第9話「ノーパンチャレンジ ①」

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  佐藤順は早起きだ。自然と早朝に目が覚めて、夜も早めに眠くなる。早寝早起きの生活リズムを送っているので、登校で家を出る時間も早かった。
 だから遅刻はまずしない。徒歩通学で家から十分以内の距離ということもあり、順は誰よりも早く教室に着く。一人で本を読みながら友達が来るのを待ち、ある程度人が来てから、仲間とのお喋りに興じるのが日頃のパターンだ。
 この時間の通学路は、夏の迫る六月後半の時期としては涼しい時間帯にあたる。人の気配も昼や夜より薄く、ガードレールの内側を通る通行人の姿はかなりまばらであった。
「はぁー」
 静かな通学路で、順はなんとなくため息をついた。
 昨日のことを思い出しているのだ。
 補習授業の水泳で美東一菜の肉体を間近で見た。下着と同等の布面積しかない白い水着で肌を晒して、そのお尻を至近距離からたっぷり拝んだ。生の乳房を凝視して、乳首の色や胸の形状を頭に焼き付けた。
 その体験は高校一年生の順にはかなり衝撃的で、忘れられないものだった。
 あのあと、帰宅した順は衝撃に胸を揺さぶられた状態で、勉強が一つも手につかなかった。部屋で一菜先生の裸を思い出しながら、何枚ものティッシュを消耗した。
 全ての光景が鮮明に頭に残り、今でもはっきりと一菜先生の体を思い起こせる。目の前でフリフリされたお尻、自分の胸を触り、恥じらいに口元を歪めた表情の数々、乳首の微妙な色合いは肌付きまで、全てが正確に記憶されている。
 下手にそれらを回想すれば、こんな道端で勃起しかねない。
 だが、それではいけない。
 教師が生徒に胸を見せたなど、そんな事がバレて一番困るのは一菜先生だ。順が慕いに慕っている憧れの先生が、まさか処分でもされようものなら、後悔してもしきれない。
 何があっても、あのことは口外しない。
 順の決心は固かった。

