校長の脅迫/犬のお散歩 02

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 ぺたり。

 ひんやりとした廊下の床に、手の平を二つ置く。四つん這いのまま足を進め、麗華はいくつもの感情の縄に胸の中身を絞めつけられた。喉をきつく縛りあげる見えない何かが、麗華をひどく息苦しくさせていた。
 まず、この首輪で繋がれた状況そのものだ。
「うーん。やっぱり、こうして眺めるお尻っていうのは、なかなか実に素晴らしいものがありますねぇ?」
 まるで品評家が芸術を語る時のように、校長が麗華の尻を眺めてニヤけている。
 校長は麗華に前を歩かせ、歩行に伴いプリプリ動く尻たぶを楽しんでいる。犬が前を歩くのが普通だからだ。そして上から背中を見下ろして、さぞかしいい気になっている。
 人をこんな風に扱えるなど、どうかしている。
 頭の血が沸騰して、今にも爆発してしまいそうだ。
「こんな大型犬が欲しかったんですよ。ははっ、最高最高」
 肌に巻かれた首輪の感触と、リードを握る人間がこんな男であることが信じられない。
 殺したい! 殴りたい!
 それが出来たらどんなにいいか……。
 女の身とはいえ、鍛え抜かれた麗華であれば、素人にすぎない校長を沈めるなど本当は造作もない。剣道部で全国優勝を果たす実力もそうだが、麗華の武力は単に競技上のものだけではない。実際に喧嘩沙汰になり、相手を気絶なりさせる必要性が出来たとしても、麗華には実践的実力があるのだ。
 だというのに、立派な性犯罪者を相手に正当防衛のチャンスさえも与えられない。
 それがどんなに歯がゆいことか。
 暴力で、蹴るなり殴るなりして解決という発想が、安直なのはわかっている。過剰防衛という言葉もある。だが、自分の身がこんな状況下に置かれ、それが許されればどんなにいいかと考えるのも、自然な心の動きに過ぎなかった。
 抵抗できず、受け入れるしかない。
 それは人権を取り上げられた気分そのものだ。
「四足歩行のお尻っていうのは、とても良い眺めですよ?」
「……知るか」
 麗華はぐっと頭を下げ、床だけを見つめながら歩いていた。
 今日は他の教員や生徒がいないという話だが、例えそれが事実としても、気が気でない。本当は誰かに見つかるのではないかと、焦燥にかられてしまう。
 ガラン。
 と、今にも教室の戸が開き、こんな事をしている麗華の姿を目撃するのではないと大いに不安だ。嫌な想像に限って頭の中を占領し、そして不安が心臓を打ち鳴らす。
「ほら、歩く際の足って前後に動くでしょう? 太ももとお尻は繋がっているでしょう? すると、お尻の丸みも四つん這いだと上下プリプリなんですよ」
 大きな声で平気で語られ、麗華の不安は増幅していた。
 苛立ちも、屈辱も、恥ずかしさも、全てが増幅した。
「ペラペラと」
「ん? どうしました? 麗華さん」
「人にこんなことをさせて、さぞかし満足だろうが」
「……はあ」
 校長のとぼけたような声。
「散歩くらい、黙ってやったらどうだ」
 唯一可能な、言葉と態度による反抗で、その口だけでも閉じてもらえないかと、怒気の篭った目で肩越しに睨む。ニヤニヤとした校長と目が合うと、校長は大げさに肩を竦めた。
「そんな勿体無い。そのふんわりとしたお尻を褒めなくて、一体どうするんです? 綿みたいに柔らかそうな白い色艶が素敵じゃないですか。プリっとして肉厚なのが見てわかります」
「だ、だから……」
「それに、麗華さんとお喋りをするのも、なかなかオツでいいもんです。ほら、普通は犬語なんてわからないでしょう? 犬と会話をしながらする散歩って、貴重な体験じゃないですか」
