第2話「催眠」

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 父親の名は蓮野健太。その娘は麻里。
 会社勤めから定時で引き上げ、夜八時には家に到着している健太は、麻里の用意した晩御飯をテーブルで一緒に食べる。
 娘の顔を見ながらの食事は、楽しみであって楽しみじゃない。
「野菜炒めか」
「別にいいじゃん。人がなに作ったって勝手でしょ? 文句があるなら、お父さんが自分で作ればいいんじゃない?」
 別に欠片も文句はない。ただ野菜炒めが皿に盛られたので、ああ今日のメニューは野菜炒めなんだなと、それ以上でもそれ以下でもない呟きだったのだが、そのたった一言をこぼしただけでこの言いようだ。
「今回は醤油の味付けだなと」
「はいはい。悪かったですね。先週と同じ代わり映えのないメニューで」
「だから文句が言いたいわけじゃないんだが……」
「だったら黙って食べれば?」
 娘とはいつもこういう具合だ。
 麻里には麻里の勉強や友達付き合いがあるだろうから、食費だけ渡して好きなようにと言ってある。基本的には何か料理を作ってもらいつつ、たまに面倒になって手を抜きたくなる気分の日は冷凍だろうと惣菜だろうと、適当に買ってきたもので構わない。何ならカップラーメンでも良いとは言ってある。
 それで本当にカップラーメンが出てきたことが、過去一度だけありはしたが、基本はちゃんとした料理である。
 父親としては感謝の限りだ。
 それに毎日ご飯を作っていれば、次は何を作ろうかとメニューに迷うことはしょっちゅうらしい。妻と結婚して麻里を生んだ以上、それくらいの理解はしているつもりだし、「何でもいいが一番困るの!」というどこかのドラマで聞いた台詞も妻が生きていた頃に言われてきた。
 妻が生きていた頃が懐かしい。
 ――何でもいいが一番困るっていう台詞ね。結構、本当に思っちゃうのよ。
 と、打ち明けてきた際の会話の思い出が、不意に健太の脳裏によぎった。そう教えてもらうまで、果たして何度「何でもいい」という言葉を使ってしまっていただろうか。
 だから麻里にはなるべく答えるようにしているが、「なんでそうやって手間のかかるものを思いつくかなー」と文句を言う。そう言われても、健太は料理とは無縁で生きてきたから、どんな料理に手間がかかって、どんな料理なら手間がかからないのかはわからない。
 当然、いざ「何でもいい」と言ってしまえば、「は? それが一番困るんだけど?」などと非難の嵐だ。
 リクエストを言っても言わなくても、不機嫌そうで文句たらたらの表情は同じなのだ。
 ならば、手間のかからないリクエストにしてやろうと「野菜炒め」と答えたことがある。一番多い料理だから、もしや最も軽く作れるのはこれに違いないと、我ながら良いアイディアのつもりで言った時には、「他に作りたいものが浮かばないから聞いてんのに、本当にお父さんって使えないよねー」などと、結局のところ貶された。
 完全に詰みだ。どうすればいいのかわからない。
 一度はうどんを快く用意してくれたが、二度目にうどんと答えたときは、「だからアイディアが欲しいから聞いてるのに!」と怒られた。餃子でも春巻きでもマーボー豆腐でも、必ずしも素通りするわけではない。何をどう答えようが一定の確率で機嫌を損ねる。
「学校はどうだ? 今日はなにかあったりしたか?」
「は? なんで?」
「いや、ただの世間話だが……」
「世間話ねえ。会社で部下とすれば?」
 麻里はかなり冷たい。麻里の中での父親の存在はとても低い。
 父親の下着と一緒にパンツを洗って欲しくないというのは、あらゆる漫画やドラマの中でも定番のネタではあるが、家事をする日の麻里は自分で分けて洗っている。健太のトランクスに触るのも、まるで汚いものにでも触れるように、指先でそーっと摘み上げるような持ち方までしている様子は洗濯の際によく見かける。
 あまり父親として尊敬されていないのだろう。疎ましいとさえ思っている。友達との電話やメールは楽しそうでも、健太と喋るのは面倒くさそうな顔をする。友達に会いに出かけるときは楽しみな顔をしているが、父親と出かける予定の時はため息を隠しもしない。
 昔はパパと結婚すると言っていたのが、すっかりこれだ。
 所詮、どこの年頃の娘だろうと、等しく父親離れをしてしまうものだろうか。