「あら、おはよう」

「せ、先生!?」
 道端で当の先生と出くわしたのはその時だ。後ろから追いついてくるようにして、急に隣に沸いて現れたので、まずは驚きで声が悲鳴じみてしまう。
 だが、順は即座に反省して頭を下げた。それは純粋に人がいきなり現れたことへの驚きだが、人の顔をみて過剰に驚いてしまった無礼に変わりはない。
「あっ、すみません! いきなりでびっくりして、ちょっと考え事の最中だったので直前まで気づかなかったというか」
「何を言い訳しているの?」
 順は早口で並べ立てるが、当の一菜がそれを全く気にしていない。一菜からすれば、やけに反応が大げさだったな、くらいにしか感じていないようだった。
「あ、いえその。先生に会えて、ラッキーだなって」
「反射的に声が出るほど喜ぶなんて、リアクションが豊かで素晴らしいわ。私にはそういうリアクション芸はインプットされていないから、お化け屋敷で脅かされても悲鳴が出ないの」
「いや、芸ではないんですが。お化け屋敷とか行ったことがあるんですか?」
「中学時代に遊園地に行く機会があって、その時に入ったのだけれど、所詮は人間が演じたり仕掛けを作っているにすぎないものに対して、どうすれば恐怖を感じることができるのかが理解できなかったわ。あれを怖がるには、怖がり屋さんとしての素質がいるのではないかしら」
「そこまで何ともなかったんですか? 出来のいい奴はいっぱいあるとか聞いたことありますけど」
「色々と工夫を凝らして見えはしたけれど、普通に素通りしてきてしまったわ。どんなにそれっぽく見える幽霊も、稽古を積んだ人間が演じているにだけかと思うとね。ただ私以外の客はだいたい悲鳴を上げていたし、仕事の質が高かったというのは事実かもしれないわ」
 確かに一菜先生ならそうかもしれない。何につけても、彼女は表情や感情的変化に乏しい。
 クラスの悪戯男子が教室の戸に黒板消しを仕掛けた事があるのだが、仕掛けに気づいた先生はそれを無言で取り外した。しかも特に何も注意せず、さも何事もなかったように出欠を取り始めるのだ。
 古典的でありがちなトラップについて、先生は一切触れることがなかったので、逆に煮えを切らしたのか。犯人は自ら名乗り出て、自分が仕掛けたと自白した。
「よく気づきましたね。先生!」
 自白したからといって反省したわけではなく、単に自分の悪戯に触れてもらえないのがつまらなくて、何としても先生からの反応をもらおうという足掻きに近かった。
「……?」
 無言で、先生はポカンとしていた。
 だから何? と、言わんばかりの顔だった。
「他の先生は引っかかったんですよ? 先生! なんかもっとこう喋りましょうよ!」
「えー」
「言葉のキャッチボール!」
「私から言えるのは、ただ戸に挟むだけでは稚拙だという事くらいよ。人にトラップを仕掛けるのなら、研究と実験を重ねて試行錯誤したものを設置し、より確実性の高いものを仕掛けるのでなければ評価できない。幼稚園児の落書きを提出されたとして、そんな絵に点数をつけろと言われても困るでしょう? あれでは評価を下す段階にすら至っていない」
 もっとノリの良い教師なら、おいおい後で覚えとけ? と冗談めかして言うような、ちょっとした場の盛り上がりのきっかけになっていただろう。
 一菜先生が言い出したのは、稚拙な罠では評価できない、評価が欲しければより質の高い罠を開発して実践せよ。ということなのだ。
 教師としての一言の注意もなく、変わりにあったのは、研究不足だからもう少し頑張りなさいといった低評価。この切り替えしに悪戯男子は何も言えずに座り込み、担任の変人ぶりになんともやるせない顔をしていた。
 一菜先生にはそういうズレがある。
 あの流れなら、あの罠には悪戯をして構ってもらおうという狙いがあったことが普通は読み取れる気がする。それを本当に素で、一菜先生は淡々と評価コメントを述べたのだ。
 思考回路がずれている。
 だから一菜先生の頭の中は、一般的なそれとは違う。可愛いものを見て怖いと言い出し、醜いものを見て格好良いと言い出しかねない。そういう人間的ズレを持っている。
 そんな先生がお化け屋敷へ入ったとて、万人のように驚いたり悲鳴を上げるわけがないのだ。
 ただ、あればかりは普通に見えた。
 胸を見られて、もじもじと恥らうあの反応――。
 やはり一菜先生も一人の女性で、羞恥心に関しては一般人からずれてはいない。きちんと裸が恥ずかしい人なのだ。
 考えてみれば当たり前だが、実際に赤面しきった顔を見るまでは、もしかしたら全裸になっても無表情でいる可能性をどこか感じていた。
 すると、今の先生の表情は……。
 ふと一菜先生の顔を見て、順は気づいた。隣に肩を並べる彼女の顔は、どこか薄っすら火照っている。モジモジしたようにフレアスカートの丈を握って、下半身を気にしているように見えなくない。
 さすがに気のせいだろうが、乳房を拝んだときの昨日のあの表情に少し似ていた。
「また見たい?」
「えっ」
 順はドキンとした。
「というジョークを思いついたのだけれど、これは年下のウブな少年をからかうために使えるかしら。あなたはどう思う?」
 冗談ならいいのだが、本人の自己申告がなければ本気か否か全く判別がつかなかった。そんな事を言われた順としては本当に驚いて、そして冗談に過ぎないことが少し残念になった。
「えーとですね。そういうのって、男を魅了する魅惑的なお姉さんがやることだと思います。いわゆる痴女とか、魔性の女みたいな人達が。先生はそういうキャラとはかけ離れていて、向いていないのではと」
「それなら仕方がないわ。この案は破棄する」
「使う予定があったんですか?」
「ないわ」
「ないなら試さなくたっていいじゃないですか」
 少しでも期待してしまった順にしてみれば、あれは面白くない冗談である。
「本当は本気にした?」
「してませんから!」
 順は全力で否定した。
 その反面、こうしてたくさん喋れることがなんだか嬉しい。
 妙に一菜先生とは話がしやすい。順はどちらかといえば常識的部類に入り、彼女に通じるようなずれた部分は持ち合わせていないのだが、それでも不思議と波長が合う。
 好きな先生など、学校に一人はいるものだ。何となく好意を抱いて、親しみの沸く相手は小学中学の頃にもいたが、一菜先生は過去の好きだった先生達と比較しても、頭一つ飛び抜けている存在だ。
 高校卒業までのあいだだけ、なんだよなぁ……。
 と、まだ入学から数ヶ月でありながら、ぼんやりとそんなことを思ってしまった。