すぐに頭を冷やして冷静になってくるだろうが、隙などたった一瞬で十分である。
 エリサは回し蹴りを放っていた。
 上段狙いの、横顔を蹴り抜くための一撃は、鋭く風を切り裂くようにチンピラの頬へと向かって行く。あるいは頬が足を吸い寄せて見えるかもしれなかった。
 チンピラはまだ、驚いている。
 一瞬で距離を詰め、一瞬で蹴りまで放ち、考える暇さえ与えず迫ったことで、エリサはちょうど思考の隙間を突いている。慌ててしまい、上手く動けず、ものも考えられないような瞬間の中を通って、蹴りは顔へと近づいている。
(弱すぎる)
 既に勝負はついていると、エリサは判断していた。
 小さい頃からの訓練と、積み上げた実践経験の数々から、どこをどの程度の強さで蹴れば相手を気絶させるのか、正確に把握している。この一撃でチンピラの身体は横へ吹っ飛び、衝撃で脳を揺らしながら倒れ込むはずだった。
 だが、エリサは驚愕した。
「なっ!」
 蹴りは空振りに終わっていた。
「おっと」
 避けていたのだ。
 背中を反らされ、そのせいでチンピラの顔は足のリーチの届かない距離へ行き――いいや、少し違う。避けたというより、最初から目測を誤って、そもそも空振りに終わっている。辺りもしないキックで足を眼前に差し出して、チンピラは急に目の前に足が来たので、それに驚き咄嗟に顔を引っ込めただけである。
「…………っ!」
 エリサはさっと足を引っ込め、飛び退くことで距離を確保し、湧き出る焦燥を押し殺す。
(何故だ?)
 確かに鈍ってはいる。
 本調子でないのは当然だが、いくらなんでも目測まで誤ることがあるだろうか。
(読み違えたのか?)
 達人は向き合った時点で相手の実力を読み取れる。
 そして、エリサもその域にいるのだが、よほどの演技上手なら、ただのそこらのチンピラのフリもできるかもしれない。
(考えてもみれば、支配人は私の強さを知っているはず。勝負にもならないような、ただのチンピラを当ててくるのも妙な話だ)
 だから第一ラウンドでは適当な雑魚を当て、エリサは強い女であると客席に知らしめた上、第二ラウンドで本命を当てて来る。と予想していたが、このチンピラが実は既に本命なのだろうか。
 エリサに対抗しうる実力者として選ばれて、ここに立っていたとしたなら、今の蹴りをかわせても……いや、最初から当りすらしないと、目測で読めてもおかしくない。
(となると、本来の実力は未知数か)
 相手は本当の実力を隠している。
 演技か何かで己の覇気を押し隠し、強さが伝わらないようにしている。
(向こうの動きはどうだ?)
 今度はチンピラの方から向かって来る。
 その歩き方さえ見れば、足運び一つ取ってさえ、他者の強さを図る要素となる。エリサはチンピラの下半身に注目して、自分に向かってずかずかと迫る歩きを観察するが、特別な歩法など使っていない。
 ただの乱暴な歩き方だ。
 そこに武術的な歩法はなく、本当にただ適当に迫って来ている。距離さえ詰められればなんでもいい、エリサが反撃をした際の、それに対する構えを何も考えていない。隙だらけですらある接近にかえって困惑しつつ、エリサは再び蹴りを放った。
 今度は顎の打ち上げだ。
 向こうが迫って来るのに対して、エリサの方からも距離を詰め、まるで正面衝突のように、ぶつかりかねない密着直前まで攻めてやる。お互いの身体と身体のあいだにある隙間は、僅かに狭いものとなるのだが、その狭い隙間を通した上段蹴りで顎を撃つのだ。
 実際、もし本当に密着手前の距離感だったなら、そこに足を振り上げるスペースなど生まれない。股下に金的を入れることはできても、顎を狙うことは不可能なはずである。しかし、実際には上半身を前のめりに、下半身同士には多少の距離を開けていた。
 距離感を惑わすため、わざと上半身だけを寄せるエリサなりのテクニックだった。
「……っと」
 しかし、膝が自身の身体に触れかねないほど、柔軟性ある脚で高く蹴り上げた時、またしても空振りに終わっていた。
「な、なんだと!?」
 エリサは戦慄していた。
 二度も、かわされた。
 しかも、その動きは適当だった。
「なんだなんだ? すげぇ柔らかいんだなぁ!」
 チンピラは目を丸めていた。
 今の鋭い蹴りをかわせたことに、自分で驚いた顔をして、柔軟性に対しても驚愕する。何か新鮮なものでも見たような目は本物だ。
(……演技か? いや、しかし)
 かわせるはずがない。
 実力者でなければ、反応すら許さないはず。
(どういうことなんだ!?)
 逆にエリサの方が焦り始めていた。
 その後も、エリサは接近と退避を繰り返し、何度も打撃を放っていく。顔面を狙ったパンチ、鳩尾目掛けた肘打ちに、顎や膝狙いのキックなど、数々の攻め手を駆使して、相手の姿勢を崩したり、急所を打って一撃で倒すことを試みる。
 そのいずれも、当たることはなかった。
(何故だ……何故なんだ……)
 チンピラからは、未だに実力が感じられない。
 おかしい、何かおかしい。
 実力者がそこらのチンピラを演じ、わざと適当な動きをしながら、いかにも素人らしく逃げ回る。慌てふためくような落ち着きのない回避ばかりを繰り返し、絶妙な具合でチンピラであり続ける。
 その演技を一体いつまで続けるのか。
 いいや、どうして演技の必要があるのか。
 多少は強いチンピラあたりの実力に見せかけて、本来の能力を隠し続ける意味は何かあるのか。攻撃は一向に当たらずに、その理由もわからない状況に、徐々に焦燥が膨らみ始めていた。



 
 
 

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