「うっ……!」
 麗華は泣きたいほどに顔を歪めた。
「あなたは賢い大型犬ですから、今みたいに人間相手に意志を伝えられるわけです。全く、これが楽しい」
 校長はあくまで、麗華が動物だという前提なのだ。まるで本当は犬の鳴き声が出ているだけで、賢い犬だから犬語で意思を伝達できる。動物と人間の意思疎通が成立する。そういう設定のごっこ遊びで、麗華は本物の犬ということにされている。
「くっ――こっちは全然楽しくない!」
 自分が情けなくなった。
 麗華の喋る全てが、校長の中では「ワン!」という鳴き声に設定されている。
 惨めな役柄のあまり、いっそ死にたくさえなってくる。自殺など本当には実行しないが、舌を軽く噛んでみる程度のことはしてしまった。
「ほら、麗華さん。止まらないで歩きなさい」
 人間の黒崎麗華としてではない。犬にそういう名前をつけ、校長の中では渾名を呼んでいることになっている。完膚無きまでの犬扱いに、もう上を向けなくなった。
 本当に床だけを見つめたまま、麗華は進んだ。
「床をクンクンする姿、いいですねえ?」
 言われた途端に反発が沸き、麗華は瞬時に頭を上げて前を見るが、気分は下を向いたままだった。
 二階の廊下を渡りきり、階段を上っていく。膝の置き方に若干戸惑い、少しだけ苦戦しながら段を進んで、三階の廊下へ到着する。
 三階は三年生の階である。すなわち、麗華の過ごす教室がこの廊下の先にある。
「えーと。とりあえず、黒崎麗華って子のクラスにでも行ってみましょうか。場所はもちろんわかりますね?」
「…………」
 麗華は何も答えない。
 ただ、無言で足を進める。
 すると、リードを軽く引っ張られ、校長はいきなり止まるように言ってきた。
「返事はワンでしょう?」
「はい?」
 思わず声に敵意を込めていた。
「イエスかノーで答えられる質問には、イエスの時は『ワン』と返事をしてもらいます」
「くぅ……! 人をこれだけコケにしといて、まだ落とし足りないか!」
 麗華は喚いていた。
 校長の中だけで喋り声を鳴き声に変換される分には、麗華が実際に鳴き真似をする必要はない。その意味では、米一粒程度にはマシだった。
 しかし、今度は本当の鳴き真似を要求している。
「さあ、ワンと言ってみて下さい?」
「こ、このぉ………………」
 とても言えなかった。
 人権を奪われ、尊厳を剥奪され、その上さらに何かを失うような気がして口が固く結ばれる。気がつけば、自分でも驚くほど唇は固く閉じられ、内側へ丸め込まれていた。
「どうしたんですか? 麗華さん」
「…………」
「言わないと、大変なことになりますよ?」
「………………」
「写真、流してもいいんですか?」
「それは……」
 頭ではわかっている。
 校長の言う事なら、どんな事でも従わざるを得ない。自分の状況など重々理解しているつもりだが、この犬の役とて、まともなごっこ遊びではない。校長にとっては正真正銘、麗華は犬にされている。その上、自分でも犬を演じれてしまえば、もうそういう事にされてしまう。
 ただマニアックなプレイに付き合うのではなく、本当のペットと飼い主の関係が成立する。
 ワンと鳴くか鳴かないかが、その最後の防衛線のように思えて躊躇いは強かった。
 だが……。

「…………………………わん」

 本当に小さく小さく、蚊のような声で麗華は言った。
 このまま言わずにいれば、校長は携帯でも取り出して、今すぐに後輩の写真をバラ撒くと言うだろう。今でなくとも、後でバラ撒くと言うだろう。こうしていても、要求を取り下げてはもらえない。
 抵抗権がないことはわかっている。
 それこそが、人権の無さ。
