第12話「処置室へ」

前の話 目次 次の話





 六月、初旬。
「もう、か……」
 処置の時期が決定され、六月から八月のあいだまでには妊娠をするように、梓川夢音の運命は決定された。
 処置室は地下にある。
 部屋の場所がわかりやすいと、そこに出入りする女子生徒の姿を目撃した生徒は噂を立てるだろう。そんな配慮から、そこそこに人の出入りはあるが、目立ちすぎることのない保健室の、さらにドアを開いた地下階段を降りていけば、壁や床がコンクリート造りとなった無機質な廊下が続いている。
 長い一本道が数十メートルは続く廊下には部屋番号の札がかかったドアがあり、この内側で処置は実施されるのだ。
「夢音」
 左手を握ってくる彼の手に力が籠もる。
「俊樹くん……」
 お互い、きっと葬式のように暗い。
 もちろん、わかっていて付き合い続けた。清く健全な付き合いで、少しはいやらしいタッチもあったが、この日を迎えるまでのあいだ、ほとんど真面目に交際した。
 いっぱい、キスだけはしてきている。
 お互いの舌を貪り会うような激しいものまで、目一杯に愛し合ってきた二人のあいだには、確かな絆が結ばれている。
 だからこそ、わかる。
 無表情に見える俊樹だが、本当は胸を抉り抜かれるような痛みで苦悶している。それは夢音も同じであり、窒息しそうな苦しさで息もできない。
「俺達の気持ちが強い証拠だな。でなきゃ、こんなに痛くない」
 手を繋いだ方とは逆の手で、俊樹は胸に手を当てていた。
「うん。でもね、後悔はしてないよ」
 夢音も自分の胸に手を当てる。
「俺も、後悔ってわけじゃない。傷つくのも上等、愛し合ってやるって、ずっとそんな感じだった」
「楽しかったよね」
「ああ、楽しかったし、今後も楽しもう」
「うん。処置が全部終わったら……」
 そうすれば、性の自己決定権は晴れて本人に回って来る。恋人とのセックスが法で縛られることはなく、堂々と肉体関係を結べるのだ。
 そのための手続きだと思おう。
 そう思うことで、心の均衡を保とう。
「着いちゃったな」
 とうとう、指定の部屋番号に到着した。
「ずっと着かなくてよかったのに」
「ああ」
「入らなきゃいけないんだね。この部屋に……」
 ここに担任の先生が待っている。
「本当は行かせたくない」
「制度じゃなかったら、俊樹くんなら私のことを攫ってくれるよね」
「まーな」
 俊樹はそういう人だ。
 転校初日でクラス全員の前で宣言を行い、先生に腕を引っ張られた時も、声をかけて止めてくれた。だったら、制度でさえなければ、きっとこれから一緒に逃げる。
 でも、逃げられない。
 ミイラ症の恐怖が頭を掠める。みるみるうちに人が干からび、死んでいく様を目撃したショックは、本当は今でも胸に残っている。
 その恐怖がある以上、行くしかない悲しみばかりが溢れてくる。
「そろそろ、行くね」
 夢音がそう言った瞬間だ。
「夢音!」
 俊樹は急に夢音の腕を掴み、強引に引っ張っていた。夢音のことを壁に押しつけ、力尽くで奪うかのように、突然の獣となって唇を貪っていた。
「と、俊樹……く……んっ、んちゅぅ…………」
 舌をねじ込み、唾液を流し込んでくる激しいキスも、もう初めてではない。最初は驚いた夢音も、すぐに目を細めて受け入れて、自らの舌を差し出す。
 長い、長いあいだキスをした。
 もしかしたら、これだけで一時間は過ごしてしまったかもしれないほど、本当にじっくり貪り合い、やっとのことで顔を離すと、俊樹の口周りは唾液まみれだ。
「よごれてるよ?」
 ヨダレを注意するなんて、子供に注意をするかのようで夢音は苦笑した。
「夢音こそ」
「ばか。よごしたのは俊樹くんだよ」
 夢音はすぐにハンカチを出そうとするが、その前に俊樹のハンカチが現れて、人の手でヨダレを拭いてもらうことになる。
 自分の方が子供みたいなことになってしまった。
「俺の痕跡を付けた」
「……うん」
「拭いておくけど、染み込ませた」
「染み込みました」
「約束する。処置の最中もお前のことは好きだし、全てが終わったあとも、ずっと一緒にいよう。高校生になっても恋人同士でいよう」
「約束だよ? 俊樹くん」
「ああ」
 今度こそ、夢音はドアの前に立つ。
 ドアノブに手を伸ばしかけ、しかし最後にもう一度だけ、俊樹に熱っぽい視線を送って、目で唇を求めていた。
 お別れの挨拶として、軽いキスで唇が触れ合う。
「また、明日ね? 俊樹くん」
「また明日」
 別れを済ませ、今度は本当にドアノブを掴んだ夢音は、あの担任が待つ部屋の中へと入っていく。ドアが閉ざされる最後の一瞬まで、本当に最後まで夢音のことを見送る視線に振り向き、夢音は微笑みを返していた。
 妙な疑問だ。
 戦争に行くわけでもないのに、必ず生きて帰りたい、おかしな気持ちが湧いている。生き死にのある話ではないのに、まるでもう二度と会えないかもしれないような、それこそ俊樹がアメリカへ行ってしまった時ほどの悲しみが溢れてくる。
「ああもう、やだな」
 頬に流れる涙の粒を指で拭う。
 そして。
 担任、稲田源一が待つ場所へと夢音は進んだ。