     ***

 よく懐いてくれたのは小さい頃の時だけで、大きくなればなるほど愛想は消え、話しかければ刺々しい苛立ち気味の声が返ってくる。
 それだけに、可愛かった頃の思い出は時折よぎる。
 小さい頃に一緒に行った女児向け映画では、劇場でマジカルライトというものが配られ、アニメ作中のキャラクターが劇場鑑賞者に向かって呼びかけてきた。
『このライトを使って応援してね?』
 と、そういうコンセプトだ。
 邪悪な敵と戦って、ピンチになった変身ヒロインを不思議なパワーで応援する。すると傷づいていたキャラクター達は、たちまちエネルギーを回復させて大復活。劇場に来てくれたみんなのおかげで勝利する。
 そんな映画で嬉しそうにライトを振っていたのは、七歳の頃までだったか。歳をとるなり別のアニメにハマったり、漫画を読むようになっていたり、すくすくと成長していく娘の姿を見守るのは生きがいだった。
 しかし、麻里が小三だった時期に妻が亡くなった。
 結婚前から持病があって、心臓が弱いことは知っていた。学生時代に交際を申し込んだら、そういう事情があるから長生きするかはわからない。もしかしたら先に死ぬかもと、もちろんいきなり結婚前提なわけがないのだが、仮に長続きすればいつかは視野に入ることだから、交際直前のタイミングで打ち明けたというわけだ。
 そして、妻は本当に病に倒れ、病院生活を続けた果てに遠くへ先立った。家族を失う虚無感を味わいながらも、これからは自分一人で麻里を育てていくのだから、延々悲しんでばかりはいられない。
 だが、わからなかった。
 お母さんのことが大好きで、それなのに自分だけ残されて、何日経っても何週間経っても元気にならない麻里の姿が、あまりにもいたたまれない。いつ何時でも悲しそうで、今にも後を追いそうな雰囲気にすら見えた麻里のことが放っておけずに、健太は自分なりにどうやって娘を元気にしてやればいいのかと考えた。
 初めは自分で考えた言葉で励ますが、悲しそうに笑うだけで元気にならない。逆にいつまでくよくよしているのかと叱ってみれば泣き出して、次の日には姿を消した。無闇な説教をしたせいで、麻里は人生でたった一度の家出をしたのだ。
 幸い無事に保護され戻ってきたが、「お母さんが見つからなかった……」と、そんなことを口走って泣いていた。母親の死を受け入れられられないあまり、探せば見つかるに違いないとまで思い込んで、それで帰って来なかったのだ。
 衝撃を受けた健太は、とうとう専門家を頼ることを考えた。

 ――催眠療法というものがあります。

 とある一人の男が、まるで魔法のように元気を取り戻してやれると豪語してきた。

 ――私の教える通りにして下さい。
 ――このランプを使って、じーっと火を見つめさせるんです。
 ――それから……。

 レクチャーを受けた健太は、さっそくのように麻里に試して、すると病人じみた元気の無さは嘘のように晴れ晴れとしていった。

 何故だ? 本当に魔法じゃないか。

 ――そうです。魔法なんです。
 ――どんな言うことでも聞くようになりますよ?
 ――どんなことでも……。
 ――悪用しないで下さいよ?
 ――ヒッヒッヒッヒッヒ……。

 今思えば、彼はとても不気味な男だった。
 白髪に白衣というだけでなく、どこかイカれていそうな顔立ちは、実写映画に登場するマッドサイエンティストのそれを彷彿させた。
 だからこそ――。

 ――悪用しないで下さいよ?

 そこには恐ろしい説得力があった。
 悪用だと? 悪用すればどうなる?

 ――どんな言うことでも聞くようになりますよ?
 ――どんなことでも……。

 それは健太の父親としての良識を蝕んだ。
 健太自身も精神的に参っていたのだ。夫として共に歩んできた女性を失い、体を半分失ったと例えても過言でないほどの喪失感に見舞われながら、休む間もなく泣きむせぶ娘のケアへの苦労であり、そんな最中であろうと会社では容赦なく仕事が溜まった。
 精神的にも肉体的にも疲労が溜まっていたことは間違いない。
 だからこそ、健太の中では邪念が揺らいでいた。
 娘は、妻に似ていた。
 妻はとても黒髪の綺麗な女で、まるで濡らしたてのように艶やかな光沢を放つ髪質は、手櫛の指があまりにもさーっと通り抜け、とても柔らかくほぐれていく。麻里の髪はそれと同じ質感だった。
 大きくなれば、麻里はもっと妻に似る。
 妻はどちらかといえばおっとり屋で、教室で静かに本を読んでいる口数の少ないタイプだったが、その目つきはどこか鋭く意思が強い。時には何かを貫きそうなツリ目となる。そんな目の形も麻里は立派に引き継いでいた。
 ああ、そうか。
 考えてもみれば、麻里は妻から生まれたものだ。妻の血と肉で出来ていて、ある意味ではその生き写しといってもいい。
 そのことに気づいて、健太は初めて娘に性的興奮を覚えていた。五年生で発育も始まって、すぐにでもブラジャーが必要になるであろう胸の膨らみを見るに、いずれ妻と同じ美乳へと育つのだろうと感じてそそられた。
 健太は催眠を悪用してしまった。
 娘とは親孝行をするものであり、うちのルールではお父さんに胸を揉ませる。尻だろうとアソコだろうと、お父さんが触りたいといったら触らせる。だけど、そのことは決して他所に話してはならない。
 麻里の脳髄に刻んだのは『ルール』だ。
 これは家のルールだから、お父さんの言うことだから絶対である。他所にはそんなルールはないかもしれないが、うちはうち、よそはよそ。家庭のルールは家庭によって違う。だから何もおかしくないんだと暗示をかけた。
 もしかしたら、愛想を良くしろ言えば良くなるのだろうし、妻と同じおっとりとしていながらも強いときは強い性格になれと暗示をかければ、そのようになるかもしれない。
 しかし、人格に影響を与えすぎるのは怖い。
 日頃の態度はこんなものだが、おかげで過剰すぎるほどのスキンシップが行えるから、まあ満足はしていた。