 どんな大きな屈辱を飲み込んででも、こうなったらたかが二文字の言葉くらい、言ってやる以外に道はない。
「聞こえませんよ?」
「――ワン!」
 苛立ちに任せて、大きく鳴いた。
 その瞬間、手続きが完了して思えた。
 心の中では断じて認めていない事だが、書面上は主従関係が成立し、本当に自分がペットになった感覚がした。
 麗華は犬だというルールが生まれ、本人の認める認めないに関係なく、ペットと飼い主という事になった気した。その見えない鎖に喉を縛られ、息苦しい。まるで本当に呼吸困難になったような錯覚を覚えていた。
「もう一回!」
「ワン!」
「クラスまで行けますね?」
「……ワン!」
 もう泣きたい。
 こんなにも服従させられている自分が、あまりにも悲しく思えて泣けてくる。
「では行きましょう」
 本当に涙目になりながら、それでも涙を堪えて前へ進んだ。
 プリッと動く美尻を無様に見せつけ、拷問的な精神の苦痛を堪えて手足を動かす。手の平をぺたりと置き、膝を前へ動かすたびに、針山を歩くようなありもしない激痛に悶絶した。
 一歩一歩が本当に痛い。
 拷問を受けた被害者さながらに顔を歪めて、いっそ自殺したい気分で歩き続けた。麗華の性格で本当に自殺はないが、死ぬ想像くらいはしてしまっていた。
 死んではいけない。
 麗華は自分に言い聞かせる。
 こんな男を野放しにしておいたら、この心の激痛をまた別の誰かが味わうはずだ。自分はまだ、肛門の皺を数えられても意地でも折れない性格だが、もっと気弱で折れやすい子がこうした目に遭ったらどうなるか。
 自分の打たれ強さを持ち上げたいわけではないが、ここまでされたら本当に死ぬ子がいるかもしれない。
 校長を許すべきではない。
 犬と飼い主の関係も、必ず破棄できる時がくる。
 自分の胸に炎を点すことで苦痛を和らげ、必ず逆転してやるという、もう何度したかわからない決心を更に改め、心が死なないように維持していた。それはまるで、瀕死寸前の延命治療をしている気分だった。
「いやぁ、本当に楽しい。私は子供の頃は犬が怖い時期がありましたけど、今ならワンちゃんを欲しがる人の気持ちがよーくわかりますよ」
 そうやって言葉を口にし、惨めな思いをさせたいがために喋るのだろう。
「……」
 麗華はなるべく聞かないようにして、黙って床の景色を眺めてみた。廊下の微妙な模様が流れていくのを、無意味に見つめて歩いていた。
 たまに横を見上げてみて、クラスの表札を観察する。
「何も答える事がなくても、相槌でワンって言うんですよ」
「……ワン」
 別に体力など有り余っていたが、やけに疲れた声が出た。
 こいつのせいで、とんだ心労だ。
「元気がないですねぇ?」
「誰のせいだ」
「そうだ。語尾にもワンってつけましょう!」
「冗談じゃない」
「その台詞にさっそく!」
「冗談じゃない…………わん…………」
 特殊な語尾を付けて喋るなど、言ってみればダサい。裸を見られるよりも、もっと別の意味で恥ずかしい気がして、無意識に声が縮まっていた。
 自分のクラスの表札が見えて、麗華は戸の前へ立ち止まる。
「ここですか?」
 イエスで答えられる内容は『ワン』だったか。
「ワン」
 頷く意味で、言ってみる。
 嫌々ではあるが、言わなければ訂正を要求される気がした。
「だったら、早く入りましょう。麗華さんでも戸ぐらい開けられるでしょう?」
 確かに、犬にも戸の開閉はできるのだろう。
「くっ、うぅ……」
 本当に徹底した動物扱いに、怒りに息を荒くしながら手で戸を引く。
 全裸で、リードなんかを繋げられた状態で、麗華は自分の教室へと足を踏み入れる事となった。
 床のタイルを手で踏んで、ペタリペタリと入っていった。